四話 首座オフィレティール
目の前に広がるのは光が弾ける草原。そよそよと風が頬を撫でていく感じが心地よく、ソレルは思わず目を閉じた。そうするとどこからか笑い声がして沢山の命の活動を感じる。目に見えない彼らがこっちを見ては指差して囁いているように思える。そう、ここには目に見えない存在が多くある。
ゆっくりと目を開けてみるとそこには地平線まで広がる草原だけ。声の主がどこにいるのか辺りを見回しても人の姿はない。
「こんにちはー。どこにいるんですかー?」
叫んでみたが楽しそうに笑いが起きただけで姿はやはり見えない。
隣にいるシャトウィルドも居心地悪そうにしている。アキアに至っては声のない何かの気配を感じてはそちらを向き、いないと別の方を向くという事を繰り返していた。
七つほしの首座の招きによりひかりのほしへ来たものの、出迎えもなく、道がないのでどこへどうやって行けばいいのか分からず困惑する。ここには港がなく、御料列車はひかりのほしへ到着すると階段を地表へ降ろした。そして彼らが順に降り立つと去って行った。迎えに来たはずの白銀の衣装を着た人達もいつの間にかいなくなっていてさらに困っていた。到着する寸前までいたはずなのだが、煙のように消えたのだ。
戸惑いが彼らを包み、何とも不思議な事だらけで途方に暮れている。
「あっちかな?」
ソレルは前方を指差した。どこまでも草原しかなく、建物もなく、目印になるものも何もない。何となくで言ってみた。
そして一歩踏み出すと、それが起こった。
ソレルの足下から背丈ほどのしなやかな若木が伸びてきた。それはお辞儀をしているような姿で頷くように上下に揺れている。挨拶をしているようなので若木の先端に手を出すとぽっと光り、次々に様々な植物が出現していった。
『こんにゅちは。ここにぃいまちよ』
と耳元で声がした。どこだろうと聞こえた左側を向いたが誰もいない。おかしいと思ったソレルは反対側を見たが声の主はいない。
『ここてす』
もう一度声のする方、左側を向いた。よく見ると肩の端に小さな綻びが見え、何だろうと手を伸ばした。しかしそれは綻びではなく触れる瞬間に指先に小さな花が咲いた。驚いたソレルは指を目の前に持ってきた。シャトウィルドとアキアも何事かと覗き込んでいる。
指の先にあるのは、白い四つの花弁に朱色が柱頭から真ん中まで入っている何の変哲もない形の花。その花はしゅっと消えるとソレルの肩に再び咲いた。そこは耳元に近く話しかけやすい場所でもある。
気づくとシャトウィルドの肩とアキアの肩にも植物が生えていた。シャトウィルドには若い芽のようなもの。アキアには珍妙で萎びた茶色い花弁、ぴんと張りのある淡紅色の花弁、薄い緑色の花弁と三種類の花弁を持つ花。
『いそきまちょ。しゅささま、おまちてす』
ソレルの肩の花が話した。三人はこの不思議な現象に気持ちは追いつかないが従ってみようと視線を交わし合った。
「あの、あなた達は何なのかしら?」
ソレルの問いには答えの代わりに笑いを返してきた。
次に起こったのは道を作るように大地から植物が順に生えてきた事。左右に植物が並んで道が出来上がり、それが遠くまで続いている。ソレルとシャトウィルドは遥か彼方まで続く道を眺めて顔を見合わせると歩を進めた。
道は真っすぐかと思うと緩やかに曲がり、目的地へどの位でたどり着けるのだろうかと考え込む。
道を囲む植物は若木だったり、花をつけているものだったり、果物を実らせているもの。さらに時々頭上から摘みたての花が降ってくる。幻かもしれないとソレルとシャトウィルドは降ってきた花を手で受け止めてみた。花は本物で強い香気を放っている。
「不思議なところですねぇ」
後ろからついて来るアキアがため息混じりに言った。やがて植物で出来た柱と屋根がある東屋のようなものが見えた。ソレルはそこで休息したいと言ったが、シャトウィルドに急き立てられて不満を零しながら歩き続けた。
シャトウィルドはそれぞれの肩に咲いている花を順に見ていってから自分の肩にある若い芽に向かって疑問を投げてみた。
「芽なのは俺が男だからか?」
若い芽はゆるりとシャトウィルドの耳元へ傾いてから答えた。
『ちあうよ。あにゃたは これからたから、わかいめ たよ』
彼にはこれからが何を意味するのか見当がつかなかったがそれはそのままでいいか、と思った。さらに尋ねても似たような答えしか返ってこないと思えたから。そして目の前を歩くソレルの肩で楽しそうに左右に揺れている花へ向かって
「お前達は決まった人にしか咲けないのか? ああ、つまりお前はソレルにだけ咲くのか?」
と尋ねた。シャトウィルドの方を見るようにくるりと花冠を向けた。
『さけますよ』
そう言ってシャトウィルドの肩へ移動した。感嘆すると小声で何やら良からぬ事を囁いた。すると花はソレルの頭上へ。
『これて いいてすか?』
花はシャトウィルドに確認するように聞いた。シャトウィルドは笑いを堪えて頷いた。
ソレルは上の方から花の声がしたので上を向いたが花はいない。
「え? どこいったの?」
ソレルの問いに『ここてす』と再び答えたが花の姿は見えない。どこどこ?と回りを見回してみるが確認は出来なかった。気付いたら上を向いたまま一回りしてしまい、ソレルは少し目が回って足下がふらついた。さすがにそれは見て見ぬふりはせず、シャトウィルドはそっと気付かれないくらいの思いやりで支えていた。
その一部始終を見ていたアキアは支えたのはともかく、シャトウィルドの悪戯を非常に不謹慎で無礼だと感じて諫めようと口を開きかけた。だが、頭の上に花を咲かせているソレルが可愛らしかったので何も言えなくなってしまった。
その姿は何故か別の娘の幼い頃の姿と重なって狼狽えた。振り向く時の首を傾げる角度、見上げて話す仕草がその娘に酷似していた。今までそんな事を感じた事はなかったのに。今は成人して立派に母親の代わりに仕事を熟しているあの娘はどうしているだろうか。一人で悩んではいないだろうか。そんな感情が沸き起こってきてアキアは急に胸が締め付けられて息が詰まりそうになる。
アキアが目を上げて前を見るとシャトウィルドがソレルの髪に簪をさすところだった。それは彼が降って来た花を編んで作ったもの。花の簪に気分を良くしたソレルは喜んで足取りが軽くなった。
彼らは和やかな雰囲気の中散歩を楽しむように目に見えないものをお供に歩いていた。彼らを包む見えないもの達は次々に語りかけていたが、彼らに声は届いていなかった。何か耳元でくすぐったさを感じるだけで。
そんな彼らがその建物を目の当たりにしたのは歩き出してかなり経った頃で、それは突然眼前に現れた。
その建物はくすんだ白で、柱と屋根だけに見えた。柱は全て同じ形で縦に赤色の溝が捩じれて入り、三角の屋根の上には一羽の鳥の飾りがあり、梁には沢山の植物が描かれている。空を見上げている鳥はクリーニ館へ来た鳥と同じく冠羽と上尾筒がある。その真下に一人の姿が。
その人物こそ、ここの主人で首座オフィレティール。膝まである長い髪は輝く金、瞳は金色が混じった薄緑。陶器のような滑らかで艶のある肌には老いを感じさせるところはなく、二十代にしか見えないが実際の年齢は二百歳近い。その長寿と若さを保つ秘密は代々の首座だけが知るものとなっている。
『ここまて』
それぞれに咲いた花達、周りにいた目に見えないもの達が囁いた。見ると道を作っていた植物が次々に大地へ戻っていく。最期までいたのは肩に咲いた花だけ。お別れのお辞儀をして消えていった。急に乾いた風が吹き抜けていって寂しさが訪れる。
「何で消えちゃったの?」
ソレルは髪に手をやって簪も消えた事に寂しそうな声で問いかけて、それに答えたのはオフィレティール。
「彼らは社の中へは入れないのです。ここには別のもの達がいて、棲み分けているのですよ」
声の方を振り向いて初めてオフィレティールを見たソレルは懐かしさを強く感じていた。落ち着いた赤の帯が映える七色に輝く衣装を纏う姿は神々しさを醸し出している。この方はもはやただの人ではない。声を出せずに呆然としている様子に微笑んで近づいて来た。階段を降りて目の前へ来ると左頬に触れ、
「ようやく、戻りましたね」
と目を細めた。それからシャトウィルド、アキアの方を見てそれぞれに微笑むとソレルの背中に手をまわして社の中へ誘った。ソレルはオフィレティールに導かれるまま階段を登って社の中へ入って行った。その後ろをシャトウィルドとアキアがついて行く。社は外から見ると壁がないように見えたのだが柱と柱の間には特殊なピグマが存在していた。それのおかげで中が透けて見える事はなく、ピグマを通り越すと空気が変わり、良い香りがして気分を落ち着かせてくれる。また薄い布が垂れているところは部屋の入り口を意味していた。
オフィレティールは真っすぐ進んで、ある薄布が掛けられているところへ連れて行った。布はオフィレティールを中へ通す為に自ら動いたように見えた。そんな事は無いだろうとソレルは揺れる布をじっと眺めながら後に続く。
部屋へ入ると今度は左右から誰かが近寄り横に並んだ。と思ったら姿が見えず、また目に見えない何かなのか、と心の中で叫んだソレル。そういえば先ほど社には別のものがいると言っていたし、棲み分けているとも言っていた。彼らは仲が悪いのだろうか、それとも別の理由があるのだろうか、と考えが一気に溢れ出してきた。そのため無意識にどこかに答えがあるかのように辺りを見回していた。
オフィレティールはその微笑ましい様子を見て口角を上げると胸の中が懐かしさと温かさが占めてくるのを感じた。この時を待っていた。そんな感情が受け継いできた記憶からオフィレティールへ流れ込んでくる。こんな感情が蘇るなど今まで無かった事。彼らこそ、待ち望んだ者達だと確信出来る。あの者が言い伝えてきた。
高鳴る胸を抑えながら三人が着席した後に自らも座り
「改めて、ようこそ七つほしへ。わたしはここの首座、オフィレティールです」
オフィレティールは温かい笑みを浮かべながら手を軽く打った。するとどこからか盆を持った人が現れた。入り口ではない、何もないところから湧いたような。その人は三人の前へお茶と菓子を音を立てずに置いていった。気配が薄く流れるような所作は人のものとは思えず、ここには人はいないのだろうかと思うソレルだった。
そんな思いに気付いているのか、オフィレティールはソレルに視線を注いだまま。
どうぞ、と言うと今度はシャトウィルドにも視線を注ぎ、満足そうに頷いていた。シャトウィルドは見られていると肌で感じていたが嫌な感じはしなかったのでそのままにしている。でも何故自分を見ているのか気になって仕方がない。こちらから声をかけても無礼にはならないか、と瞬時に考える。アンダステで最も有名で人々の尊崇を集める人物の前で意外に緊張しているシャトウィルド。さらにその緊張は不思議と心地よく、懐かしい。シャトウィルドの全身から自然に力が抜けていく。ここは何故か安心できる場所に思えた。
「子供達と」
アキアへ視線を向けて
「未だ決断せぬ者よ。先日はわたしのパハドが驚かせたようですね。あのこを行かせたのは間違いでした」
パハドとは何だろう? 三人は一斉に疑問に思った。
オフィレティールが片手を上げるとすっと大きな鳥が入って来て白く華奢な手に止まった。あの手紙を運んできた鳥だ。大きな鳥が止まってもオフィレティールの手は重さを感じていないようだ。鳥はソレル達を見て挨拶のつもりか嘴を開けた。友人に再開したように喉の奥を鳴らして喜んでいるように見える。しかしこの鳥はクリーニ館に来た時と違って冠羽も上尾筒もあるのに色が無い。社と同じくすんだ白だが見る角度によって透明にも思える。
首を傾げる彼らに疑問を聞かずとも分かったオフィレティールは
「この鳥は社の屋根の飾りです。実体として外へ出る時は驚かせないように色がつくのです」
と説明した。
もう驚く事ばかりで何が起きても平気だと彼らは心の中でつくづく思う。ここには実体がないものばかりで、生きているのは自分達だけではないか、と錯覚してしまう程に。
この世とは思えないところへ来て、不思議な体験ばかりで思考が追いついてこないが、オフィレティールがソレルを呼んだ経緯は理解出来た。
パテロ崩壊の数日前にガリア国王から一つの荷物が送られてきた。そこにはオフィレティール宛ての手紙も添えられていて荷物に関するお願いが認められていた。
「ガリア国王には是非会いたかったのですが、もうそれは叶いませんね」
次第に声を落としていくが、残念な感じは受けない。
オフィレティールは声に出して聞く前に答えを言ってくる時がある。また何でも良く知っているようだ。それは首座ならではなのだろう。彼らの在位は二百年位で、代々の記憶の継承を行う事によってある意味歴史そのものといえる。
全ての答えはオフィレティールの中にあるのか、何でも見えている、何でも知っている、そんな風に感じているソレルとシャトウィルド。そこにあるのは畏怖か畏敬なのだ。
オフィレティールは改めてシャトウィルドに顔を向け、
「さぁ、ここは安全ですよ。あなたの決断をはっきりと伝えに行きなさい。これからの為にも、あの方々にあなたの心の内を伝えなければ」
といきなり言ってきた。
いきなりだったもので、驚くシャトウィルドは自分の迷いを誰にも言っていないし、それをオフィレティールが知っている事が、本当に知っているのかと疑問に思った。
それも察したのか、楽しそうに微笑むと再び言った。
「わたしのもとには沢山の声が届けられるのですよ、ピグマを通して。強い願い、迷い、色々な強い感情などは音なき声となっていずれわたしの元へくる」
じっと見つめられて「あなたにも覚えがあるのでは?」とオフィレティールが言っているようで、怯むシャトウィルド。心の中を見透かされている感じが居心地悪く、言葉が出ない。
シャトウィルドが会議への出席を迷っていたと初めて聞いたソレルは自分のせいなのかと考えた。いつもソレルを優先してきた彼には感謝しかない。でもいつまでも甘えてばかりはいられない。彼は今回の外交の後には家に戻り一族の長としてやるべき事が多くあるはずなのだから。
「シャル、ここは、何となくなんだけど故郷みたいで安心するの。だから大人しく待ってるよ」
隣に座るソレルが見上げて言ってきた。視線が合うとソレルは頷いて安心させようとした。シャトウィルドは話さずにいた事を反省して、ここは任せようと思った。彼もこの場所なら完全に守られると感じていたから。
シャトウィルドは立ち上がり、オフィレティールに深く頭を下げると
「こいつをお願いします」
と頼んだ。その表情は真剣そのものでオフィレティールは笑みを零した。
「安全を保障しますよ。このひかりのほしに害をなす者など入り込めませんから」
オフィレティールはシャトウィルドに近づいて指先で彼の胸にそっと触れた。
「答えは既にあなたの中にあります。あとはそれを伝えるべき人に伝えるだけ。分かっていますね、イーリス」
その言葉がシャトウィルドの中で反響する。イゾの扉ごと突き抜けて自分でもよく知らない、理解出来ない感情が揺さぶられるのを感じた。それは恐らく再現しているイゾの原形に関係しているのかもしれない。オフィレティールが最後に呼んだ名はその人の名だから。
シャトウィルドはオフィレティールを前にすると自分の中にある生まれ持った肩書きやごちゃごちゃとした複雑な感情、その他諸々の後回しにしてきたもの、その全てがすっきりと洗い流されていくのを感じる。そこに残ったのはただ一人の自分だけ。どこか身が軽くなった様な感じは悪くない。
彼は決断した。
自分がどこに居るべきなのか、自分を取り巻く環境、自分を縛り付けている見えないもの。それら全てまとめて受け止めて、昇華する。
こうしてシャトウィルドは何の憂いもなくパテロ-アントーへ出発し、ソレルはアキアと共にひかりのほしで待つ事になった。




