塩と林田
塩は多くの料理に欠かせない調味料である。讃岐国阿野郡林田郷は古くから塩田が発達していた。塩田は大量の海水から水分を蒸発させ、塩だけを取り出すために用いられる場所である。江戸時代になると林田郷は林田村になった。林田村は讃岐和三盆の産地としても栄えた。しかし、明治時代になり、安価な砂糖が大量に輸入されるようになると、林田村のサトウキビ栽培は打撃を受けた。
林田村では会社を設立し、近代的な塩田事業を始めた。1890年(明治23年)に林田浜を築造し、塩田とした。塩田は水田と同じように自作農の形態もあれば小作農の形態もあった。小作農も地代だけを払うパターンから労働者的なものまで様々なパターンがあった。時代が下るにつれて自作農(企業)と労働者のパターンが多くなった。
林田村では塩田の小作人の争議も起きた。林田村の塩田の小作人は1915年(大正4年)に高潮による損害救済を要求してストを行った。1937年(昭和12年)には合同機械製塩の導入をめぐって小作争議が起きた。
戦後になると塩田そのものがなくなってしまう。一九七一年には塩業近代化臨時措置法(塩業の整備及び近代化の促進に関する臨時措置法)が成立し、純度の高い塩化ナトリウムを工業的に生産することになった。これにより、イオン交換膜製塩以外の方法は許されなくなった。日本の製塩は農耕的産業から近代的な化学工業へ転換した。林田の塩田は塩業整理で全て廃止され、代わりに林田工業地帯が造成された。
塩業近代化臨時措置法は塩を食べる消費者のことを考えたものではなかった。工業製品の生産には塩を原料とするナトリウムや塩素が必要であり、原塩を大量生産することが狙いであった。昭和の日本は消費者本位ではなく、生産者本位であった。消費者からは工業的に生成された塩を食品とすることに不安や反発が生じた。工業塩を使うようになって、日本の食生活が貧しくなった。
安全で健康的な食品を求める消費者運動から伯方の塩が生まれた。伯方の塩はメキシコとオーストラリアの天日塩田塩を日本の海水で溶かして原料とした自然塩である。化学薬品を一切使わず、「にがり」をほどよく残している。自然塩は不純物が入っているために塩化ナトリウムの塩よりも逆に健康に良い。
「塩田製法で作られた粗塩は含有されている良質のナトリウム、カルシウムなど海のミネラルが働き、塩分過多による肥満を防止し胃の疲れや気力を回復してくれる」「一般に市販されている食塩は塩化ナトリウム九九パーセントで極度に精製されミネラル分が欠乏しているんだ」(剣名舞作、加藤唯史画『ザ・シェフ 7』「ジョッキー」)
伯方の塩は伝統的な塩の産地である瀬戸内海中部の芸予諸島の伯方島に因む名前であるが、メキシコとオーストラリアから原料を輸入している。自前主義にこだわらず、良い商品を提供しようとする姿勢は、事業者本位ではなく、消費者本位であり、消費者運動にふさわしい。どこの国で生産されたかよりも、どのように生産されたかが品質には重要である。




