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讃岐和三盆

和三盆は四国産の砂糖である。和三盆は砂糖の中でも高級品である。讃岐の白砂糖と呼ばれて人気であった。砂糖は希少性があるため、贈答用に珍重され、結婚式などの祝い事に使われた。薬屋でも販売され、病人が舐めた。しゃっくりは砂糖を舐めると止まるとも言われた。


和三盆は「研ぎ(とぎ)」と言われる砂糖の結晶を台の上で研ぐという日本独自の製造工程がある。盆の上で三日間研ぐために和三盆と呼ばれる。和三盆は原料に含まれる栄養素を残したまま加工されるため、カルシウム、リン、カリウム、鉄などのミネラル分が含まれている。結晶をすりつぶしては圧搾する分蜜作業によって結晶体が丸くなり、白くて舌ざわりがサラサラになる。


サトウキビは南西諸島に栽培地が限られていたが、高松藩では砂糖作りを研究していた。しかし、中々うまくいかなかった。

薩摩藩奄美大島出身の関良介が、お遍路の旅に出たが、高松藩内で病気にかかり、行き倒れになってしまった。それを医師の向山周慶さきやましゅうけいが助けて治療した。良介は砂糖作りの経験があり、命の恩人の周慶の頼みを聞いた。良介は奄美大島へ戻り、国外不出の種きびを弁当箱にしのばせ、打ち首覚悟で讃岐に持ってきた。これを高松藩内で育てた。これが讃岐和三盆の始まりである。

和三盆の製造法は秘伝とされ、門外不出とされた。この製法の秘密を守るために、代々当主が秘密を守り通すことを誓う誓紙を書いた。一方で和三盆は藩財政を支える重要な財源であった。砂糖は藩の収入の柱となり、藩内産業振興策の一環として奨励された。このために門外不出も形式的なものであった。


江戸時代後期になると讃岐国阿野郡林田村は讃岐和三盆の産地として栄えた。林田村の農家は、新たに水田に畑地を造り、砂糖生産に取り組んだ。林田村の甘藷作付け率は元治元年(一八六四年)には六七パーセントであり、一七〇挺の砂糖車さとうぐるまを持っていた。砂糖車はサトウキビの圧搾装置で、明から琉球に伝わった。林田村で生産された和三盆の大半が天下の台所の大阪へ送られた。和三盆は金と同じ価値と言われた。


しかし、明治時代になると林田村のサトウキビ栽培は打撃を受けた。安価な砂糖が大量に輸入されるようになったことが大きいが、前近代的経営の問題もあった。砂糖の需要は増大したが、生産力強化による価格の低下に対応できなかった。


和三盆そのものは高級菓子に使われている。和三盆は砂糖の名前であるが、和三盆を型に押して固めた和菓子も和三盆と呼ぶ。造形美のある和菓子である。目で見て楽しむこともできる。和三盆はケーキやドーナツなど洋菓子にも使われている。和三盆を作る時に生じた糖蜜を蒸留したラム酒もある。



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