舟遊び
護衛は必要なかったな、と思いながらフルーフと一緒に執務室に戻っていたリラは、廊下を一人で歩いているカーラと出くわした。
ちょうどよかった、紙芝居をカーラにも見てもらって感想を、と声をかけるが、ちょっと様子がおかしい。
「……カーラ。親父はどこ行った?」
弟がこういう態度をしている時は、だいたいこれだ――リラが見ていないのをいいことに、ジャナフが酒を飲みに行ったに違いない。
「すまぬ……姉者に怒られるぞと、一応止めたのだが……」
「あのバカ親父……!」
いっそ、放っておいてやろうか。
それも考えたのだが、たぶん、放っておいたらそれはそれで拗ねるだろう。構ってちゃんな男だ。
「探してくる。町にいるんだよな?」
「ああ。呪印の気配を辿ってみるに……城から南東の方角。五百メートルも離れていない」
「それだけ手がかりがあれば十分だ」
リラはフルーフとカーラと別れ、城を出た。
マルハマ人で、あんな大きな男。目立たないはずがない。リラの予想にがたがわず、城を出て南東のほうへ向かいながら町の人たちに聞き込みをしてみれば、あっさりと後を追えた。
どうやら、ジャナフは舟に乗りに行ったらしい。
舟と言っても、大海原を旅するための巨大な船ではなく、町に流れる水路を移動するための小型のもの。
十年前も、水の都と呼ばれるターブルロンドでは小舟で水路を移動する光景が普通であった。水没寸前のいまは、特に重要な交通手段だ。
「こらー!親父ーっ!」
酒の用意がされた小舟に、ジャナフが乗り込もうとしているのが見える。リラが大声で呼びかけたが、ジャナフは舟を出してしまった。
岸替わりの建物の屋根から少しずつ舟が離れていく。リラが舌打ちして睨んでいると、おまえも早く乗れ、とジャナフが急かしてきた。
「これぐらいなら跳べるだろう。ほれ、早く」
リラはため息をつき、少し後ろに下がって助走をつけてから舟に飛び乗った。綺麗に着地しないと、こんな小さな船、すぐに転覆してしまう。
自分が乗り込んだことで左右に揺れる船の上でバランスを取り、揺れが収まると、リラは仁王立ちになって父を見下ろす。
「まったく。こんな時でも酒かよ」
「こんな時だからこそ、飲んでおくのだ――本当は、おまえと共に飲みたかったのだ」
酒を傾けながらそう呟くジャナフは、思いのほか真剣な表情をしていて。
ジャナフの隣に、リラは腰を下ろした。小さな舟だから、大柄のジャナフと並んで座るとぎゅうぎゅうだ。でも、いまはジャナフとくっついていたい気分だった。
「なんて言ったっけ……えーっと、舟を漕ぐやつ、ないみたいだけど」
「オールのことか。この町の水路は独特の流れをしておるらしい。水の流れに任せておけば、町を一周して元の場所に戻ると説明しておったぞ」
舟の行き先がちょっと心配なリラに対し、ジャナフは寛いでいる。
そう言えば……この町で舟に乗るのは、初めてじゃなかった。
「十年前も、クルクスの城に乗り込む前に、こうやって舟に乗ってたな」
リラが言えば、ジャナフが笑う。
「思い出したか。そうだ……あの時も、おまえとカーラの目を盗んでこっそり町へ出て、酒と共にワシは舟に乗り込んだ」
もちろん、ライラとカーラにはすぐ気付かれて。
追いかけてきたライラたちに陽気に手を振り、ジャナフはのんびり舟旅を楽しんだ。
――カーラ!オレをあの舟まで飛ばせ!親父ブン殴って、舟ごと沈めてやる!
――さすがにそれは……姉者なら本当にやってしまいそうなので、賛同できぬ。
そんなことをやいやい言い合っている二人を横目に、酒を飲んだ。次は二人も乗せてやるか、と。そう思っていた。その願いは、永遠に叶わなくなるとも知らずに。
「……こうして、叶うことになるとはな」
「ん?なんか言ったか?」
舟から町を見るのも、なかなか幻想的で美しい光景だ。
そんなことを考えていたリラは、ジャナフが何か呟いたのを聞き逃してしまった。
いいや、とジャナフは笑顔で首を振る。リラを、ぎゅっと抱き寄せた。
リラは少し恥ずかしそうにしながらも、抵抗することなくジャナフの腕に収まっている。むしろ、自分から甘えるように身をすり寄せてきて……。
「すごい光景だよな。元の世界に戻ったら、こんなの絶対に見られない」
「だろうな。こちらでも、このような町は滅多に存在せぬ」
ほとんどが水に沈んでしまった町。町の人たちが明るく暮らしているから悲惨な雰囲気はなく、彼らもまた、観光として売り出すたくましさ。
美しく澄んだ水の都を、リラはじっと見つめていた。
「……やはり、元の世界に戻るのだな」
ジャナフが尋ねると、少し間を置いてリラが頷く。はっきりと答えることは、さすがのリラもためらったようだ。
彼女を抱く腕に、知らず力が入ってしまう。
「父さんと母さんが心配してるから。ごめん……ライラは、死んでしまったんだよ。オレはもう、リラだから」
「そうだな……」
分かっていて、目を逸らしていたこと。
――ずっとライラと呼びかけているが、彼女は、もうライラではないのだ。
ライラとしての記憶もあり、ライラと同じ力も持っている。
……でも、リラとしての思い出もあり、人格もある。いまの名前で、呼びかけなければならないと分かっているのに……。
「なあ、親父。オレさ……親父が、世界で一番かっこいい男だと思ってるから」
「どうした、急に」
「あんま真面目に返すな。オレも恥ずかしいから――ちゃんと伝えておきたかったんだ。親父がオレたちを助けてくれて、そのおかげで、ライラの物語は始まった。ずっと感謝してたんだ。ずっと尊敬してた……」
そうか、と頷くと、それきりリラが黙り込んでしまう。
彼女の言ったように、恥ずかしいというのもあるのだろう。湿っぽい空気は苦手だし、お互い。
「オレにとって、親父は憧れの男なんだから、王様の仕事も頑張れよ。何もかも親父一人で背負い込むことはないと思うし、カーラを頼ったっていいけどさ……まあ、ほどほどにな」
「分かった」
どうしてもお説教まじりになってしまうことに、リラ自身、顔をしかめている。そんな彼女の心境を察したようにジャナフは笑い、愛しい想いでリラを見つめた。
リラもじっとジャナフを見つめ返す。
「アマーナには、ごめんって伝えておいて。挨拶……できなくなった」
うむ、と頷き、ジャナフが顔を近づけてくる。
一瞬、リラもためらった。
だってここは舟の上で……いまのところ人影はないが、誰が見てるかも分からない場所。でもそう言って、ジャナフをはねのけるのは嫌で――自分も、本当は望んでいたから。
リラは目を閉じ、口づけを受け入れた。
「……マルハマのこと、忘れないから。ライラとしての人生も、いまのオレを築く大事なものだから……マルハマも、大切な故郷だ」
マルハマを忘れずにいられたこと。リラにとって、それはとても幸せなことだ。
どちらかを選ばなくてはならない悲しみはあるけれど、不幸だとは思わない。
元の世界に戻っても、ちゃんと覚えていたい。
「あ……あと、酒はほどほどにな。酒の飲み過ぎは身体に悪いんだぞ。年取ったら、一気にガタが来るぞ。親父、もう若くないんだからな!」
「分かった分かった。急にお説教モードに戻るな。せっかくの雰囲気がぶち壊しではないか」
そう言いながらも、ジャナフも楽しそうに笑っている。
やっぱり、自分たちにしんみりした空気は合わない。リラもそのことに苦笑しつつ、またジャナフにもたれかかって、短い舟の旅を楽しむことにした。
「どうしても、おまえは酒を飲まぬのか?」
「最後だし、付き合ってやりたいけど……勘弁してくれ。今日はもう、飲むのを止めないからさ――お酌ぐらいならしてやるぜ」




