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こんな恋がしたかった  作者: 槇 慎一
1/13

1 どうして結婚したのか



 恋なんてしたこともなかった。

 本当は、親友のお相手のことが初めて会った時から素敵だと思っていた。でも、親友を優しく見つめる彼を応援するのは当然のこと。

 彼は私にある人を紹介してくれた。その人は、開かない扉ばかりだった私の人生を変えてくれた。





 年度始めの四月。


 息子は中学三年生になった。

 始業式よりも早い誕生日だから、もう15才。

 結婚してから、もうすぐ16年。


 出会った頃から変わらない、優しい夫がいる。

 仕事も順調で充実しているし、特に不満もない。 

 息子が思春期で、少々戸惑いを感じるくらい。


 講師をしている音大のカフェテリアで珈琲を買う。新しい時間割に、まだ慣れない。抽出される間の僅かな時間でさえも、ほっとひと息なんて出来やしない。何故なら……。


「あ、るり子先生?るり子先生~!」

 随分遠くから見つけてくれたものだ。何人もまとめてこちらにやってくる。そんなに大きな声でまぁ……。カフェテリアじゅうの学生がこちらを見る。確か……木管か金管専攻のソルフェージュクラスの学生達だ。傾向として、ピアノ専攻の学生よりも無邪気で元気で、子供っぽい。そして、私が学生だった頃よりも、先生と学生の距離が非常に近い。


 私なんて、必要以上に畏れるような先生ではないけれど、正直、近すぎるのも如何なものかと思う。


 この学生達は見覚えがある。馴れ馴れしさ……人懐こさは今は二年生になったところだろうか。学生同士、学科関係なく様々な交流があるからか、私のことまで把握しているらしい。不思議なもので、こちらはあちらのことを知らなくても、あちらは余計なことまで私を知っている。仕方のないことだけれど、間違った情報が浸透されるのは性に合わない。ついつい正しておきたくなってしまう。知らずに済むならば気にしないようにしなければと思っている。


 私は当たり障りない会話でやり過ごすつもりで聞いた。

「空き時間?休講?」

「空き時間です!るり子先生の旦那さん、すっごくカッコいいって、門下生から聞きました!写真とかないんですか?」


 音楽のことならともかく、答える必要性を感じない。

「ないわよ、そんなもの」

「嘘!本当に?見たかったなぁ~」

 お生憎様。本当にないのだ。


 門下生とは試演会の後などに、学外で会食をする。夫や息子を連れて行ったこともある。何しろ息子が小さいうちはあまり長時間家を空けられない。巻き込んで協力してもらわなければならなかった。協力してもらえる範囲で工夫してきた。夫は音楽が好きだし、息子も行儀良くついてきてくれた。


「持ち上げすぎよ。誰がそんなことを?」

「かえでちゃんとか、ゆりちゃんとか」

「今度から『門下生以外には内緒』って付け足さなくちゃ」


 茶目っ気たっぷりに返してみた。学生同士ならともかく、先生に対してお友達のことを「○○ちゃん」って……。




 この子たちより何年か先輩の、みかちゃんとさやかちゃんの学年あたりまでは、もう少し先生に対して改まっていたような気がするのだけれど。基本的にレッスン中は礼儀正しいので気にしなかった。こちらも学生に対してレッスン中に「ちゃん呼び」をやめることにしようかしら。最初に会うのが中高生で、そのまま大学に進学するので「○○ちゃん」と呼ぶのも変えていなかった。


「えー!教えてくださいよぅ」

「ソルフェージュのことなら何でも聞いて頂戴。次のレッスンがあるから、失礼するわね」

「はーい!さようなら!」


 本当は次のレッスンはないけれど、可愛いものね。

 私はカフェテリアで買った珈琲を持って、学内の教員専用レストランに逃げ込んだ。最初からこちらに来ればよかったのだ。特にランチなどを注文しなくても問題ない。静かだし、落ち着いて楽譜を読むことができる。


 鞄から楽譜を取り出した。リスト作曲『ハンガリー狂詩曲2番』。

 自分が練習している曲ではない。学生のための曲でもない。これは四月頭の発表会で、息子が弾いた曲。教えているのは私ではない。音大生ならともかく、私はこの年齢の子供にこんな大曲を教えた経験がない。私には教えられない。自分が頑張ることの方が容易い。


 息子は子供の頃は年齢相応に可愛らしかった。利発な子供で、成長とともに精神年齢が高くなり、社会的背景や音楽的な内容も表現力が加わり、それなりに深みを感じられるようになった。それは嬉しいことだった。

 これほど弾けるならば、この音楽大学の附属高校に進学してもトップクラスは間違いない……なんて親バカかしら。けれど、本人が望んで学ばなければ。私がお願いすることではない。

 それでも私としては、音楽の道に進んでほしい。恵まれた体格、努力できる才能のある子だから。私が叶わなかった留学もしてほしい。


 息子は勉強もできる。教育学部の附属幼稚園から附属中学まで良い環境だった。成績は上位を保っている。このまま附属高校に進級できるだろう。夫もこのくらい優秀だったのだろうか。私は少人数制の女子一貫校だったから、世間一般的な基準とは大分違うらしく、比較できない。恵まれていた環境だったことも、卒業して外に出て初めて判ったことだった。


 勉強ができるような子は大概きちんとピアノの練習をする。ピアノが上手い子は勉強もする。家庭環境だろうか。プロを目指す程練習しないとしても、幼児期にきちんと教えて復習すれば、後は本人の意欲と家庭の方針で更なる高みを目指すだけ。


 だが、その『幼児期にきちんと練習』ができないとなると、私にはお手上げだ。練習開始時間に練習を始められないだとか、短時間の練習時間すら毎日確保できないだとか、練習中に親子で喧嘩だとか、想像もつかない。


 ある程度習っても自力で譜読みして曲を仕上げられないなら、趣味として楽しいものなのだろうか。指導者として、生徒ができないところから各々のレベルを上げていくことは私の使命であるが、あまりにも低い段階からいつまでたっても手取り足取り教えなくてはならないのは閉口する。


 意欲、好奇心、探究心、感性……ここまで育てた息子に、何ひとつ悩まなかった訳ではないが、他の先生方の愚痴や悩みを聞くと、私のことなど幸せな悩み、いや悩みとは言えないような気がして、他人に話せたものではなかった。


 結局私は、もともと真面目できちんと練習をさせられる家庭の子供しか教えられないのだ。指導者が私でなくても伸びる生徒ばかり。私である意味とは何だろうかと考える。生徒側から「先生がるり子先生でよかった」とか、「るり子先生のここが好き」というのはあるのだろうか。


 年に何度か、大学から課される講師リサイタルのノルマをこなしながら音楽大学の講師としてレッスンするのは、私に合っている。友人知人からいろいろ話を聞けば聞くほど、小さな子供をたくさん抱えるような街の音楽教室の講師は、私には無理そうだ。


 まだ午前中なのに眠い。何故かしらと自問自答するまでもない。昨夜は夫がなかなか寝かせてくれなかったからだ。


「るり子先生、よろしいですか?」

 若い女性の講師だった。見たことはあるが、名前はわからない。何しろ『講師』は大勢いる。


「空き時間ですか?ちょっとお話を伺いたくて」

「ええ、大丈夫よ。何かしら」


 私はテーブルの隣の席を促した。


「実は今、婚活で困っていて……」

 彼女は話しつつ腰掛けたが、私は何を言ったのかわからなかった。


「コンカツ?コンサート活動?リサイタルの準備のことかしら?」

「るり子先生ったら、結婚相手を探してるってことです。るり子先生のご家庭って、とても理想的で羨ましくて」

「そうかしら?どのあたりが?」

「伺った話だと、旦那様は音楽が好きで、るり子先生のお仕事にも協力的で、息子さんもピアノがとってもお上手なんですって?」


 社交辞令を肯定するのもどうかと思い、否定するとしたら一体どこを……と悩む。


「やっぱりそうなんですね。そういう、音楽に理解ある旦那様ってどこで出会えるんでしょう。るり子先生は旦那様との出会いはどのような?」


 違う方向に解釈されてしまったかしら。

「知人の紹介よ」


「もう少し詳しく教えてくださいませんか?だってね、結婚しても新居にグランドピアノを持っていける環境、自宅で練習はもちろんレッスンができる家、土日は音楽教室で小さい子供のレッスンだし、平日だって夕方から夕食時に近所の子供達のレッスンをするし、結婚相談所ではどれもなかなか厳しいって言われてしまうんです。まだ20代なのに!」


 20代で大学講師とは、優秀な証拠。私はまず子育てしながら自宅で受験生のレッスンを始めて、講師になったのは息子が幼稚園に入った頃だから30を越えていた。時間給だから、息子の保育時間に大学でのレッスンをして、息子の成長とともに生徒が増え、個人レッスン以外にソルフェージュのクラスも担当するようになった。


「なるほどね。私が結婚したのは28才だったわ。当時の感覚だとかなり遅い方で、それまではいろいろ大変だったのよ。結婚したいと思っていなかったし」

「そうなんですか?」

「えぇ。留学したかったの」


 自分で言っておきながら、留学したかったことなど久しぶりに思い出した。何故かと聞かれる前に言った。


「でも、結婚してすぐに息子が出来たから」

「妊活も悩み無しですか!」


「ニンカツ?」

「もう、るり子先生ったら言葉も知らないなんて、つくづく羨ましすぎますよ」


 悟った。何しろ昨夜も疲れたし…………。


「るり子先生って、旦那様にとっても愛されているんですね!」

「よく言われるんだけど、意味がわからないわ」


 半ばヤケになって、謙遜するのも否定するのもやめた。


「るり子先生が旦那様を想うより、旦那様がるり子先生を想う気持ちが大きそう、って意味です」


 そうかもしれない。だって…………。


「練習ばかりで、恋愛もしたことなかったの」

 父が厳しかったし………という言葉は飲み込んだ。練習したからこそ、仕事につながったのだ。ただ、音大の学生は皆真面目で、皆よく練習する。皆と同じでは……私は自分で納得できない。誰かと比べるでなく、自分の努力の限りを尽くすことに心血を注いできた。


 私の先生の方針で、大学も大学院も首席を目指すよう指導され、たくさん練習して卒業した。相応の時間を費やしたことになる。結果はたまたまついてきただけ。勉強に終わりはない。齢を重ねると偉くなるわけではない。演奏家を名乗るなら、練習は日課として生涯続けるもの。



 恋なんて知らなかった。

 知らなくてあたりまえ、そんな認識だったのだ。


 当時、国費留学生試験に合格するために、毎日必死で練習していた。

 試験の前哨戦的に開催した自主リサイタルで、夫に出会うまでは。


 息子が生まれる一年前だった。

 あれから16年になる。








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