公園のガボジ ひろ
「砂」
近所の砂場にはガボジがいた。
なぜガボジという名前だったのかは覚えていない。ガボジのジは爺が訛ったのだとか聞いた気もするが、深く知ることもなかった。
ガボジは公園のベンチで一日中何をするでもなく座っていた。
公園で遊ぶ僕らに声をかけてくることはないし、こちらからも干渉することはなかった。
いわゆる、浮浪者だったのだろう。子どもの頃の僕らは彼が何者かはっきりと認識はしていなかったが、本能的な部分で進んで関わってはいけないものとして了解していた。
だが、僕は一度だけガボジと話をしたことがある。
年も暮れようとする、骨にまで冷気が染み込む寒い日だった。
理由ははっきりと覚えていないが、僕はいつもよりかなり遅い時間に一人で公園を通りがかった。
日はとっぷりと暮れていて、子どもたちはすっかり帰っている頃だった。
公園の隣に建つマンションの灯りが、ぼんやりと敷地を照らしていた。
ガボジは普段小さな子どもたちが遊んでいる砂場の脇に胡坐をかいて座っていた。
いつものベンチにいないのを不思議に思ったのだっただろうか。僕は些細な好奇心で、公園へ足を踏み入れた。
興味を持って砂場へと近づいたものの、人ひとりいない公園は気味が悪いほど静かで、僕の足音は予想外に響いた。
かなり離れたところだったのにも関わらず、ガボジがこちらを振り向いた。
「おお、ぼうず。どっした」
初めて聴くガボジの声がどうだったか記憶にない。公園の風景の一部だったガボジに話しかけられたことが驚きだった。
既に僕は公園に足を踏み入れたことを後悔していた。
これまで気に留めていなかったが、ちゃんと見るガボジは、端的に言って良い心地のする存在ではなかった。
伸びっぱなしで油ぎった髪、垢や汚れで黒く変色した皮膚。声が発せられた口から覗く歯は黄ばんでいた。
僕は身を翻して帰りたかったが、一度関わってしまったことがそれを阻んだ。
実際のところ、ガボジがどういう人物なのか知らない。逃げようとした瞬間に追いかけられるかもしれない。
「喋れねぇんか。おめ、いつもここで遊んどるの」
ガボジは話し続ける。
僕は唾をひとつ飲む。
「僕、もう帰らないといけないので」
驚くほど、か細く掠れた声だった。
ガボジは口の端を歪めた。
「ええが、ええが。面白いことやっとるから、ちょいと来い」
ガボジは右手で僕を招く。
僕は催眠術にかけられたような足取りで、ガボジの言葉に従って砂場へ向かう。体は緊張で熱くなっていた。
近づくとガボジからは牛乳を拭いた後の雑巾のような嫌な臭いがした。
「ほーれ、これが今日の収穫じゃあ」
ガボジは座る腰の傍においたバケツをこちらに見せた。
底がひび割れた子ども用のプラスチックのバケツ。目を凝らしても中には何もなかった。
「これだけ釣れりゃ、今日はたらふく食えっぞ」
ガボジはまた口の端を歪める。僕はそれがガボジの笑みなのだと気づいた。
ガボジの傍には先にビニール紐がゆわえ付けられた木の枝が置いてあった。子どもがごっこ遊びをするのと同じだ。
「さて、もうちっと釣るか」
そう言うとガボジは、量の手のひらに粘性のある唾を吐きかけた。擦り合わせた手でお手製の竿を掴み、糸を砂場に垂らす。そのままガボジは黙りこくった。
僕は早くこの状況から脱出したかった。ガボジは寒さと空腹でおかしくなってしまったのは明らかだった。
ただ、ここから立ち去るための最適な行動が見つけられない。おかしくなったガボジは僕に対して何をするかわからないのだ。
「ほれ! またかかったぞ」
ガボジの竿が揺れていたが、僕の目にはガボジが自分で木の枝を揺らしているようにしか見えなかった。
しばし格闘したのち、砂場に垂らされていた糸が空を舞った。
「ほれ、またええのが獲れた。ぼうず、一匹持ってけ」
ガボジはそう言って、おわん型にした手をこちらに差し出した。
皺の一つ一つにまで黒く汚れが刻まれた手。もちろんそこには何も乗っていない。僕は怖気がした。
このまま話を合わせることも考えたが、空想の魚はガボジの頭にしかない。下手に受け取ってしまえば話に齟齬が生まれて何が起こるかわからなかった。
「…その魚を餌にしたらどう?」
ガボジが虚をつかれた顔で固まる。
「小さい魚を餌に、もっと大きい魚を釣るんだよ。そうすれば、もっとお腹もいっぱいになるよ」
以前、テレビの衝撃映像で釣った魚にサメが食いつくシーンを見た。それを思い出してのとっさの言葉だった。
「…おめ、頭ええなあ。そんなこと考えたこともなかったが。よし、いっちょやってみるか」
ガボジは差し出していた手を引っ込め、上機嫌でビニール紐に空想の魚を取り付け始めた。
再び砂場に垂らすガボジ。瞬く間に竿に動きがあった。
「おお、これは今までにねえ大物だ」
ガボジのもつ竿が大きく揺れていた。胡座をかくガボジ自身も揺れ始める。
「これは、とんでもねえ。ぼうず、手伝ってくれ!」
ガボジは空想の魚と格闘しているとは思えない必死の形相でこちらを一瞥した。
「おい、俺は竿を離せねえんだ。このままじゃ引き込まれちまう、早く!」
僕は一瞬で判断した。
竿を両手に持ち、砂場に体が傾いだガボジに背を向け、一心に走った。
背後からは何事か叫ぶガボジの声がしていたが、脇目も振らず公園を駆け抜けた。
数ブロックを全力で駆け抜け、僕は家に飛び込んだ。
その夜以降、公園からガボジの姿は消えた。
ガボジのことは、昔から皆知っていたけれども、わざわざ行方を気にするような友人はいなかった。
大人たちにもそれとなく尋ねてみたが、ガボジがいなくなってむしろ嬉しく思っている様子だった。
ただ奇妙なことがある。
いなくなって数日後、僕は夕暮れの公園を歩いていた。
ふと砂場を見ると、平らな砂地に何かが突き出ているのを見つけた。
ガボジが持っていたビニール紐の結び付けられた木の枝。
その先端が砂場から顔を出していたのだった。




