彼の懇願、彼女の答え
カラカラ、という音が聖堂に響く。
ゲージに入ったネズミを、プレジールの人々は讃え、拝んでいた。
「昼夜問わず、あのようにお務めを果たし、精進なさるお姿――なんと神々しくも有難い……」
邪神の魔の手から、少女の命を救った聖獣。
その噂はあっという間に国都中に広まり、ウェルフェアに住む人たちが大聖堂に詰めかけ、霊験あらたかなありがたい聖獣を一目見ようと列を成している。
一心不乱に回し車を回すネズミの姿を、涙を浮かべて拝む――神々しいという形容詞が、これほど似合わない聖獣も珍しい……。
「失礼します――ハミュエル様に、民より奉納品が」
小皿を持って、ゲイルが聖堂へやって来る。
皿には……たぶん、おむすび。炊いた米を握ったものだから、定義的には一致している。
……が、リラが描いた紙芝居をもとに伝わった料理だから、なんかちょっとおかしい。
そりゃ丸く描いちゃったけど……そこまで完璧な球体にしなくても。
「おお。聖獣様が、我々の捧げ物を気に入ってくださったようだ」
聖獣ハミューは自分の顔と同じぐらいのサイズのおむすびをフンフンと嗅ぎ、もっ、と頬袋の中におむすびを詰め込んだ。
威厳のかけらもない姿で、そそくさと巣穴に帰って行って。
ごそごそと巣穴が蠢いたあと、頬袋のすっきりした姿で聖獣ハミューはまた回し車に戻って来た。とりあえずいまは、回し車を回したいらしい。
「休むことなく、修行に励まれるとは……!なんと素晴らしくも尊い御方――我々も見習わなくては!」
参列者は聖獣ハミューに感動しっぱなしだが、好きな時に食っちゃ寝して遊び呆けてるだけじゃないか、と喉まで出かかった言葉をリラは懸命に飲み込んだ。
「ハミュエル様は、すっかりウェルフェアの人気者です」
人々に愛される聖獣を、幼いライラはにこにこと見つめる。フェリシィも、笑顔で娘の言葉に頷いた。
フェリシィにとっては、命よりも大切な娘を守ってくれた恩人……恩ネズミだから、特別な存在であることには違いない。その気持ちに水を差すつもりはなかった。
「おばあ様にお願いして、私がプレジールに帰ってくるときには、ハミュエル様も一緒に連れて帰りたいです」
「母上に、私からも頼んでみよう。プレジールとグリモーワルの友好の証にもなる。きっと反対はしないだろう」
娘の頭を撫でながら、リュミエールも優しく言った。
「グリモワールでも、ネズミの恩返し物語を作ることにしましょうか。とは言え、プレジールの女神を悪役にするわけにはいかないので、そこの部分はうまく創作しないと」
回し車をカタカタと回している聖獣を見ながら、フルーフが苦笑いする。
女神デルフィーヌと共に、新たにプレジール王国を守護する聖獣が。
苦しい日々が続いたプレジールの人々にとっては、喜ばしい話題だから、特に注目が集まるのだろう。
色々とつっこみどころはあるが、聖獣ハミューは、たしかに人々に幸運と希望をもたらす聖なる存在なのかもしれない……。
プレジールの問題も一段落がつき、これで安心してアリデバランに発てる。
……はずなのに。
一つ解決すると、また一つ問題が起きるものだ。
リラはため息をつき、彼のいる客室をノックした。
「おーい。入っていいか?」
入っていいという返事はなかったが、ダメだという返事もなかったので、構わずリラはザカートの部屋に入った。
ザカートに与えられた客室も、リラと同じように、シンプルで簡素な部屋だ。
ベッドに腰かけ、ザカートはぼんやりしている。リラが入ってきても、わずかに視線を動かしてこちらを見ただけで、ろくに反応すら見せなかった。
「……おまえ。分かりやすく悩むよな」
またため息をついてリラが言えば、ザカートが力なく笑う。
自分の悩みを、隠すつもりがないのだろう。隠したって仕方ないし。
リラは、ザカートの隣にどさりと腰かけた。
しばらく二人の間を沈黙が流れ、リラもザカートの隣に座ったまま、特に何も話さなかった。この話題については、リラでもどうにもできないから。
説得されても変えるつもりはないし、ザカートのほうも、説得したところで変わらないことは分かっているはず。
だから……ザカート自身に、折り合いをつけてもらうしかない。
「……やっぱり、帰りたいか?」
ぽつりと、ザカートが呟く。
言いづらいのか、かなりもごもごとした口調だったから、リラも危うく聞き逃すところだった。
「ああ。父さんや母さんのことを思うと、どうしてもな。こっちの世界だって大事だし、みんなのことも大好きだけど……ライラはすでに死んだ人間だから。まずはリラのことで、身近な人を悲しませないようにしたい」
「そうか……そうか――おまえにとって帰るべき場所は、こっちじゃないんだな」
揚げ足取るなよ、とリラは苦笑いする。
なかなか痛い嫌味だ。
自分が帰る場所は、リラとして生まれ育った世界。マルハマや、ザカートのもとではない――それを指摘されると、やっぱり辛い。
「……俺が、おまえを呼び寄せてしまった」
「デルフィーヌがそう言ってたっけ。それについては、おまえが自分のこと責める必要はないぜ。オレはこっちに来て、みんなにまた会えてよかった。おまえがちゃんと笑えてるのを見れて良かったよ」
「俺は後悔している。俺たちは再会すべきではなかったと」
リラの軽口に対して、ザカートは険しい声色でそう話す。リラが隣を見れば、悲しみに満ちた眼差しでザカートは自分を見つめていた。
「会いたくて堪らなかった――でも、会ってはいけなかったんだ。俺たちの道がはっきりと分かたれてしまった以上、二度と一緒になれない相手なんだから、出会ってしまうだけ苦しくなる」
無造作にベッドの上に置いていたリラの手に、ザカートの手が触れる――途端、強く抱きしめられ、リラはザカートの腕の中にいた。
力強く抱きしめられる……なんて。そんな可愛らしいものではなかった。
締め殺されるのではないかと思うほど、ザカートが強くリラを抱きしめてくる。人並外れて頑丈なリラでも、痛いと感じるぐらいに。
でもリラは抵抗せず、ザカートの背にそっと手を回した。
「どうしておまえは、別の世界に生まれてしまったんだ?こっちの世界で生まれ変わっていてくれていたら――どこで、どうしていたって、必ず見つけ出したのに……」
自分を抱きしめるザカートの顔は見えない。でも、見えなくても、いまどんな表情をしているのかは容易に想像できた。
絞り出すように話すザカートの声は、震えている……。
「帰らないでくれ……俺のそばにいてくれ……今度こそ、ずっと一緒に……」
「……おまえにそれを言われると、やっぱりきついな。さすがにオレも……心が揺れる」
「なら!」
ザカートが、リラの肩をつかんで離れる。互いに正面から向き合って……困ったように笑うリラの顔を見て、ザカートが苦しそうに顔を歪めた。
「ごめんな」
「……それは……どうして謝るんだ……?」
なおも謝罪を続けようとしたリラの唇を、ザカートが塞ぐ。それ以上、リラの話を聞くことを拒絶するかのように。
――こんなかたちで、ザカートと触れ合うことになるなんてな。
内心で苦笑いしながら、リラは目を閉じた。
恋人同士が交わすロマンチックなものとは、およそ程遠い。激情をぶつけられるだけの口付け。
でも結局、いつも自分は最後にザカートを悲しませてばかりだから、仕方がないのかな。
唇が離れることのないまま、リラの身体をザカートが押してくる。されるがままにベッドに押し倒されながらも、リラもわずかにザカートの胸を押し返した。
……抵抗しないから、もうちょっと優しく扱ってほしい。
ザカートよりはるかに丈夫とは言っても、一応、女なんだし。
「……おまえが」
リラの内心の抗議を読み取ったかのように、ザカートが静かに言った。
「おまえが、こっちに残ると……俺を選ぶと言ってくれれば、優しくする」
「それは……ちょっと無理かな」
自分に覆いかぶさり、見下ろしてくるザカートは、怖いほど真剣な表情で。
真正面から見つめ返す勇気がなくて、リラは思わず目を泳がせてしまった。
そんなリラを見て、ザカートが笑う。
……なんというか、いままで見たことのない、悪い笑い方だ……。
「だったら、俺も遠慮しない。愛しているんだ――手放すぐらいなら、いっそ自分の手で壊してしまいたいと……そんな恐ろしいことも思い浮かべてしまうほどに」
そう言えば……ザカートには、心許した相手が魔族と知った時、衝動的に斬りかかってきた前科があった。
真面目な性格ゆえに、思い詰めてぷっつんしちゃった場合の反動がヤバいタイプだったか。
「おまえ、急なヤンデレやめろ……」
追い詰めてしまった自覚があるだけに、リラも青ざめる。
でも、自分の服に手をかけてくるザカートを止めはしなかった。
それは単なる恐怖心からだけでなくて、リラ自身で、その関係を望んだから。
本当は十年前に、とっくに答えは出ていたのだろう……ちゃんとあの時に伝えていれば、ザカートの後悔もなくなって、自分たちがまた会うことはなかったかもしれない。




