二話 帰郷
カムスデルはようやく到着して安堵のため息をついた。目の前に広がるのは光、光、光。光が溢れているのに全く眩しくないところ。むしろ優しく温かく包み込んでくれる。耳元では光が弾けて話しかける。お帰り、と。
彼は景色を眺めて微笑むと歩き出した。彼を導くように足下には五つ葉の植物が咲いて道を示していく。アリネストを祀る社へ。
七つほしは人工大地パテロではなく、自然の大地八つからなる空域である。自然の大地とはかつて存在したクレミスという楽園が千切れて出来た大地。それを甫址と呼ぶ。空域には地のほし、火のほし、風のほし、水のほし、ひかりのほし、はじめのほし、闇のほしとコルセイムがある。七つだったので七つほしと名付けられたのだが、かなり後になって小さなほしがまとまってコルセイムが出来た。コルセイムが加わり八つになったのだが他のほしと離れている為、七つほし外域コルセイムと呼ばれる。
地のほしは緑豊かなほし。火のほしは大地より火が噴き上がるほし。風のほしは常に風が吹いているほし。水のほしは旨き水が豊富なほし。闇のほしはアサンが常に照らしても仄暗いほし。はじめのほしはダルーナの創始者であるアルディオがイゾの扉を開いたところ。今はダルーナの本部が置かれ、修行の場となっている。
そしてひかりのほしにはアリネストを祀る社が置かれている。そこにはアリネストの記憶を受け継ぐただ一人の首座が住まう。その首座がいるから七つほしは特別な場所となっている。
カムスデルは五つ葉の植物に導かれて社へ入った。社はしんとしているが、生命に溢れている。その証拠にどこからか笑い声が聞こえ、軽い足音がする。それは全て人ではないもの達が立てる音。姿が見えない何かが彼の隣を通り過ぎて行く。
「戻りました」
カムスデルは彼らに声をかけた。人ではない彼らは笑いながら傍らへやって来てすり抜けていく。中には彼に触れるものもいて、髪を摘まみ上げて悪戯をしたり、愛おしそうに触れていく。カムスデルはそれには笑顔で答えた。朗々とした艶のある声で話す彼は見た目は壮年だが実は老者だ。そして彼らはカムスデルに一つの場所を示す。
カムスデルは待たせている人はそちらかと歩を進める。社の中で人でないものが立ち入らないところ、首座の間へ。
首座の間は現代のアリネストと言われる首座がアリネストに祈る場所。アンダステには宗教というものは存在しないが、これはそれに近い。七つほし空域の中では絶対的な存在であるし、アンダステ中の尊崇を集めているのも確か。特にダルーナへの影響力はとても大きく、アンダステの中央であるティラスも首座には一目置いている。首座は記憶の継承を行っているので、今では一般の人から自分の子孫への伝言なども頼まれる事が増えていた。その見返りとして彼らは様々なものを寄進してくる。
首座の間の入り口に掛かっている薄布が招くように揺れている。
カムスデルは祈りの最中かもしれないと躊躇したが中から声がかけられた。
「入ってらっしゃい」
久し振りに聞く清涼な声。カムスデルは布をめくって中へ入った。
跪いていたオフィレティールが立ち上がって彼に向かって振り向く。長い髪が体に沿って柔らかく揺れ、温かな慈愛の笑みを浮かべて手を差し出す。
「よく戻って来ましたね」
アサンの光より眩しい笑みは困惑へと変わっていった。
「しかし、事は思ったより早く起こってしまいました」
足を止めたカムスデルへ
「既にイゾが狙われてしまったのです」
困惑から苦痛へ表情を変えたオフィレティールは滑るように近づいて行った。
カムスデルは自然に跪き、首座を見上げた。オフィレティールは彼の頬に手を添えて苦痛の表情を緩めた。
「本当によく戻りました。一緒にあの子を迎えましょう」
柔らかく笑むと彼を立たせ両手を広げて腕の中へ包み込んだ。
「あなたの出番がとうとう来ましたよ」
その言葉にカムスデルは身を引き締めた。握った手にさらに力を込めて。その中には亡き親友の形見がひっそりと握られていた。
アステロストは藍玉の瞳でそれを見つめた。
それは透明だと思われているが実は色々な色が混じりあっている。混ざった色が次々と風になびいているように現れては去っていく。
彼がその光景を見るのは二度目。最初はこちら側へ来た時で二度目の今は帰る時。
色が躍るピグマの壁を削りながら進んで船の先端は明るいところへ抜けて行った。
彼の見つめる窓には自分の姿が映り、それを認めると口元を上げた。自分の瞳と同じになってきたからだ。緑から青へ、金青に輝く懐かしきアンダステへ。
そのまま船はアンダステ北駅へ向かって行き、ゆっくりと歩廊へ接岸した。この駅は砕壁船専用の駅でアンダステとハルストを遮るピグマの壁の近くにある。
接岸してから船内に到着の知らせと乗り換えの案内が流れた。かなり遅れて到着した船だった為、一般客は雪崩のように下船して行く。彼はそれを横目に見て乗務員に案内されて駅の控え室へ入った。そこには既に到着している副官が待っていた。
「壁越えお疲れ様でした」
丁寧なお辞儀のあと副官の女は次の間の扉を開けた。彼はそのまま進みゆったりとした長椅子に座った。副官は待たす事なく温かい飲み物と菓子を出す。
「駅が落ち着いてから出る。それまで一人にしてくれ」
そう言われて副官は頭を下げて退出した。
それを待っていたかのように別の扉が開き、頭に巻いた金茶の布をなびかせて一人の男が入って来た。
アステロストは待っていたようで僅かに笑みを向ける。それを見て男は
「ようやくお越しですか」
やや皮肉を込めて言ったが彼は柔らかく頬を緩めた、
「やっと来た砕壁船が予定の所へ向かいますよ。もうない、パテロ-ゼルダへね」
男はアステロストに見せる為に窓掛けを大きく開けた。外では乗って来た砕壁船の倉庫から出される一艘の小型の船が見えた。その小型砕壁船は方向を定めると加速していく。それを見ていた男は笑い出した。
「さあ行け、遅くなったと詫びる相手もいない所へ」
「うまくいったようだな」
笑い続ける男にアステロストが本題に戻す。男は真顔になり、頭の布を取って髪を撫でつける。
「あなたの白装束は偽物を難なく処分したようですよ」
「報告は聞いた」
アステロストは簡潔に答え、視線を部屋の隅へやった。男はその方向へ顔を向けると面を外した白装束を纏う者が控えているのを見つけた。パテロ-ゼルダで砕壁船でない船から出て来たのを確認したばかりだ。気付かなかった、と男は思いながら何者なのだろうかと考えを巡らせた。聞いてみても問題はないか、とも。
「何者なのですか?」
男の質問にアステロストは驚いたという表情を表した。
「手足となる影だよ、我々の。君達のお嬢さんも持っているはずだが」
君達のお嬢さんと言われ、男はそのお嬢さんである頭領にそんなものがいたか? と首を捻った。その悩んでいる様子が可笑しく、アステロストは綻んだ。
「そうだな、もしかしたら彼女は持っていないかもしれないな。何せ君達の中には変装に長けた者もいるだろう?」
アステロストの愉快そうな言い方に男は頷いて納得する。
男の所属する情報機関はウュトヒア全体に及ぶ大規模なもの。それを若いお嬢さんがまとめているとは信じられないという声も多いが、小さい頃から知っている男にとって驚く事ではない。優秀すぎる二人の兄に倣って幼い頃から自分もこの世界で生きていくと決めていたのを知っていた。だからウュトヒアで新たな情報網を構築する兄の助けとなるのを喜んでいたし、やる気を漲らせていたのも知っていた。何より彼女はこの仕事に従事する事に誇りを持っていた。
ところが兄に代わり統率する立場になり、様々な事が変わっていったのだがその熱意は変わるものではなかった。男は近くでずっと見ていたので頭領の考える事、望む方向は言わずとも分かると思っている。
「そうですね。その通りでしょうね」
頭領からアステロストとはイゾの仲間と聞かされている。イゾは聞いた事はあるが特別気にするものではないと軽くみていた。アンダステの人はどうしてイゾなんかを重要視するのだろうと男は不思議に思っている。
「急な頼み事をしてしまったが助かった。で、彼女に会ったんだろう? どうだった」
急に話が変わり、男は焦った。
男が情報員と共にアンダステに入ったのはかなり前。アステロストが監査役として来る前にこちらで情報網を作る為だ。彼の手助けとして。そう命じたのは他ならぬ頭領。頭領はウュトヒアの情報部部長の下に位置しているが彼女の権限は部長より大きい。その頭領は重要な仲間であるアステロストが万が一にも失敗しては困るので全面的に助けるように男に命令を出したのだった。
そして男はアステロストからパテロ-ゼルダへの潜入を頼まれていた。ある事を確認する為に。
「ああ。接触しました。でもおれには薬の知識がなかったので本当に打たれているのか判断出来ませんでした」
男は一度言葉を切るがすぐに何かを思い出し、声を落として笑い出した。肩を上下させる男を見上げて不思議そうな表情をするアステロスト。
「あの方、十八歳でしたよね。十四、十四って、無茶な事言いますね」
思い出し笑いが止まらなくなっている男。その光景が浮かんできて、不安そうに見上げる表情はまさに十四歳に見えたな、という事を思い出していた。
「あの方、自分を十四歳と言ったんですが、そりゃ無茶な、と思ったんですけどね、でもそのあと見てみると本当に十四歳にしか見えないんですよ。驚いたなぁ、あれは」
遠くを見るような目で言った男をアステロストは微笑ましい思いでいた。
「それがあの子のイゾの力だ。誰にでも似ていなくて、誰にでも似ている。あの子のイゾには多くのものが蓄積している。それを守る、今度こそ」
最後に表情を消したアステロストは声音も真剣そのもの。こんなアステロストを見るのは初めてだと思った。表情豊かではないが、いつもは優しさや思いやりのある顔つきをしていた。それなのに最後には何かに挑むような少々険しい顔をしていた。これがあなたの大事な仲間なのですか、男は心の中で頭領に向かって呟いた。
アンダステ北駅にある二間からなる控え室にアサンの光が差し込んでいる。その光がアステロストの長く淡い金の髪をさらに輝かせている。その髪を揺らして唐突に質問した。
「君の今回の名前は何というのかな?」
「今回はオードンです。ライル・オードン下士。所属はパテロ運営部」
すらすらと答え、続けて偽名の人格と背景を説明した。アステロストは頷いて聞いていたがどこか笑いを堪えているのが感じられた。偽名の人格が面白かったのだろう。
それからアステロストが片手を上げると控えていた白装束が進み出た。
「この者が連絡役となる。わたしには監視が付くだろうから、今後はこの者を通して報告を受け取る。方法はどうのようにすればいい?」
ライルは鱗模様の金茶の布を見せて
「緊急の報告がある時はこの布を身に着けます」
と言った。そして定期報告の仕方を説明した。白装束は一通り聞くと装束を脱いで初めて顔を晒した。アステロストに似た顔、髪の色と長さは違うがぱっと見ただけでは間違えそうだ。ライルが言葉を出せずに見つめているのを見てアステロストは口角を上げる。
「影だからね、似せているんだ」
ライルは納得して頷いた。
「ではおれはもう行きます」
そう言ってライルは入って来た扉へ消えた。
アステロストの影も同時に姿を消し、静寂が部屋を覆っていった。その中でアステロストは一人、帰って来た最大の目的を思い出していた。長く待たせているただ一人の人。もしかしたら自分の事など忘れてしまっているかもしれない。もしかしたら誰かと新たな人生を歩み始めているかもしれない。あんな小さな約束を守る意味もないほどの歳月が経っているのだ。
彼は彼女の動向を調べる事はしなかった。ライルの上司である頭領にも頼まなかった。もし、が怖かったから。そんな不安な状態にさせるのはあの子だけ。妹からも「何より優先しなければいけない」と散々言われていたのに。珍しく悲観的になってしまい気が沈んでいく。
直後控えめに扉を叩く音がする。副官の女だった。彼女はウュトヒアⅥから迎えが到着したと報告してきた。
現実に戻されてアステロストは立ち上がり、外の様子を見つめた。
目の前には金青の世界が広がっている。
ハードゥア・ダルである自分、彼女の側にいることが叶わない現実。ずっと見守って来た、何代にもわたって。それを噛みしめながら自分は何の為に生きてきたのか、何の為に力を欲したのか、と自問した。
答えは常に一つ。かつても今も変わることなく。
アステロストは副官に返事をすると扉を開けた。これから向かう彼の戦場、ウュトヒアⅥへ行くために。
足を踏み出すたびに思い起こされるかつて受けた問い掛け。
───君は守る? それとも愛する?───
答えはいつも一つ。