旅立ちの朝
鎮魂祭のその夜、マルハマでは一晩中雨が降った。しとしとと降り続ける雨の音を聞きながら夜を過ごし、朝になった。
「雨が降って良かったな。これで少しは、水不足も解消されるようになるかな?」
今朝の朝食は、まだ昨夜の雨が残る庭を眺めながら。
食事が終わったら、アリデバランに向けて出発の予定だ。
「解消には程遠いが、希望は見えた。切羽詰まった周辺国がうちに攻めてくるのも、当面先にすることだろう。しばらくは戦の心配もなくなったな」
茶を飲みながら、カーラが言った。
「うーん……ここ最近の水不足……雨不足は、やはり魔人ナールが原因だったのでしょうか?ナールの復活が近かったから、天候にも影響が出たとか?」
好物の果物のはちみつ漬けをつまみ、中庭を眺めながらフェリシィが首を傾げる。
かもしれぬな、とセラスが相槌を打つ。
「魔人ナールは炎の災厄――大地を干上がらせ、草木を焼き尽くす。天候を操るような力はないが、雨不足に加えて魔人の影響で地熱が上がり、水が干上がった可能性は高い」
「なら、魔人ナールも消滅しましたし、改善の見込みは十分ありますね」
フルーフも笑顔で話す。
「南方地域での異変は、新たな魔王の誕生によって気候に大きな変動があったことと、魔人ナールの復活で地熱が上がったことが重なったせいだったのだろうな。これなら、魔王ネメシスを倒せば問題も解決するかもしれないぞ」
ザカートの言葉に、リラは目を輝かせた。マルハマやその周辺国を悩ませてきた問題が解決する――リラにとって、とても喜ばしいこと。ぜひ、そうであってほしいものだ。
朝食もほとんど終わりかけた頃、ジャナフがようやく姿を現した。
「遅くなってすまぬ。これを見つけるのに手間取った」
ジャナフは、箱をもった召使いを連れている。明らかに、貴重品が収められていそうな高価な箱――召使いはリラの前に進み出て、箱を開けながら恭しく差し出す。
中身は首飾り。きっと、ティカが言っていたもの。
首飾りには、淡いピンク色の宝石が付いている。
「ピンクダイヤモンドというやつか」
首飾りを眺め、ザカートが言った。
フェリシィたちも箱の中身を覗き込み、宝石の美しさに見入っている。
「ピンクダイヤモンドと言えば、とても稀少な宝石です。たしか意味は、永遠の愛」
「ティカ様は、婚礼の折にこれをジャナフ様のお父様から頂いたのですよね。まさにお二人にぴったりの品ですわ」
フルーフが説明すると、ロマンチックな贈り物にフェリシィが目を輝かせた。リラも、思っていた以上に貴重な品に、腰が引けてしまう。
「姉者。王太后自ら、姉者にもらってほしいと言っていたのだ。受け取らぬほうが、失礼になるのではないか?」
受け取ることをためらうリラに、カーラが言った。ジャナフも、リラを見つめて頷く。
「ワシからも頼む。母上のためだ。受け取ってくれ」
首飾りを手に取る父に、リラは背を向けた。長い黒髪を掻き分けて、首がよく見えるように……。
首に掛けられると、ずしっとした重さと共に、ふわりと心が軽くなる……なんとも不思議な感覚がリラを包んだ。ティカの霊力が込められた首飾り。その加護のおかげだろうか。
ありがとう、ばあちゃん――首飾りを大事に胸元にしまい込んで、リラは改めてティカのことを想った。
「朝食もそろそろ終わりのようだな。みな、旅支度はできておるか?」
朝食の皿はほとんど片付けられ、何人かがデザートを食べているぐらいの頃、ジャナフは杯を片手にそう言った。
杯の中身は酒じゃないだろうな、とリラは父を睨む。
「アリデバランに向かうんでしたね」
セイブルが言った。
セイブルが皆を乗せてアリデバランへ向かうとなると、いままでで一番長い旅になるだろうか。
「アリデバランへ向かうなら、途中でプレジールかグリモワールに立ち寄ったほうがいいかもしれません。セイブルさん任せにするには、さすがに距離があり過ぎます。途中でどちらかに寄って、転移術で少しでも負担を減らしてあげるべきかと」
フルーフが言った。それもそうだな、とカーラが同意する。
ふむ、とセラスが考え込む。
「ならばグリモワールのほうが良いかのう。プレジールはいま、わらわたちを案内している余裕はなかろう」
「――いや、できればプレジールに立ち寄りたい」
ザカートが首を振った。
「あの国は安定から程遠い状態だ。できればこまめに立ち寄って、様子を見ておきたいんだ。グリモワールのほうが、確実で無難な選択だとは思うが」
リラはちらりとフェリシィに視線をやる。
口には出さないが、フェリシィだって故郷のことは気になるらしい――当たり前だ。リラだって、マルハマがあの状態だったら、旅に出ず国に残って再建に務めただろう。
「そうだな。オレも、プレジールはこっちへきて最初に行ったきりだし、ちょっと気になってたんだ。色々と世話になったのに、ろくに礼も言えてないし。ちゃんとザカートにも会えたことを、ライジェルたちに報告しないとな」
「うむ……。プレジール王にも、セイブルのこと――オラクル王国のことを話しておいたほうがよいかもしれぬ。近隣国なのだ。プレジール王に知らせぬわけにはいかぬ」
ジャナフも同意してくれたおかげで、プレジール行きはあっさりと決まった。
朝食もしっかり食べて、全員で宮殿の出入り口へ向かう。セイブルは全員を乗せられる大きさに姿を変えて……。
「それじゃあ、行ってくる――アマーナ、泣くなよ……」
自分を見送るアマーナが大粒の涙を溜めているので、リラはうろたえてしまう。
申し訳ありません、とアマーナは涙を拭ったが、どうしても止められないようだ。
「以前の……鎮魂祭の後、プレジール王国へ向かう姫様を見送った時のことを思い出してしまって……」
ぐ、とリラも言葉に詰まる。
ライラだった時――鎮魂祭の日に魔人ナールと戦った後、父ジャナフもパーティーに加わって、ライラたちは改めて旅に出た。
聖剣となるかもしれない武器を手に入れ、ザカートも勇者の力らしきものが目覚めたから、プレジール王国の女神に、一度神託を求めてみないか、という話になって。あの時も、ライラたちはプレジール目指して旅に出たのだ。
そして……ライラは二度と、故郷に戻ることはなかった。
「縁起でもないと分かってはいるのですが……。姫様、どうか……どうかご無事で……。ご無事でさえいてくだされば……アマーナは、もう何も望みませんから……」
「大丈夫だ。今度こそ、オレは負けない」
そう言って、リラはアマーナをぎゅっと抱きしめる。アマーナも力いっぱいリラを抱きしめ、鼻をすすっていた。
アマーナやヘルム、宮殿の人たちに見送られて旅立つ。
セイブルの背に乗って砂漠を眺めながら、リラはフェリシィに話しかけた。
「そう言えば、プレジールって女神に守られた国なんだよな。あの国の女神さま、すっげー有能そうなだったのに、そんな神様でもどうにもならない状況なままなんて」
「生憎と、プレジールの守護女神はおぬしが知っておる者から交替しておる」
セラスが口を挟む。え、とリラは目を瞬かせた。
「以前の者は神としての格が上がったため、一国を守護する神ではいられなくなったのじゃ。それでいまは、別の者がプレジールの守護神を務めておる」
「前の神様は栄転しちゃって、新しいやつが異動してきたってことか」
神様の世界にも会社の人事異動みたいなことがあるんだな、とリラは呟く。会社勤めなんか、もちろんしたことないけど。
「新しい女神様のお声は、私もまだ聞いたことがないのです。プレジールの危機に、お力を貸して頂きたいのですが……」
顔を曇らせ、フェリシィが言った。セラスがため息をつく。
「神などという連中は、傲慢で魔族も人間も見下しておるからのう。前任者が特殊だったのじゃ、特にフェリシィは、前の者が選んだ聖女。やはり、前任者の時ほど優遇されぬ可能性は高い」
「そっか。新しいやつになると、そういう問題も起きるよな」
前任者がいい人だと、次の人と馬が合わなかったとき、その落差がよりきつく感じるもの――相手は人間じゃないけど。




