10 息子の結婚と娘を嫁に出す気持ち
婚約の会食は滞りなく終わった。
藤原さんは、悦子のことを抱えるようにしてエスコートしている。
かおりちゃんが席を立ったので、私もあわてて追いかけた。
「ね、かおりちゃん、慎一はなんて言ったの?」
化粧室の手前で追いついて、私はそうっと聞いてみた。
「え、先生が、なんてって?」
「だから、その、つまり……」
プロポーズの言葉とか、そのものズバリじゃなくてもいいけど、何がきっかけになったのか。だって、少し前まで二人とも片想いしてるみたいな雰囲気だったじゃない?いつの間にこうなったの?
「るり子!」
急に肩を後ろにひっくり返された。目で止められているのがわかる。迂闊だったか……。慎一じゃなくてよかった。
「かおり、先に行って。一人でも大丈夫だろ?」
「はい」
夫が促して、かおりちゃんが背中を向けて化粧室に入ったのを見届けてから、夫に怒られた。
「かおりはともかく、慎一は嫌がるぞ」
「軽率でした。ごめんなさい」
夜。
私は慎一にいろいろ聞きたいのを我慢して寝室にいた。
慎一は防音室で練習している。もうすぐ卒業試験がある。
自由曲で無制限だから、ショパンのエチュードを全曲弾くということは教えてもらった。流石、大学院の入試以上だ。それにもう、人前でも弾いたことがある。やはり、少なくとも二年前からは卒業試験の準備をしていたのか。余裕とまではいかなくとも、素晴らしい挑戦だ。
おそらく首席は間違いないだろう。私も首席だったけど、完全に私を越している。音楽のことで私が言えることなんてない。淋しいような……ううん、喜ばしいことだ。慎一の努力の結果だ。
防音室から微かに聴こえるピアノが……、慎一の音が素敵で、愛おしい。ショパンのあるべき音楽を、真摯に追究する練習過程……。
「ちゃんとおとなしくしてるじゃないか」
夫が入ってきた。
私は何も言わずに目を閉じた。
「元気なるり子も好きだけど、今のるり子も好きだよ」
ベッドの上で、夫に抱きしめられる。
慎一は、決してこの寝室に入ってこない。そういえばいつからだろう。小学生になってからは、一度も入ってこなかったような気がする。
私は気を張っていたのが、夫に抱きしめられると安心して力を抜くことができる。そして力が抜けた瞬間、いろいろなところに力を入れていたことがわかる。
出会った日、「好き」なんて気持ちすらわからなかった。それでも彼に身を任せることができたのは、何故だったのだろう。嫌じゃなかった。突然訪れた両親との訣別…………。
夫の腕の中にいるのは好きだ。何も知らなかったのに、何故か心地よくて、何もかも任せてしまうことができた、唯一の場所。
「マキくん……大好き」
私は、ベッドの中でだけ、出会った頃のように呟いて抱きしめ返す。
夫は何も言わないけれど、静かに抱きしめていてくれた。
出会った翌日に入籍した。あの時の高揚感は、言葉では表せない。不安なんて感じなかった。マキくんと一緒なら何だって出来そうで、勇気をもらえた。新しいもの、知らないことを教えてもらい、マキくんの自由な考え方に、世界が広がったみたいだった。
控えめな、カチャリとしたドアの音に気づいて閉じた目を開くと、かおりちゃんが顔を覗かせていた。
「……お母さん、あの、さっき、……私に、何を聞いたんですか?私は、何を答えればよかったの?」
夫も驚いて振り返る。鍵を共有しているので、不思議なことじゃないとはいえ、かおりちゃんがここまで入ってきたのは珍しかった。
「慎一に見つからないように忍んでくるなんて、可愛いじゃないか。俺はリビングにいるよ。ごゆっくり」
夫は気を利かせて出ていった。
本当は、私は「慎一の母親」として話したかったのではない。「娘の母親」の気持ちだった。女同士の話がしたいだけ。でもまるで、寮生や門下生の女の子達が集まるパジャマパーティーみたいだ。
ベッドの上でくっつくようにして座ると、どちらからともなく笑った。
「ね、キスはしたの?」
聞いてみたら、かおりちゃんは頬を染めて小さく頷いた。可愛らしかった。こんなこと、流石に息子には聞かない。でも、女の子の親ならば大切なこと。
「その先は?」
「その先?」
わかっていないらしい。
「まだなのね。生理は決まった日に来る?生理が始まった日から、次の生理が来る前の日までが何日間なのか。結婚するのだから、慎一に聞かれたら、正しく答えられるようにしてね。それから……」
現在、慎一は教授のレッスンにかおりちゃんを送り迎えして、慎一はその間に同じマンションの上のフロアである新居で生活できるように準備しているらしい。家賃も発生するけれど、教員住宅なので一般の音出し可能な物件よりも良心的だった。慎一は、私が想像していたよりも才覚があるらしい。相当の貯金もあるようだ。
家具とベッドとピアノが備え付けてあるらしい。鍵を受け取ったので空き時間に練習ができると言っていた。もちろん泊まることもできるのだろう。きちんと婚約した今となってはもう、いつその日が来てもおかしくないのだ。
「結婚したら、パパとママのいる家ではなく、慎一と二人で暮らすのよ?もう、今までみたいに私と毎日会えなくなる」
淋しさを隠して伝えたが、やはりかおりちゃんはわかっていなかった。無言で驚いている。
藤原さんも、わざわざ言わないだろう。その日を覚悟するだけでも、切ない想いでいっぱいだろうと想像する。こんなに早く結婚することになるなんて………。藤原さんのことを考えれば、あまりにも用意周到な慎一のことを、初めて憎らしいとさえ思った。
けれど、かおりちゃんは私にとっても娘同然。何しろ本当の娘になる。
「でも、覚えておいて。困ったこと、慎一に言えないこと、慎一に聞けないことがあったら、私に連絡してね。今みたいに、すぐに会えなくなるけど、本当に、いつでも言ってね」
「…………はい。お母さん、ありがとう」
かおりちゃんは、返事をしてくれた。かおりちゃんは娘になるのに、どうしても「娘が」嫁にいってしまう気がしてならない。涙があふれてくるのがわかる。私はかおりちゃんを抱きしめた。悦子によく似た可愛らしい顔、細くて真っ直ぐな長い髪、ふくよかな胸、綺麗な体。そうなのね、まだ清らかなのね……。
「お父さんにも、ありがとうって、言ってきます」
そう言って、かおりちゃんは寝室から静かに出ていった。
夫はかおりちゃんのことをどう思うのかしら。
そして、藤原さんの心境は如何ばかりかと思うのだった。
慎一の透明な音色を聴きながら、私は胸の前で十字を切った。
二月。
子離れしなきゃと、思えば思うほど慎一のことを考えていた。大学でのレッスンを終え、鍵を返却するため事務室に行こうとしたその時。
「槇くん!」
その窓口に慎一の姿を見つけ、思わず隠れる。
「槇くん、待って。あ、ごめんなさい。もう槇先生と言わなきゃね」
「どちらでも。何ですか?」
「学生たちから、あなたが結婚したのかって問い合わせの数がものすごいんだけど、聞かれたら言っていいのかしら?」
「すみません、お手数おかけします。結婚したことは事実なので公にしますが、僕の名前は今まで通り『槇』と通称でお願いします。給与振込の銀行口座は『藤原』で。名義変更は済ませてあります。妻の名前と、新居の場所は、プライベートですので、大学側からは伏せておいていただけますか。よろしくお願いします」
「わかったわ。秘密は厳守します。アイドルは大変ね」
「いえ、失礼します」
そんな会話が聞こえた。
もう社会人になるのだ。これからは同じ職場なのだ。隠れることも、逃げることもない。でも、今は、なぜか会釈してすれ違うのは出来そうになかった。
そっと様子を伺うと、慎一はかおりちゃんを連れて大学の中にある楽器店に行ったようだ。あ、かおりちゃんが音楽教室に正式に入室する前までに、書類の関係で籍を入れると言っていた。正式な保護者が『藤原慎一』になったのか……。私は自然と距離をとり、静かに後を追ってしまった。
「かおり、閉店だからお店から出て。お店の人が帰れないよ」
慎一が笑顔だ。見えないけれど、背中でわかる。
制服姿のかおりちゃんが、楽器店で購入したものを胸に抱きしめて嬉しそうにしている。大きさから察するに、楽譜に違いない。かおりちゃんは、これまで自分の楽譜というものを一冊も持っていなかった。全て慎一の楽譜で勉強してきた。初めての『自分の楽譜』を慎一に買ってもらったのだろうか。幸せそうな表情が見えた。
そう、二人とも本当に幸せそうだった。
これでいいんだ。
私は今度こそ事務室に行ってレッスン室の鍵を返却した。
その日の夜、慎一は帰宅しなかった。
次の日も。
その次の日も。
毎日練習しにきていたかおりちゃんも来なかった。そうか、かおりちゃんはもう高校の授業が終わって、あとは卒業式だけになったから…………。
何も言わずに、か…………。
「もう、慎一の食事は用意しなくていいよ」
その夫の言葉に、いよいよこらえきれず、たくさんの感情があふれた。
私が、ずっと心に蓋をしてきたことを思った。
自分の親にしたことを。
私の両親は、どんな気持ちだったのかと。
そして今は、どんな気持ちになったのかと。
子供って、こんなに早く大きくなるのね。
こんなに早く巣立ってしまうのね。
予期せぬ別れだった。
夫は、いつものように黙って私を抱きしめてくれた。