回顧録・脱出
フルーフを背負って崖をよじ登りながら、ライラは大きくため息をついた。
……さすがの自分も、これはなかなかきつい。
「暑い……フルーフ、大丈夫か?」
崖を上がるたびに、暑さがさらに体力を奪っていく。
フルーフも、自分の背中で荒く呼吸をするばかりで、返事をする気力さえないようだった。ライラにしがみつくのも、もうほとんど力が入らなようで。
急がないと――腕を伸ばして上へ登ろうとしたら、急に光が。自分の腕に描かれた呪印が光っている。
カーラか……。
「――見えた!ライラはあそこか!」
剣を握り直し、ザカートが言った。
大蛇の長い首……胴体……どっちか分からないが、とにかく顔より下のほうでかすかな光が見える。
「ええい。思ったより、上のほうまで来ておるな」
ジャナフが言い、ため息をついて拳を握る。
無事なのは喜ばしいが、ライラたちは魔物の顔の部分まで戻ってきている。なかなか、攻撃場所に困りそうだ。
「やはりダメか。転移術は期待しないでくれ」
姉を呼び寄せられないか試してみるが、魔物の体内では力が遮られるのか、カーラの呪術も効かない。自力で出てきてもらうしか……。
熱さに苦しむ魔物は、聖剣を持つザカートを狙っていた。
どうやらこの魔物、知能はあまり高くないらしい。とにかく熱さに耐えかねて飛び出してきて、分かりやすく目につく退魔の力を敵視し、攻撃している。
ならば、とザカートが囮となり、横からジャナフが猛攻を仕掛ける。
だが大して賢くない代わりに頑丈で。おまけに、水中に逃げられので厄介だ。
「セラス!また水に潜りおったぞ!もう少し温度を上げられぬか!?」
ある程度ダメージを受けて危険を感じると、魔物は水中へ身を隠してしまう。結局、水中の熱さに耐えきれず再び顔を出しては来るのだが、せっかく与えたダメージも回復されてしまうし、すぐに顔を引っ込められては致命傷も与えにくい。
装置に魔力を送るセラスは、分かっておるわ!と怒鳴った。
「ライラたちが死なぬようギリギリに保つという無理難題がなければ、こんなもの――わらわだったら、あやつを焼き殺すこともできるのじゃぞ!」
セラスも、手加減とか、コントロールとか苦手なタイプだ。容赦なく魔力をぶっ放してやればいいのなら、すぐに終わるのに。
「親父殿、もう少し魔物を抑えてくれ!さすがに呪縛が間に合わぬ!」
「つかみにくいのだ!こやつの身体は!」
殴り飛ばすにしてもなかなかの重さだし、いまだ全体が見えぬ巨体を抑え込むのは、ジャナフでも一苦労だった。せめてライラがいてくれれば……二人がかりなら、なんとか……。
「フェリシィ!セラス!」
自分を狙っていた魔物が、後方の片隅に下がっているフェリシィたちを見つけたことに気付き、ザカートはぎくりとする。
巨体のくせにやたらと動きは素早くて、魔物はフェリシィたちに飛び掛かる――すぐにフェリシィが結界を張って自分たちの身を守ったが、蛇の牙は結界を突き破り、結界が攻撃を阻めたのは数秒程度だった。
ライラたちの安否は気になるが、この状況では躊躇ってもいられず、勇者の力を使って退魔の剣で蛇の長い首を薙ぎ払う。深手を与えるには攻撃が遠かったのだが、悲鳴にも似た甲高い鳴き声を上げて魔物は首を引っ込めた。
「また水の中か!」
ザカートの一撃は強烈だったらしく、魔物はまたすぐ水中に潜ってしまう。
やっぱり、まずはライラたちに出てきてもらわないと。どうしても、攻撃を躊躇ってしまう。
ゴゴゴ、という不吉な音が鳴り響く。
なんだ?とライラは頭上を見上げた――途端、大量の水が降ってきて。
水ではない。湯だ。滝のような猛烈な勢いで降り注ぎ、ライラも必死に崖にしがみついて耐えた。
呼吸もままならず、少しでも力を抜くと崖から落ちてしまいそう。水の圧に、フルーフも苦しんでいる。背中で、フルーフが自分から離れていくのを感じた。
「フルーフ……!」
水のせいで姿はよく見えないが、とにかく手を伸ばし、ライラはフルーフの手をつかんだ。
だが水の勢いと水圧に耐えながら、崖にしがみついてフルーフを支えるのはきつい。
「フルーフ……手を伸ばせ……オレの手にしがみつけ……!」
ライラが言えば、フルーフがなんとか手を伸ばそうとするのが見えた。
――人間を消化するほどの強力な酸。壁にも、酸の水が染み出てきている。
そんなところをよじ登って。いくらライラでも、無傷でいられるわけがない。回復が追い付かず、彼女の手はボロボロだ。
自分は、彼女の手を振り払わなくては。余計な荷物がなければ、もっと身軽に動けて……ここからだって、とっくに脱出できていただろうに。
フルーフは、自分の手をつかむライラの手に、もう一方の手を伸ばした。
普段なら力で勝てないが、いまの彼女なら……自分でも、容易に手を振り解ける……。
……なのに、自分は。
「よし――次が来る前に、さっさと出るぞ!」
水が止み、ライラは自分の手に両手でしがみつくフルーフの身体を引き上げる。今度は自分たちの身体を結び付けるものもないから、フルーフの体力だけでしがみついてもらうしかない。
二度目は、もう耐えられない。ライラは慎重さを投げ捨て、スピードを上げることにした。
「……ごめんなさい。ライラさん」
「ん?なんか言ったか?さっきの水で頭キーンってなってて、よく聞こえないんだ」
自分の背中でフルーフが何か言っているが、ライラは聞き取れなかった。
また、ゴゴゴと不吉な音が響いてくるし。
「くそっ、もう次が……」
血の気が引いたが、その音が、今度は足元から聞こえてくることに気付いた。
足元……。
「ひえっ……!」
下を見て、ライラは思わず悲鳴を上げてしまった。背中におぶさるフルーフからも、うわぁ、という声が漏れている。
「あれですね。いわゆる血反吐――」
「解説すんな!考えたくもねえ!」
黒っぽい赤色の、ドロドロとした液体が、猛スピードで下からせり上がってきている。
方向からいって、あれは自分たちをむしろ押し上げてくれるものだろうが……絶対嫌だ。生理的嫌悪感に、ライラは限界を越えた力を発揮して崖を駆け上がった。
「いまのはかなり効いたであろう!」
荒く呼吸をしながら、ジャナフが言った。
頑丈なくせにやたらと逃げ回りおって――おかげで、ジャナフもスタミナ切れ寸前だ。思いきりブン殴らせてくれるのなら、こんなにスタミナを消耗することもなかったのに。
「よし、これで呪縛を――」
ジャナフの強烈な一撃が見事に決まり、魔物は悶え苦しみ、動きが鈍った。
呪縛を施して、完全に動きを止める。カーラが術を唱えたが、水から飛び出してきた巨大な尾が薙ぎ払ってきて、妨害されてしまった。
「装置が……!」
王太后の、焦った声が聞こえる。振り返ってみれば、セラスたちがいた場所を硬い尾が直撃し、地面が抉れ、装置は粉砕されていた。
グラースたちはザカートがかばったので問題なかったが――。
「しまった――これで、また水に潜られたら――」
ジャナフも青ざめている。
魔物がベッと大量の血を吐き出し……それに混じって、聞き覚えのある声が。
「痛っ!」
ちょっと緊張感のない悲鳴に、カーラは目を瞬かせた。魔物の血反吐が叩きつけられた場所で、もごもごと何か動いている。
「ライラ!フルーフ!」
吐き出されたライラに、ザカートが駆け寄る。ライラにかばわれ、フルーフも一緒だ。
「ライラ、大丈夫――」
「てめー、この野郎!」
自分を気遣うザカートも完璧スルーで、怒り狂ったライラが魔物に飛び掛かる。
激怒したライラの蹴りを食らい、魔物は豪快に壁に叩きつけられていた。




