価格信仰の錯覚
値段が高ければ、その値段にふさわしいだけの価値があるということは錯覚に過ぎない。「高いからいい」「安いから悪い」という単純な二元的な見方では、価値のあるなしはわからない。価値があるかないかを判断するためには、まず自分が「価値があると感じるか否か」を知らなければならない。
「値段が高いモノはいいモノ」は情報の非対称性による情報弱者の発想である。知識がないために高い値段が評価の判断基準になってしまう(崔真淑「「値段が高い=いい物」と判断する人の大誤解」東洋経済オンライン2019年9月2日)。値段と価値が比例するとの主張には、お金のほかに価値観を持てない、さもしい拝金主義が見え隠れする。情報弱者の価格信仰は浅ましく、愚かである。放埓な生活によって精神に靄がかかっているだろう。生活の質が問題である。
「せっかく金持ちになっても、いたずらにおカネを使うのであれば意味がない」(Hans Rosling, Ola Rosling, Anna Rosling Ronnlund著、上杉周作、関美和訳『FACTFULNESS 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣』日経BP社、2019年、82頁)。
価格信仰の拝金主義は多くのエンタメ作品で痛烈に批判されている。
「価値ってのは、自分で決めてこそナンボでしょ。自分にとってなにが大事で、なにがくだらないのか、自分以外のだれが決めてくれんのよ」(森絵都『気分上々』)。
「高価な墓石を立てるより 安くても生きてる方が素晴らしい」(大事MANブラザーズバンド『それが大事』)。
「お前は値段の高さがものの良さだと思っているのか」「高級品を身に着けふんぞり返ってみろ、それこそ品格が疑われる」(栗山ミヅキ『保安官エヴァンスの嘘 DEAD OR LOVE 3』小学館、2018年)
林田球『ドロヘドロ 2』(小学館、2002年)は安い服の店に入った人を貧乏人とする決めつけに対して、「服の趣味は人それぞれですからね。ビンボーとはかぎりませんよ」と反論した。
山田芳裕『へうげもの 25』で俵屋宗達は高価なものを身につけ、虚勢を張ることを止める。この心境になった時に最高傑作になる風神雷神図屏風の着想に至る。
藤本ひとみ『令嬢テレジアと華麗なる愛人たち』のテレジアは、自分を美しく見せるものならば何だって着ると主張した。平民の流行を貴族が真似ることへの批判の反論である。テレジアはウェストを緊縛するロココ風から、ゆったりした古典主義のファッションへの転換を主導した。
赤坂アカ『かぐや様は告らせたい 天才たちの恋愛頭脳戦 20』は誕生日プレゼントで「高価なものならば外れがない」との安直なプレゼント選びを風刺する。もらった人は高価な品物よりも他の人向けのプレゼントを欲しがった。これが現実である。値段と価値は比例しない。
私は土の中に眠っているものを発掘することが好きだ。土の中にはまだ見ぬものがいっぱい埋まっているに違いないと思っているからだ。だから、土の中から掘り出したものは全部自分だけのものだし、誰にも渡さない。それがたとえ何の価値もないものでもね。その意味では、私は無類の収集家と言えるかもしれない。価値のないものでもいいじゃないか。自分が発見したものに誇りを持っている。それこそ、どんなに小さな石ころであっても、私にとっては宝物なのだ。
普段何気なく使っている100円ショップの商品ですら、自分が愛着を持つ物ならば凄く高価な物に見えてくる。「自分だけのもの」という言葉の持つ魅力は何だろう。他人に奪われまいとする欲望である。これは決して悪いことではない。しかし、権力を持った人間がこれをすると厄介だ。権力者は自分の地位を脅かす存在を恐れると同時に憎む。だから、少しでも気に入らないものがあると徹底的に攻撃を加える。




