回顧録・一難去って
「大丈夫……そうだな」
魔物の体内から飛び出してくるなりド派手に暴れ回り、怒りに任せて蹴り飛ばしているライラに、ザカートが苦笑する。
だが、ジャナフは首を振った。
「まずい状況だ。さっさとトドメを刺して、戦いを終わらせるぞ」
え、とザカートは目を丸くしたが、カーラも険しい表情をしていた。
「姉者の髪。いつもより長い」
言われて見て、ザカートも気づいた。普段はうなじが見えるぐらい短い彼女の髪が、いまは背中にかかるぐらいまで伸びている。
魔族としての力が、目覚めかけているのだ。
「姉者もかなり無理をしているのだ。戦いを長引かせると、今度は姉者のほうを止めなければならなくなる」
見てみれば、ライラもボロボロだ。彼女の回復能力を持ってしても、ダメージが回復しきれない――ライラだからこそ、耐えることができた。
同じように吐き出されたフルーフは、よろよろと起き上がる。ちょっと身体を動かすだけでも痛みが襲い、フルーフは呻いた。
フルーフ、と自分を呼ぶ声が聞こえてきて、フルーフはなんとか顔を上げた。
すぐ間近に、王太后グラースが……ぼんやりと彼女を見上げる自分を、グラースがぎゅっと抱きしめる。
「義母上……汚れますよ……」
魔物の血反吐にまみれ、自分はすっかり汚れてしまった。酸の水もまだ染みついているから、消化されるほどではないけれど、自分に触れた相手の皮膚も焼けてしまう。
だがグラースは構わず、跪いてフルーフを抱きしめていた。
「……ごめんなさい。餌にならないといけなかったのに……命惜しさに、逃げ出してきてしまいました……」
かすれた声でフルーフがそう言うと、グラースが身体を離し、フルーフを睨む。
いつも凛とした姿を崩すことのない彼女が大粒の涙を溜め、抑えきれない嗚咽を漏らして……。
「私は!あんなやつの餌にするために、あなたを育ててきたわけじゃない!ブランシュだって……そんなことのために、あなたを生んだわけじゃないわ!」
グラースは唇を噛み締める。それ以上は言葉が出ないようで、またぎゅっとフルーフを抱きしめてくる。そばに来た兄が、ぽんと優しくフルーフの頭を撫でる。
兄をじっと見つめ、じわりと、フルーフの目にも涙が浮かんできた。
「私も愛しているわ、フルーフ。私も、ブランシュも……あなたが元気に生まれてきてくれて、どれほど嬉しかったことか……」
グラースの言葉に、ごめんなさい、とフルーフが呟く。
本当はちゃんと、分かっていた。義母も、兄も、自分のことを愛してくれていると。でも、もしかしたらという疑念が拭えなくて。
それが本当だったらどうしよう――餌として、死を望まれていたら。
確かめるのが怖くて、フルーフは逃げた。わざと悪い方向に考えて、自ら最悪の選択をした。
そしてライラたちを巻き込んで、グラースたちを悲しませて。信じきれなかったために、自分を大切に想ってくれる人たちを傷つけてしまった。
「ライラ、タイミングを合わせるぞ!」
「分かってる!」
ジャナフが、巨大な頭を殴り飛ばす――待ち構えていたライラが頭上から踵落としを食らわせ、魔物の頭は地面にめりこんだ。
強烈なダメージに魔物もすぐは動けず、その隙を狙って、カーラが呪縛を施す。ライラとジャナフの二人がかりで抑え込まれ、ついに魔物も捕縛されてしまった。
「ザカート!」
カーラの呼びかけに応じ、ザカートも剣を構える。ぐっと力を込めると、勇者の痣が光りを放った。
無防備にさらけ出された長い首を狙い、剣を思いきり振るう――大蛇の長い首に比べればちっぽけな剣だが、光をまとった退魔の剣は魔物の首を一刀両断し、大きな頭がぼとりと落ちた。
「うわ……頭を斬り落としてやったのに、胴体のほうがまだ暴れてるぞ!」
ライラが飛び退き、ザカートも急いで魔物の亡骸から離れる。
間違いなく、魔物の命は絶たれた。ただ、最後の抵抗とばかりに、頭を失った胴体が暴れ回り、壁や地面、天井にぶつかって。
「逃げるぞ!」
ジャナフが言い、衰弱しているフルーフを抱えて出入り口へ向かう。狭い階段を、ライラとザカートが最後に向かった――二人を追って、すでに息絶えたはずの大蛇の頭が飛び掛かってくる。
ライラが拳を握る。
その前にザカートが飛び出し、魔物の頭をさらに真っ二つに斬った。返り血に、ライラが辟易している。
「うう……地上に戻ったら、真っ先に風呂入ってやる!」
潔癖というわけではないが、泣き出したいぐらいに不愉快だ。ライラが叫び、ザカートも苦笑いで同意する。
紫の瞳が、美しく輝いているのを見て、内心ホッとしながら。
反撃しようとしたライラは、とっさに拳を構えていた。ライラが拳を振るうのは、魔に心を取り込まれた時だけ。
そんなそぶりを見せなかったが、ライラも相当追い詰められていたのだな……。
十年前、リラたちはグリモワール城に住み着いていた魔物を倒してしまった。
自分とフルーフは脱出できていたのだから、あのまま斬ってしまわずとも、逃げ出してしまえばよかったのではないか。
リラがそんな疑問を口にすると、いいえ、とフルーフが首を振る。
「あそこまで敵意を植え付けてしまったら、倒すしかなかったと思いますよ。それに、もうグリモワールには差し出せる贄もありません。誓約は果たされず、遅かれ早かれ、レプティルと道を分かつしかなかったかと」
「そっか。あの時は嫌な目に遭い過ぎて頭に血が上ってたけど……冷静に考えてみると、あいつには悪いことしたかもな」
グリモワールへ向かって飛ぶ竜の背の上で、リラは考えながら腕を組む。
グリモワール側の選択で人間を食わされていたのに、都合が悪くなったら害悪として退治されてしまって。
あの魔物は、人間の事情に振り回された被害者でもあると思う。倒すしかなかったとフルーフが言い切ってくれて、ちょっとだけホっとした。
「だがグリモワールの異変は、あの魔物を失ってしまったことも原因のひとつだろうな」
カーラが言い、でしょうね、とフルーフも同意した。
「あの後、グリモワールでは水位をコントロールするための研究が続けられてきました。その成果も、少しずつ見えてきた頃だったんですが……魔王ネメシスの登場で、僕たちの研究では追いつかないほど水位に異常が起きてしまって」
やっぱり、グリモワールの守り神も同然だった魔物を倒してしまったのは、大きな痛手だったようだ。
ライラたちはあの魔物退治の後、ほどなくして魔王クルクスに戦いを挑みに行き……ライラは、グリモワールのその後を知る機会もないままこの世を去った。ライラも、グリモワールの異変に責任がないわけでは……。
「そう深刻にならないでください。最近、良い報告を聞けましてね。もしかしたら、グリモワールの問題も解決できるかもしれません」
そう言って笑顔を向けるフルーフを、リラはじっと見つめる。
自分を励ますための詭弁……ではなく、フルーフは何か確信がありそうだ。でもそれが何なのかは説明してくれなかった。
「まだ僕の推測にしか過ぎない状態なので。大外れだったら恥ずかしいので、もう少し秘密にさせておいてください」
「おまえなら大丈夫だと思うから、そう言うなら詮索しないけどさ」
話している間に、グリモワールの王都ターブルロンドが見えてくる。相変わらず、綺麗な町は水に沈んだままだ。
「ミカさんも帰ってきているそうです。オラクルの情報を、期待しましょう」
フルーフの言葉に、セラスがため息をつく。
「あやつ、ちゃんと帰ってきおったのか。また好奇心にとらわれ、本来の目的などすっかり忘れて帰ってこぬのではないかと思うておったわ」
ミカは、元はグリモワールの人間。魔界にうっかり落ちてしまって。魔界への探求心と興味から、人間の世界に戻らなかったという前科がある。
セラスの言い草ももっともで、リラたちも苦笑いするしかない。
……それでも、ミカが無事に戻ってきてくれて、セラスも内心ホッとしていることだろう。
それを指摘すると拗ねてしまうので、誰も口には出さないが。




