偉大なるマルハマ王
「ふ……ふふ……ははは!わしを滅ぼすか……!面白いことを言う……!」
魔人が笑う。這いつくばったままではあったが、それは単なる虚勢ではないような気がした。
「なるほど……たしかに、わしの力はずいぶん削がれてしまったようだ。だが……これが十年もの研究の結果だと」
「どういう意味だよ?何がおかしい?」
リラは目を吊り上げたが、嫌な雰囲気は感じ取っていた。
魔人の高笑いに対し、ジャナフとカーラが反論しない――魔人が言わんとしていることを察しているだろうに。反論できない彼らの姿が、なんとも言えない不安を掻き立てた。
「結果、わしを弱らせることしかできなかったということだ。この十年間、わしを滅ぼす決意で手を探し続けたにも関わらずにな」
ニヤリと、魔人は自分を戒めるカーラを見る。
「見つからなかったのだろう?わしを完全に滅ぼす方法が。弱体化が精一杯。もう一度封印することしかできぬのだ。貴様らには所詮、その程度のことしかできぬ――何度でも、わしは蘇ってやる!」
吐き捨てるように、魔人が吠え叫ぶ。
「人間ごときが――いずれおまえたちの小癪な術も装置も食い破り、わしは完全な力で復活してやるぞ!わしにトドメを刺せぬ限り――いずれ、必ず――」
『そうだな。おまえを滅ぼすことができなければ、いつまでもマルハマは災厄の恐怖に怯えることになろう』
凛と響く女の声が、吠え狂う魔人の声を一瞬で黙らせた。聞き覚えのある声だった。その場にいる全員が、誰かなんて考えなくても声の持ち主を察した。
魔人の身体に取り巻く光の鎖がまた強い光を放ち、眩しさにリラはちょっと目を細めてしまう。鎖がジャラジャラと動いて、一部が伸び……人の形のようなものに変わった。
魔人を捕えた鎖の先に、ジャナフの生母ティカが姿を現す。
母上、とジャナフが呟くと、魔人を冷たく見下ろしていたティカは困ったようにわずかに笑った。
『……私のような女を、まだ母上などと呼ぶとは……おまえはいささか、お人好しが過ぎるぞ』
ティカは、もう一度視線を魔人に戻す。その眼差しは冷たいが、長きに渡る憎悪と敵意が込められ、瞳の奥には激しい復讐の炎が燃え上がっていた。
『いつかこんな日が来ると思い、かけておいた術だ。おまえが復活した時、少しでも力になれればと……まさか、これほどの好機にめぐり合わせるとは』
ティカの腕には、光の鎖が何重にも絡みついている。鎖でティカと魔人は繋がっている……解くことはできない。
『おまえは、私と共に地獄に落ちるのだ。この鎖がある限り、私からは逃れられん。私の道連れとして――我が魂と共に』
そんな、と叫びそうになったが、リラの声は魔人の叫び声にかき消された。
咆哮のように叫んで、もがき始める。起き上がることはできないようだが、鎖をつかんで引きちぎろうと――鎖でつながれたティカも、魔人の剛腕に引きずられている。
「どうした、呪術師よ。わしへの戒めを強めなくてよいのか」
魔人が膝をつき、身体を起こそうとする。カーラは封印術を強めようとして……ためらっているのは、リラの目にも明らかだった。
構わぬ、とティカが叫ぶ。
『カーラ、何をしている!私はとうに命持たぬ身……私のことになど構わず、魔人を捕えることを優先するのだ!』
「フン、やれるものならやればよい!道連れだというのならば、せいぜいおまえも苦しめてやるわ!」
魔人は吠え続け、カーラは悔しさをにじませて魔人を睨み……鎖が光った――否、鎖ではなく、魔人の身体が光った……。
……と、思ったのだが、よく見たら、鎖の光とは別の光が魔人の身体を包み、立ち上がりかけた魔人は再び地に這いつくばった。
「ライラ、カーラ、ジャナフ……!大丈夫か!?」
ザカートの声が聞こえてきて、どこから、とリラはあたりを見回す。
ザカートたちは町へ行ったはずだし、声が聞こえてきたのは、自分たちの背後――宮殿に続く階段からではなかった。大きく風を切る音も聞こえてきて、大きな姿へと変えた竜が現れた。
ザカートたちは、セイブルの背に乗っている。
「ザカート!?助かったけど、なんでここに……!?」
リラが言えば、セイブルの周りを鷹のリーフがすいーっと飛び回る。ザカートが苦笑いでリーフに視線をやるのを見て、神獣が勇者に異変を知らせてくれたのだと察した。
フェリシィが竜の背の上で杖を握って集中し、祈りを捧げる。
雲一つない澄み渡った青空から、輝く雨が降ってくる――魔の力を封じ込める、浄化の雨だ……。
山頂の上を飛び続けるばかりで、セイブルは降りてこない。竜の背で、彼らがわいわいと喋る声だけが聞こえてくる。
「すみません、私ではこれ以上そちらへ近付けなくて……」
「近付いてはならぬぞ、セイブル。そなたも魔の力を受けた者じゃからな。祭壇の聖気で、わらわたちなどジュッと消えてしまうぞ」
セラスの言葉にセイブルは戦慄していたが、まさか、とフルーフが一蹴した。
「そこまでの力だったら、ライラさんが足を踏み入れることも敵いませんよ。でも、これ以上は近付かない方がよさそうですね」
リラは、再び這いつくばった魔人を見た。
……今度こそ、これで終わりだ。勇者の光に、聖女の力も食らって、もはや虚勢を張る力すら残っていない。
ただ悔しげに……長きに渡ってマルハマを苦しめ続けた巨悪とは思えぬほど無様な姿を晒すばかり。
「くそっ……くそおおっ!その女さえ、勝手な真似をしなければ……!おまえは、わしの子を生むためだけに生かされていたのだ!余計な感情を芽生えさせおって……!」
「おーい!そこの変態魔人!」
竜の背から、セラスが大声で呼びかける。
「残念じゃったのう!その小娘ならば、おまえの力を継いだジャナフのものになったぞ!おまえが放ったらかしにしておる内に、見下していた人間に横からかっさらわれた気分はどうじゃ!?」
「おまっ――いくらなんでも、ここで公表することないだろ!」
そりゃ、全然隠してないけど。でも、大声で吹聴して回るのは話が別だ。
リラは顔を真っ赤にして反論したが、セラスはフンと鼻を鳴らし、いい気味じゃ、と笑っていた。
「わらわを痛めつけた分の仕返しをして、何が悪い」
果たしてそれは仕返しになるのか、と思ったのだが、リラが思ったよりもずっと、魔人は大きな反応を見せた。怒りで顔を歪め、自棄になったように叫ぶ。
「この――この……わしのまがいものの分際で!わしのものに――」
「てめえもうるせえ!おまえと親父だったら、親父一択に決まってんだろ!気持ちの悪い主張するんじゃねえ!」
先ほどまでの緊張した空気はどこへやら、何やらバカバカしい雰囲気に、ジャナフの生母ティカは目を丸くし……やがて、ふと笑い出した。
『……そうか。そなた、ジャナフと結ばれたのですね。そう……とてもめでたいこと……。ライラ、カーラ』
ティカに呼ばれ、二人は彼女を見た。
ティカは、穏やかに微笑んでいる。彼女の優しい微笑を、リラたちは初めて見た。
初めて会った時からいままでずっと、重い鎖が彼女の心を戒めていたから……彼女はずっと、心の底から笑うことができないでいたのだ。
『ジャナフとマルハマを、よろしく頼む。ライラ。私が婚礼の折、ガラド様から頂いた首飾りを持っていくがよい――どの品かはすぐに分かる。遺言で、あの首飾りは私の墓に埋葬することなく、時が来るまで厳重に保管しておくよう書いておいた。きっといまも、宝物庫の片隅に眠っておるはず……』
いいのか、とリラが問いかければ、ティカが頷いた。
『その首飾りには、私の霊力を込めてある。そなたの心を取り込もうとする魔の力……あれを身に着けていれば、少しはましになるだろう……』
大事なものを、自分が受け取る――その重みにリラも一瞬だけ悩んだが、素直に頷くことにした。
ティカの最後の願いでもあるのだ。リラだって、二度と魔に心を取り込まれるわけにはいかないことは分かっている。ありがたく、彼女の力を借りることにしよう……。
ティカは、ジャナフに視線をやる。ジャナフも反射的に背筋を伸ばし、母を見つめ返して黙り込んだ。
だがやがて、目を泳がせ、そわそわと……。煮え切らないジャナフの背をリラが押す。
「親父。ばあちゃんとは、これで本当にお別れなんだぞ。いま言いたいこと言っておかないと、もう次の機会もないんだぞ」
リラに発破をかけられても、ジャナフは煮え切らない。絶対、言いたいことはたくさんあるだろうに……。
「は、母上……その……」
ようやく口を開いたものの、もごもごと喋るばかり。そんなジャナフに、ティカは困ったように笑う。
『……私のような女のことを、母と呼ぶな。我が子を何一つ信じなかった、愚かな女だ……』
自嘲する母に、ジャナフはぐっと唇を結ぶ。改めて母を見つめ――もうその視線は、泳ぐことはなかった。真っ直ぐに、母から視線を逸らすことなく対面している。
「たしかに……恨んでおらぬかと言われれば、まあ、やはり思うところはある。ワシも、ワシのことを信じてほしかった。当たり前のように褒められ、抱きしめられ……認められたかった。だが……ワシもライラとカーラに出会い、一端に人の親となってみて……親というのは、我が子への責任に思い悩むあまり、時に非情と化してしまうこともあるのだと知った」
一旦言葉を切り、ジャナフは一度深呼吸してからまた話し続けた。
「思い悩み……追い詰められてしまった母上の気持ちも理解できる程度には、ワシも大人になったということだ。だから、もうそのように自分を責めなくてよい――ワシはそのようなことを望まぬ……他ならぬワシがそう言うのだから、母上も……」
それ以上は、ジャナフも言葉が出ないようだ。
ジャナフはきっと、はっきり言い切ることはできないのだと思う。
母を許す、と。
心情的にはほとんど許しているのだが、まだわだかまりもあって。そう言い切れるほど、ジャナフも割り切れていないのだろう。
だが、ティカにはそれで十分すぎるほど……。
『……おまえは……本当に……立派になった』
そう呟いたティカの目に、涙が浮かぶ。
後悔や、立派になったジャナフを誇らしく思う気持ちや、色んな……複雑な感情が混ざった涙だったことだろう。
『すまなかった、ジャナフ。私が間違っておった。ガラド様のおっしゃる通り、私はただ、おまえを信じてやればよかったのだな……ガラド様の子なのだ……魔人になど、負けるはずがないと……』
言葉に詰まり、懸命に涙を堪えようとするティカの前で、ジャナフはおろおろと立ち尽くしていた。リラはそっと背後に回り、ごめん、と心の中で呟いて父を蹴飛ばす。
不意打ちの蹴りを食らって、ジャナフはいささか不機嫌そうにおい、とリラを睨んだが……蹴飛ばされた弾みに自分と母の距離がぐっと近付いたことに気付いて……。
自分を見上げる母をしばらく見つめた後、ティカを抱き寄せた。
「マルハマのことは案ずるな。これからも、ワシが身命を賭して守ろう――親父と母上の子だぞ。そのワシがおるのだ、何も心配することはない。母上は、あちらの世界で……親父やシャオクと共に、のんびりと過ごせばよい……」
そう言って、ジャナフはぎゅっと母を抱きしめる。声が、少しだけ震えていた。
ティカは大きく吐息を漏らし、ジャナフを抱きしめ返す。ろくに抱きしめたこともなかった息子――最初で最後の、母としての抱擁だった……。
『……ありがとう。ジャナフ』
竜の背の上で見守っていたザカート――フェリシィが鼻をすすり、自分も目尻に堪るものが溢れ出そうになった時。鋭い痛みで、涙も引っ込んだ。
ザカートの頭を、鷹のリーフが突いている。
「痛っ――痛、分かった!分かった、リーフ!もう俺たちは立ち去るから!」
相変わらず、自分にはやたらと厳しい鷹だ。
ザカート様はすっかり気に入られているのですね、とフェリシィはクスクス笑うが。
「そうですね……これでナールも本当に終わりです。僕たちがこれ以上ここに留まるのは、無粋というものかと」
祭壇を清らかな光が包み、王の生母ティカと魔人ナールの姿が消えていく。魔人はこれで……マルハマの巫女と共に、二度と這い上がることのできない冥界へと落ちた。
それを確認できたら、自分たちは速やかに祭壇を出て行かなくてはならない。
マルハマ王家の人間にしか許されぬ場だ――ジャナフたちの危機を救うため、一度だけ特例を許されただけ。
神獣リーフは、そう言いたげだ。
「良かったですわ……。最後に、ジャナフ様とティカ様が仲直りできて。ティカ様だって、魔人ナールの被害者だったのです。魔人のせいで人生と親子関係を歪められ、苦しんできたのですから……」
祭壇から離れていくセイブルの背に乗ったまま、山頂を見つめてフェリシィが言った。
「ジャナフのためにも、これで良かったのじゃろうな。あやつも、ライラやザカートに劣らずお人好しゆえ。下手に遺恨を残すと、あやつが苦しむ」
「僕もそう思います。ジャナフさん、いつまでも御母君が自分のことを思い悩み、苦しみ続けることを喜ぶような人間ではありませんから。ティカさんが安らかに眠ってくださったほうが、ジャナフさんも安心できます」
ザカートたちの会話を、セイブルは黙って聞いていた。口を挟むことなく、タルティーラの町へと飛んで行く。
――混ざれない自分が、少し悔しい。
自分は知らない、彼らの思い出。いつか……ゆっくり、知ることができたらいいなと思いながら。
祭壇から光が消え、ティカと魔人の姿も消えていた。広い石舞台は何事もなかったようにしーんとしており、墓碑だけが、沈み始めた日の光を受けて輝いている。
「……ばあちゃん、地獄に落ちちゃったんだよな。あいつと一緒に……」
リラがぽつりと呟けば、心配いらん、とジャナフが豪快に笑いだした。
「あちらの世界には、ワシの親父がおるのだぞ!親父は母上にベタ惚れだったからな――地獄に一人、母上がおると知って、放っておくような男ではない!地獄の亡者など片っ端から蹴散らし、一目散に母上を迎えに行くに違いない!」
ジャナフは、心の底からそう思っているようだった。明るい笑顔に陰りはない。
「見た目も中身も親父殿にそっくりの男だったらしいからな、親父殿の父親は。なら、本当に心配はいらないだろう」
カーラも笑い、同意した。
そっか、とリラも笑った。
「そうだよな。じいちゃんがいるんだ――オレは会ったことないけど、あのばあちゃんが惚れ込むぐらいの男なんだから、きっとそうなんだよな」
リラはジャナフ、カーラと手を繋ぎ、墓碑に振り返った。
先のマルハマ王ガラドが、必ず地獄からティカを救い出し、魔人ナールへの復讐も果たすことだろう。来年の鎮魂祭には、夫ガラド、もう一人の息子シャオクと一緒に、ティカもマルハマに帰ってくるだろうか……。




