回顧録・守り守られ
部屋に人がやってくる気配を感じ、アマーナは手直ししていた服から顔を上げた。
アマーナへの取り次ぎもなしにライラの私室に入って来れる人間は、二人しかいない。弟のカーラと、父ジャナフ。
予想通り、ジャナフが部屋に入ってきて、アマーナは椅子から立ち上がった。
「顔を見に来ただけだ。悪さはせぬ」
思わず緊張してしまったアマーナの内心を察したように、ジャナフが苦笑いで言う。アマーナは赤面し、頭を下げた。
相手の合意もなしに女性の寝込みを襲うなんて、そんなこと。ジャナフに限ってありえない。
それはアマーナもよく知っている。なのに……やっぱり、夜更けにライラの部屋を訪ねてきた彼に、どうしても警戒せずにはいられなかった。
ジャナフはベッドに近づき、眠るリラの顔をじっと見つめている。
その眼差しには、愛しさと……悲しみを思い出すような色が混ざっていた。
ジャナフにとっても、会いたくてたまらなかった人。
二度と、その笑顔を見ることも、抱きしめることもできないと、この十年間癒えることのない寂しさを抱え続けてきた。
寂しくて堪らなくて他の女性にぬくもりを求めたこともあったけれど、ぽっかり空いた穴は埋まるどころか深まるばかり。
ライラの代わりが、存在するはずがないのだ……。
そっと手を伸ばし、ジャナフはリラの頭を撫でる。
リラがもぞもぞと動き、うっすらと目を開けた。ジャナフを視界にとらえ、嬉しそうに笑う。
ニコニコと笑った後、また目を瞑ってすやすや眠ってしまった。
「……こやつ、ワシに狙われてる自覚があるのか」
さすがのジャナフも、これには呆れるしかない。アマーナもクスクス笑う。
「姫様にとって、ジャナフ様のおそばは、世界中のどこよりも安らげる場所ですもの」
「うむむ……こうも信頼されると、悪さがしにくいではないか」
そんなこと、最初からするつもりもないだろうに。
リラの長い黒髪を指で撫で、もうしばらく愛しい人の寝顔を見つめた後、ジャナフは静かに部屋を出て行った。
「部屋に戻る。何かあったら呼べ」
アマーナは頭を下げ、王を見送った。
それはまだ、ジャナフも二十を越えたばかりの若かりし頃。
マルハマの傭兵として戦場を駆け巡り、ある戦の一場面。
彼について共に戦うヘルムは、主人に撤退を勧めていた。
「すでに勝利は確定しておるのだ、退く必要などない!」
「おっしゃる通り、すでにあちらの敗北は確定しております。だからこそ我々も撤退すべきなのです!」
戦場は、すでに敵方の敗北が確定していた。にも関わらず、こちらの勝利を確定させたいジャナフは戦いを続行する意思で、さらなる追撃の体勢に出ようとしている。
はっきり言って、無駄な血なのだ。
なのにジャナフは退かず……単身で乗り込んでいって、追い討ちをかけようとしたがる。
ジャナフは父王亡き後、宮殿を出て、戦いに明け暮れるようになった。
それは、己の居場所を求めてというよりも、死に場所を求めてだろう。
生みの母から存在を否定されて育った男は、普段の陽気な姿からは想像もつかないほどの闇を心に抱え、歪んだ思いを抱いていた。
マルハマのために死ねば、母も、少しぐらいは自分を認めてくれるのではないか。
ジャナフの戦い方は、自身の並外れた身体能力に任せたものだけでなく……わざと自分を痛め付け、追い詰めているようでもあった。
ヘルムは昔からずっと、死に急ぐジャナフを説得し続けて……最近、主人の心境に大きな変化が起きているのを喜ばしく感じていた。
「こちらも突然の襲撃でしたから、万全の体制ではございません。万一にも、追い詰められた敵が決死の反撃に出て、前線が突破されてしまったら……後方にも、被害が及ぶやも」
後方に。
その言葉は、がむしゃらに戦うことに取り憑かれたジャナフに強い衝撃を与えた。
後方には、男たちを支える女子供が。当然、幼いカーラはそこで待機している。すでに戦力として数えられるようになったライラは、防衛に加わっていて。
ライラとカーラに、万一のことがあったら――恐れ知らずのジャナフの、唯一恐怖すること。
ギリ、と歯を食いしばり、わずかに悩んでジャナフは撤退を決意した。
ジャナフの決定にヘルムがホッと胸を撫で下ろしていると、部下の一人が慌てた様子でジャナフに報告に走ってくる。
「ジャナフ様!後方にて敵の襲撃を受け、その混乱で、避難途中の者たちの中からはぐれが出ております!女子供だけではぐれてしまっていたので、敵に狙われてはひとたまりもありません――すぐにライラ様が救出に向かいましたが、はぐれの中にカーラ様がいらっしゃるらしく……ジャナフ様なら、彼女たちを追跡できるのではないかと報告に――!」
聞くが早いが、ジャナフは駆け出してしまい、ヘルムたちは彼の後ろ姿を見送ることもできず、吹き抜ける強風に何人かは吹っ飛ばされていた。
当時のカーラはまだ四歳という幼さであったが、すでに呪術師としての才能を見せ始めていた。
最近習得したばかりの護りの陣を貼って、無力な女子供を懸命に守る――それでも、幼いカーラではすぐに突破されてしまうようなもろいもので。
それなりの実力者であれば、すぐに破れてしまうだろう。だから、姉が駆け付けてくれた時には心の底からホッとした。
「そいつとまともに戦うな!この結界を突破して、人質を得ることを優先しろ!」
敵の一人が指示を出し、全員では飛び出さず、何人かが連携を取ってライラの妨害に努め、残る数人はカーラの張った結界を破るほうを優先した。
結界破り用の短剣で、カーラたちを攻撃し――当然、その武器がカーラたちに届くことはない。護りの陣によって阻まれるのだが、向こうも、カーラに直接攻撃するつもりはないから気にしない。
この手の短剣は殺傷能力はほとんどなく、結界に衝撃を与えることを目的としている。
結界に与えられる衝撃は、術者のカーラにダイレクトに伝わる。
鍛えた男ならばこれぐらいの衝撃にも平然と耐えるが、幼いカーラでは……。
「姉者……!」
結界を破られてしまわないよう必死で術を支えながら、カーラは思わず姉に助けを求める。
姉は、いつもより動きに精彩がない。
普段はもっと身軽に動き回り、あちこちを跳ね回ってあっという間に敵を蹴散らしてしまうのに、いまは……まるで、わざと自分の力を押さえているような。
どうしてなのか考えている余裕もなかったが、カーラの声に反応し、ライラは力を加減するのを止めて思いきり跳んだ。
自分の足止めをする敵の脇を全力ですり抜け、結界を破ろうとする男を蹴散らす。
――こちらに突っ込んできた姉は、顔をかばうように腕で何かを防いでいる。
自分のそばまで姉がやって来て、そこでカーラは気付いた。
あたり一面に、糸が張り巡らされている。姉の血が滴って、それでカーラでも目視できるようになったのだ。
糸で傷つくこともためらわずに突っ込んできたものだから、姉の足や腕には切り傷や……肉が抉られた箇所も。
「姉者!手当てを……!」
「いらん!それより、カーラ、親父がこっち向かってきてるぞ!ちゃんと感知して、ここへ呼び寄せろ!」
姉に言われ、カーラはハッと父の気配を追った。
呪術を習い始めたカーラが真っ先に覚えた術は、マーキングをした対象に転移する術、自分のもとに呼び寄せる術、この二種類だった。
敵に発見された時のために、逃げ出す手段と、姉や父に助けてもらう手段――まずは戦う方法より、生き延びる方法を覚えろと父に言われて。
集中して、呪印によるマーキングの気配を追う。この術を覚えてすぐに、父と姉の身体に描いた。いまのカーラでは、数メートル範囲が限界だ。
姉は、呪術は使えないが生まれつき感知能力が非常に高く、呪印のマーキングなんかなくても数十メートル先のカーラやジャナフを追うことができた。
……姉に負けないよう、自分ももっと精進しないと。
「ジャナフだ!全員、糸の中に入れ!」
カーラによって呼び寄せられ、ジャナフが瞬間的に現れる。ジャナフの姿に、敵も顔色を変えた。
張り巡らされた糸の中に入って、ジャナフの攻撃から身を守ろうと――ジャナフの一撃で、あっさりと糸ごと吹き飛ばされていた。
「やつは化け物か……!」
少し離れたところから戦況を見ていた呪術師は、ジャナフの規格外の強さに衝撃を受ける。
人間離れした頑丈さと怪力ぶりを聞いてはいたが……鉄すら切り裂く呪術の糸を、素手で潰すとか……本当に人間なのか、と驚愕するしかない。
呪術の糸――攻守一体の武器で、肉弾戦を主にする相手には効果絶大のはずであった。実際、自由に動き回られると厄介なライラは封じることができた。
呪術の糸が邪魔をして、いつものように動くことができないでいた。
これならば、ジャナフにも対抗できる。そう喜んでいたのに……。
「……しまった!あの小娘は……!?」
ジャナフの強烈さに目を奪われ、絶対に目を離してはいけなかったライラを見失ってしまった。
呪術師が急いで周囲を確認するよりも先に、頭上から落ちてきた少女の蹴りを食らい、意識を失った。
「術者がやられたぞ!退け!退けーっ!」
姿を隠していた術者が気絶し、地面に倒れ込むのを見て、敵の生き残りが叫び、一斉に逃げ出す。
……真正面から戦って、ジャナフやライラに勝てるわけがない。この二人を倒すためには、術者によるサポートが必須だ。
不利を悟り、一目散に撤退する。
ジャナフは猪突猛進を絵に描いたような戦い方しかしないが、ある時から突然現れた娘のライラは、父親並みの身体能力に加えやたらと勘が鋭く、術者や罠を瞬時に見抜いて潰してしまう。
術者は、絶えず彼女の動きを封じる立ち回りをしなくてはならない。
ライラは今回も術者の存在には早々に気付いていたのだが、弟たちを守ることを優先し、呪いの糸の妨害もあって自由に動けなかった。
ジャナフの登場で、ライラの動きを阻むものもなくなってしまったから――などと、作戦の失敗点を考えている余裕もなく、敵はひたすら逃げた。
逃げていく敵を追撃せず、ジャナフはカーラとライラに駆け寄る。
父の姿を見て安心したカーラは、ふっと術を解き、気を失ってしまった。
「カーラ!」
「心配はいらぬ。疲れただけであろう。カーラはオレがおぶろう――おまえは、女たちを本陣へ先導してやれ。後ろはオレに任せろ」
弟を心配するライラに向かって、ジャナフは指示を出す。ライラは素直に頷き、本隊からはぐれてしまった女性たちを連れ、女子供が避難する本陣へと向かっていった。
その後、夜も更けたキャンプ地。
談議の合間に子どもたちの様子を見に来たジャナフは、テントから聞こえる声に溜め息をついた。早く寝ろと言ったのに、まだ起きているのか……。
「こら!いつまで喋っておる!明日は朝早いと言ったであろう!」
ジャナフが叱れば、寝台の上で並んで横になっていたライラとカーラはハッとした顔で振り返る。
まだ幼い二人は、ジャナフの寝台で一緒に寝ることになっているのだ。
そろそろ、二人にもそれぞれの寝台を与え、別々に寝るべきだと分かってはいるのだが……二人も父と一緒がいいと言うし、ジャナフも、積極的に分ける気にはなれなくて。
「背中トントンしてやるから、さっさと寝ろ!」
「えー、やだぁ!親父のは背中トントンじゃなくて、ケツしばきだろ!」
「やかましい!いいから寝ろ!」
ジャナフの大きな声に、わいわいと騒ぐライラとカーラの声。
微笑ましい親子のやり取りが、テントの外にも聞こえてくる。昼間の襲撃の緊張感もすっかり和らぎ、相変わらずにぎやかなことだ、と外で聞いていた者たちは笑っていた。
「まったく。ケツしばきだのなんだのと文句を言っていたくせに、あっさり寝たではないか」
自分が寝かしつければ、五分と経たずにすやすやと眠り出した二人を見つめ、ジャナフは呆れたように呟く。
テントの中で親子のやり取りを見ていたアマーナは、くすくすと笑っていた。
「お二人とも、お父様に構ってほしいだけだったのでしょう。ジャナフ様はお忙しく、自分たちだけで独り占めするわけにはいかないと理解しているものの、やっぱり気を引きたくなってしまうのですわ」
「ふん……口だけは達者になったが、まだまだ甘ったれだな」
そう言いながらも、ジャナフはライラとカーラの頭を撫で、愛情のこもった眼差しで二人の寝顔を見つめる。
やがて、踵を返してテントを出た。
「まだ話し合いが残っているので出てくる。何かあったら呼べ」
アマーナは頭を下げ、ジャナフを見送る。
ライラとカーラ姉弟がジャナフを必要とするように、ジャナフにもライラとカーラが必要だ。
子どもたちを守っているようで、自身が守られていること――心のどこかで、彼も気付いているに違いない。




