12 かつての恋
ベートーヴェンが作曲した『熱情』は、ピアノソナタの中でも特に有名で、俺の好きな曲の一つだ。
慎一が、高校一年になったばかりの発表会で弾いていた。なかなか良かった。まだ音楽の深みなんて、出したくても出せない年齢だろう。不満ではなく、歳を重ねての演奏をまた聴いてみたい。それを楽しみにさせてくれる、好印象の残る若者の演奏だった。
るり子が弾いてくれた『熱情』は、俺の為だけのもの。最後の音が鳴ってしばらく、リビングにはその響きの余韻に包まれた。立派なホールではなくとも、熟練されたプロの指先で、美しい残響が部屋の空気や肌を包む。「ブラボー」なんて言葉さえ不要だ。
俺はそっと近づき、るり子を後ろから抱きしめた。
「マキくん、聴いてくれて、ありがとう」
普段のるり子を知る人は、こんなに柔らかく消え入りそうな声色を知らないだろう。キスをしながらベッドになだれ込んだ。
もちろん、互いに歳を重ねた。いつまでも綺麗なるり子に、今でも満足している。終わった後、急に最後の力を振り絞るかのようにガバッと起き上がって、パパっとパジャマを着て寝てしまうところは、かなり笑えるが。それとて不満でもない。好きになった人がタイプの女だ。
朝まで素肌のままでいたのは、最初に抱いた時だけだ。翌朝のるり子は色っぽくてよかったな。
るり子の前にも、好きな女がいた。女は周りにたくさんいる、というより群がってくるという感じで、こちらから好きになる暇がないくらいだった。
本能的に、敵を作りたくなかった。例え味方が誰もいなくても。
四人の兄達が通った私学に、数年遅れて入学した俺は、いつも学校中の先生方から特別な目で見られていたように感じていた。小学校に上がった時、中学に上がった時、あからさまには言わないが、あの兄弟の末っ子かと興味本位の視線。見られている気配は、どこにいても、いつも感じていた。この名字、兄達との違いだろう。隠すつもりはないのに、直接聞いてくる人はいなかった。
俺は私学の幼稚園からずっと上がってきた数少ない生徒である。進学する度に新しく入学してくる生徒が多く、文武両道を謳う、全体的に活気のあるマンモス校だった。
身長が高かったから、たくさんの運動部に声をかけられた。中学まではあちこちの運動部に所属したが、高校では真剣に勉強しようと決めていた。
兄達は優秀で、特進クラスから地元の国立大学に進学した。俺も特進クラスに希望を出した。成績で分けられるわけではなく、希望する進路の勉強をするためのコース分けだ。
俺は兄達ほど勉強ができなかったが、他人から比べられることには慣れていたし、父親は泰然自若であったから、劣等感はなかった。それはそれとして、勉強はできるようになりたかった。そして部活動には入部せず、勉強することにした。
部活動見学週間があり、入部するつもりはなかったが、今まで縁のなかった文化系の部活動を見学した。音楽系はレベルが高いと評判で、学校行事の度に聴いていたから、美術部に行ってみた。
個人でそれぞれの創作をしていた。音楽系の活動場所と離れた場所だったから、静かだった。こういう雰囲気は嫌いじゃない。部員は物静かな女子ばかりで、俺が部屋に入っても特に何も起こらなかった。それが、とても居心地が良かった。ただ、俺は絵心なんてない。観るのは好きだが、描きたいわけではなかった。
「あら、意外なお客様ね。入部希望?」
美術部の顧問は気のいい先生で、俺に屈託なく声をかけてきた。
「いえ、ちょっと見学したかっただけです」
「どうぞ。ごゆっくりね」
俺は、ある女子の背中の向こうで息づいているような、制作中の風景画に目を奪われた。そこから風が吹いてくるような気さえした。
邪魔にならないよう、斜め後ろあたりから見ていた。
その女子のことは知らなかったし、そんなに興味があったわけではない。最初に気になったのが絵だからだ。好みの絵だった。
家にある美術大全集なんて、小さい頃から何回見たかわからない。その中で、多少好きな系統はある。だが、特別好きって程でもない。広く浅く何でも好きだった。
その女子が描いているものは、光の感じが明るくて綺麗だった。
少し長い時間、近くに居すぎただろうか。黙って立ち去るのも感じが悪いかなと、その女子に声をかけてみた。
「ごめん。見てて嫌じゃなかった?」
「えっ?あ……先生かと思った。いつも、何も話しかけないでくれるから、あの……」
俺の気配を先生だと勘違いしていたのか。急にまごまごしだして、ちょっと可笑しかった。ひらひらと振った手が慌てて、側にあった絵筆を落とした。
「あっ、ごめん」
俺はすぐに拾おうとしたが、
「汚れちゃうから!」
俺に触らせまいと、すごい勢いで自分で拾った。
その拍子に肘が当たって絵の具がバラバラと散らばった。
「驚かせてごめん」
俺は落ちた絵の具を拾い集めた。戻す場所がわからなかったから、自分の手の中に集めて差し出した。
彼女は驚いていた。
「ありがとう。……こういう時、よく……適当な場所に戻してくれるんだけど、私……戻す場所、決めてあるの。絵の具の順番があって……だから、ありがとう」
俺は、そんなことを知らなかったけれど、そんな他人にはわからないような細かいことを自分で持っているというのが好ましく思えた。俺が差し出した両手の中から一つずつ絵の具を箱に戻していく、彼女のことを見つめていた。肩にかかるくらいの髪が、たまに手に触れたし、バラバラになった絵の具を戻すのに、そんなに時間がかかるか?というくらい長い時間に思えた。俺のことも知らないみたいだし。あたりまえか。俺は高校に上がったばかりで、彼女は内部進学した高校のリボンではなく、外部から進学してきた二年生のそれをつけているのが、ガウンの隙間から見えた。
「また、見にきてもいい?」
「あ……入部希望ですか?」
「入部は、検討中だけど」
「……どうぞ」
美術部でなく、彼女の絵が見たいだけだと自覚した。彼女本人のことも、気になった。言い直したかったが、初めての感情だった。言えるわけもなかった。
「手、洗っていって。それ、落ちにくいから。石鹸があるの」
ベランダの水道に案内してくれた。俺の手のひらには、かすかに色が付いていた。色とりどりの絵の具が。
「ごめんなさい。……拾ってくれたのに、汚れちゃって」
「汚くなんかない。どれも、一つ一つ綺麗な色だ」
彼女は驚きを隠すように自ら石鹸を泡立て、俺の手に泡を乗せようとした。俺は袖をまくろうとして、両手に絵の具がついているのを見て躊躇した。彼女はちょっとトロいのか気が利くのか、せっかく泡立てた泡を洗い流し、ハンカチで手を拭いて、俺の両手の袖をまくってくれた。そしてまた石鹸を泡立てた。何だか可笑しくて、どちらからともなく二人で笑った。
「ありがとう」
「……ううん」
俺に話しかけてくるような女子は積極的な子が多かったから、彼女は新鮮で、そんな感性のある子を素敵だと思った。
それから何回か見に行った。絵を。それから、彼女を。
たったそれだけだったのに。それが、よくなかったのか。何がいけなかったのか。彼女は女子達に嫌がらせされているようだという噂が聞こえてきた。
俺は、地元ではちょっとした有名な家の末っ子だったが、厳しいわけではなく、恋愛まで干渉されたりしなかった。ただ、周りが彼女に矛先を向けたことがどうしても許せなく、どうにも出来ないことが不甲斐なかった。
もちろん、美術部には入部しなかったし、それ以降、その場所には行かなかった。謝りたかった。合わせる顔がないようにも思えた。そういう意味では、俺はまだ子供だった。
自分で決めた通り、高校では部活をやらずに勉強した。かなり基礎から戻って、自分のために勉強した。何をやりたいかは決めていなかった。ただ、地元ではなく東京に行きたかった。名前を変えて、自分の人生といえるものを歩んでいきたかった。そのために基礎からやり直してでも勉強した。
父親には、正直に告げた。東京の私立大学に進学したいこと、この名前を変えたいことを。父親は、鷹揚だった。
俺は、今まで良くしてもらった礼を伝え、道を踏み外さないことを自分に誓った。
そして東京に出て『槇』という姓を名乗り、自由というものに浸ることができた。もちろん、仕送りももらっていた身だったが、バイトもした。モデルみたいなものが一番需要があったのは、嬉しいより複雑だった。名前は変わっても女はいつでも寄ってきたし、外見など。俺の中身とはなんだろうかと、ひたすら自問した。
俺自身には何もないと痛感せざるを得なかった。東京の、偏差値も学費も高くてお洒落で有名な私立大学、高級マンションに住む学生時代だった。
自活してみたいと、就職活動を早くから始めた。モデル業界の偉そうな人を片っ端から捕まえて話をした。適性とは何か、人気の職業とは何か、給料の高い仕事と、自分に向いている会社はどのように探したらよいかを聞かせてもらった。
俺は、就職が決まった第一希望の商社の繋がりを、モデルのおかげで早くから得ることができた。何が縁になるかわからないものだ。就職して独身寮に入った。初めての自活だった。ありえない程狭いのに、嬉しくてたまらなかった。
そして、入社して直ぐに上司となった藤原さんが、雑談の中で芸術の話をしてくれた。
藤原さんの奥さんは絵を描く人だと言った時、久しぶりにあの彼女を思い出した。もちろん、ドラマや小説じゃないから同一人物だったなんてことはない。ただ、とても懐かしく、彼女に嫌な思いや辛い思いをさせ、何もできないまま離れてしまったことを悔やんだ。もちろん、誰にも言ったことはない。
奥さんに関するちょっとした絵の話を聞く度に、どうか彼女も今幸せであるようにと願った。あの描きかけの絵は、どうなっただろうか、どんな美しい絵に仕上がったのだろうかと。そして、どんな綺麗な女性になったのだろうかと。
残念ながら、名前も知らない。外部から進学してきた、一つか二つ上の先輩だということしか。ちょっとトロくて、綺麗な光のある風景画を描き、俺の外見を名前も気にしない女の子だったということだけ。
だから、るり子と出会ったリサイタルで、藤原さんの後ろに隠れるようにしていた奥さんを見て、俺は何だか嬉しかった。あの彼女が、ちゃんとした男性に守られて絵を続けてくれているような気がしてならなかった。
現実的にはいろいろと違ったが、それは別人だからあたりまえだ。
俺は、そんな舌の根も乾かぬうちに、藤原さんと奥さんの前でるり子を口説き、るり子のご両親の前で交際宣言をして、連れて帰った。
翌日には社宅に引っ越したから、あの独身寮には三ヶ月しかいなかったことになる。
高校の彼女や、藤原さんの奥さんみたいな、あんなに大人しすぎる女は可愛らしいけれど、現実問題俺には無理だ。思ったことをはっきり言うるり子は、美人で好みで、何より演奏が良かった。それは即ち、るり子が良いのと同じだ。るり子も、俺の外見に見惚れたりすることもなく、もちろん旧姓など知るわけもなく普通に接してくれた、貴重な女だ。
俺は、るり子と一緒に初恋の人を見守るかのような幸福を手に入れたのだ。
るり子には内緒だけどな。
もちろん、藤原さんにも。