表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
こんな恋がしたかった  作者: 槇 慎一
11/13

11 俺から見たるり子の音色


 自宅のリビングで寛ぐのは久しぶりだ。


 もうすぐ俺の父の誕生日だ。

 いつからだろうか……長いこと連絡していない。


 高校卒業後、兄達は地元の国立大学に進学したが、俺だけは東京の私立に進学して家を出た。大学卒業後は、就職してすぐにるり子と出会って駆け落ちした。


 慎一……子供ができて嬉しかった。るり子も子供の世話をするのが好きで、上手だった。ピアニストだったるり子は、家庭に入って幸せそうだったが、両親とはおそらく一度も連絡をしていない。るり子がそんな状況だから、俺も両親に連絡しなかった。


 慎一は小さい頃から利発で賢い子供だった。片方の祖父、祖母のことが明るくなれば、もう片方のことも疑問に思うだろう。だから、そのような単語は、家庭内に出さなかった。慎一も、一度も聞いてこなかった。そんな大人びた配慮ができる子供だった。


 だんだん、慎一に話さないといけないなと思っていた。慎一は子供の頃から俺に甘えるタイプではなかったし、世話焼きな母親のことも少しどころか鬱陶しいと思っていただろう。東京のお受験教室には、そのようなタイプの男子はたくさんいたし、慎一は手がかからなかった。

 同じ社宅に住んでいる、俺の上司の娘……かおりを可愛がっている時は、慎一の人間らしい感情が見えた。

 るり子は、娘ができたら女子の一貫校である母校に通わせたがっていたが、男の子だったから国立の受験をさせた。高校を卒業するまで、校内でもまあまあ優秀だった。るり子に似たんだろう。勉強ができて困ることはない。精神年齢も高く、優等生で俺とは違うタイプだったから、俺は慎一のことは普通に放っておいた。


 るり子は、慎一が少し大きくなるまでに一通りの家事を覚えさせ、母校の音楽大学の講師をするようになった。


 慎一もピアニストを目指しているように見えた。大学在学中に、日本でも規模の大きなピアノコンクールでグランプリを獲った。これには驚いた。年齢的にも若いし、世の中にはそういう人がいるということは理解していたが、まさか俺の息子が……。大学は学年で只一人の特待生だったし、るり子は慎一を大学院に行かせるか留学させるかと楽しみにしていた。更に驚いたことに、翌年はかおりがグランプリを獲った。高校三年生で……。慎一がピアノを教えていたのだが、かおりがそんなにすごいと思わなかった。

 るり子も大学、大学院と優秀だったらしいし、慎一も上手だったから、俺の耳が良くなりすぎていたのだろうか。普通程度に上手なのかと思っていた。ピアノは好きだが、ピアニストを目指していたわけでもない。本番の彼女は、普段より一段階どころか、見たことのないくらいに輝くんだと慎一が言っていた。そうだったのか。慎一はそれを独り占めしていたんだな。残念ながら、仕事でなかなか聴けなかった。まぁ、いい。また機会はあるだろう。


 慎一は、かおりが高校三年生でグランプリを獲ってすぐにプロポーズしたらしい。格好つけて外出しようとしていたからすぐに判った。服装ではなく、覚悟というのだろうか、そういうものが感じられた。俺のお気に入りの車を貸そうかと聞いたら、意外にもキーを受け取った。俺に対して素直な慎一は珍しかった。


「いろいろよろしくお願いします」


 俺が慎一に何をしてやれるのかはわからなかった。結婚式を準備してやって、人脈を広げてやることくらいだろうか。


 慎一は、るり子に似て本当に真面目で、多分かおりに何もしていないだろう。二人を見ていればわかる。この結婚に反対する人は誰もいない。まぁ、思ったより少し早かった……くらいのことだ。モデルのバイトは俺もしたことがあるが、慎一が大学の講師と、演奏の仕事で自立する準備をしていたことにも驚いた。


 俺も、高校卒業して家を出たこと、大学を卒業してすぐに結婚したこと、親には想像しないことで驚かれただろう。それと同じだ。しかし、かおりが女子大を卒業するタイミングで、二人でフランスか何処かに留学するかなと予想していたのに。


 2ヶ月後、かおりが妊娠したということを聞いた。まだまだ先だと思っていた。彼等にとって予定外のことだったのかどうかはわからなかった。るり子も、そこまで聞かなかっただろう。俺は、少し期間を経てから慎一を食事に誘った。


 そこで初めて、俺とるり子のことを聞かれた。あ、遂にきたか……と観念した。今までよく聞かなかったな。るり子も言っていなかったのか。俺から全ては言えない。少し簿かして伝えた。それでも、ピアノリサイタルで出会って、翌年慎一が産まれたことは明るみになった。リサイタルの日付と慎一の誕生日と照らし合わせれば、どういうことかもわかるだろう。


 慎一は、俺のことを軽い男だと思っていたのだろう。慎一より真面目な男なんて、なかなかいないだろうから、それは否定できない。


 後悔はしていない。ただ、るり子があんな形で家を出て戻らなかったこと、るり子の両親が俺達の家を知っていながら一度も訪ねて来なかったことは、最良の関係ではないだろう。慎一が祖父、祖母の関わりを一切持てなかったことは、俺達の責任だ。




 かおりが妊娠中、もう少し前からか、元気がないように感じられた。俺はかおりを毎日見ていたわけではないし、もともとおとなしい女の子だから、気のせいかもしれない。杞憂ならいいが、慎一の様子もおかしかった。俺の気のせいでなければ、かおりが元気がない原因に、慎一が心配している、といった感じだろうか。慎一と二人で食事をして、俺が感じただけのことだ。何事もなければいいが、どんなに仲が良くても、何もないなんてこともないだろう。


 かおりの母親……悦子さんの書いた絵が、大学に飾ってあるらしいことは、昔から知っていたが、見る機会がなかった。慎一が、連れていってくれた。それを見て、全てが合致したような想いがした。かおりの母親である悦子という女性、悦子の親友のるり子、るり子の息子の慎一、慎一とかおり。全てが繋がっている。そして、これから産まれる慎一とかおりの子供。楽しみだった。


 かおりを美術館に誘った。かおりのことは小さい頃から知っている。もっと言えば、かおりの母親のことも多少知っている。病的とも言える繊細な母親に比べたら、かおりは何でも表情に出てくるような、子供っぽくてわかりやすい少女だった。慎一が可愛がるのが判る。そのかおりが、少し大人っぽくなってきた。他人にも配慮ができる女性になりつつあった。また、かおりの演奏を聴きたかった。ステージでの演奏を聴きたい。


 かおりの子供が無事に産まれた。『仁』という名前だそうだ。慎一がつけたと言う。慎一は俺達の槇姓からかおりの名字である藤原姓に変えた。名前に「一」が付かなくなり、何と言うか……胸につかえていたものが取れた思いだった。しかし、「一」はないけど「二」があるなと、独りで笑った。


 俺には兄弟がいて、上から『敬一』『恭一』『浩一』『修一』そして『誠一』……俺だ。旧家で、男子の名前には皆「一」を付けていた。俺も、何となく息子に『慎一』と名付けた。今度、慎一とかおりを連れて行こうか。



 るり子は……。


「あなた、何してるの?考え事?」


 リビングでそんなことを思いながらぼんやりしていたら、るり子が練習を終えて防音室から出てきた。



「るり子、『イスラメイ』を弾いてよ」

「急に何?そんなに直ぐに完璧に弾けないわ!」


「完璧でなくていいよ」

「そんな演奏できません!」


「ディティユの『ソナタ』でもいい」

「でも?でもなんて曲じゃないわよ!」


「じゃあ、何でもいい」

「じゃあ?……そうね」


 るり子は、ベートーヴェンの『熱情』2楽章を弾いてくれた。



 それは、とても静かで美しい演奏だった。

 聴衆が慎一だったら、この音色ではないだろう。


 他人にはわざわざ言わないが、俺は美しいものが好きだ。美術は勿論、音楽も。それを知った女は、俺を美術館やクラシックコンサートに誘ってきた。その内容はともかく、俺を誘うためだけの材料で、本当にそれが好きな女はいなかった。鑑賞した作品に対する感想もなければ、素晴らしい演奏に対して感動した拍手をするでもなかった。一つの作品を眺めるのも、どれだけ堪能すれば満足するか、それも一つの相性であり、価値観だろう。

 藤原さんと悦子さんは、美術館で会った時、同じ作品を同じくらい長く鑑賞していたと聞いたことがある。そこから何を感じるかはそれぞれだが、人間が何かを創造するエネルギーというものに、ひたすら心を奪われ、圧倒されたという。


 演奏会の内容は、瞬間芸術であるから、結果的に良かった演奏会とそうでもなかった演奏会がある。子供の頃から質の良い演奏会に頻繁に連れられていた俺は、女が俺に近づきたいがために誘ってくるような演奏会は、プログラム、演奏者、料金を見れば、行かなくても内容が想像つく。そして、その女は音楽にさして興味がないことも。これをきっかけに興味をもってくれればと、かいつまんでそれとなく話題にしてみれば、「教えてくれて嬉しい」と口にはしても、それは本意ではないらしいことが見て取れた。


 だからこそ、藤原さんに誘われたリサイタルには興味を持った。一曲も知らないプログラム、聞いたことのない作曲家、若くて綺麗な女性の写真……。リサイタルの日が待ち切れない程だった。

 プログラムの一曲一曲が、リサイタルの最後に持ってくるような重量級の曲だった。その全てに自分を捧げるかのような情熱のこもった演奏に、たまらなく惹かれた。

 藤原さんも応援してくれそうな雰囲気だし、じっくり本気で口説いていくつもりが、翌日には入籍することになった。自分としても想定外だった。後悔なんてしていない。

 恋愛を知らないと言っていたるり子は俺に対して徐々に心を開き、どんどん可愛くなっていった。普段は気丈なまでにハキハキしているのが、ベッドの中ではちゃんとこちらに主導権を明け渡してくる。


 リビングにあるこのピアノは、俺の実家にあったものを父から譲ってもらった。亡くなったピアニストだか作曲家だかが使用していた、値のつかない特別な代物だ。海外のメーカーだからとか、単純なものではない。


 このピアノでるり子がお腹の中の慎一に弾いて聴かせ、このピアノで慎一は練習し、かおりがそれを聴いて育ち、やがてかおりが弾くようになり、代わる代わる弾いて成長した。練習する楽器の音こそ最高の教師だ。あまりにも自然に美しい音楽を奏でる二人は、俺達の宝物だ。


 



 今、そのピアノで俺だけのために奏でられる音。


 どんな時でも決して手を抜いた演奏をしない、真面目なるり子。贅沢極まりない。


 『熱情』の二楽章に愛を感じるのは、絶対に自惚れでなんかではない。


 普段、俺がどんなに甘く囁いても靡かないるり子は、こんなに俺を満足させてくれる、可愛い女だ。

 










評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ