あなたの隣で
マキはキッチンで鼻唄交じりになにやら作っている。土曜の午後、マークとブランチに焼き鮭、卵焼き、味噌汁などの和食を食べて、それから思い思いに過ごしているところだった。パソコンソフトから流れる機械的な声と、ぎこちないマークの声がリビングより聞こえてきている。
『今日は晴れていますが、週末は雨になるみたいです』
「今日は、晴れていますが・・・・」
『今日は晴れていますが、週末は雨になるみたいです』
(まるっきりNHKの日本語講座みたいね)
「今日は晴れていますが、しゅ・・・、あー、速い!ついていけない!」
マキはクスリと笑って、ガラス製ボウルの中のバターをカシャカシャと混ぜた。マークが日本語ソフトを買ってきたのはしばらく前のことで、暇をみつけてはこうして勉強しているのだが、来年早々に受ける司法試験もあり、言語上達はなかなかに厳しい模様だった。英語と日本語の文法、構成、発音などがまるきり違うのだから当たり前といえば当たり前なのだが。
頭をボリボリ掻きながら、マークがキッチンへやって来た。
「今日は晴れていますが、明日もお天気なようでよかったですね、マークさん?」
マキが日本語でそうマークに話しかけた。
「え?センセイ、なんですか?」
「先生」という言葉だけ日本語で、あとは英語で言ったマークは、後ろからマキを抱きしめ、
「なんでキミはこんな難解な言葉を母国語に持っているんだろうねぇ?」
と、頬にチュッとキスした。
「あら、日本語は世界でもとても美しい言語の一つだと思うんだけど」
「誤解しないでよ。オレもそう思うけど、難し過ぎるんだよ。名詞によって数の数え方が変わるとか、男女で言い方が違うとか、複雑過ぎるだろ」
「今からそんな弱音吐いてどうするの?敬語に謙譲語、丁寧語なんて出てくるのに」
「なんだ、それ?もう手に負えないよ」
「ま、日本人でも使い分けは難しいから、心配しないで。今できることを頑張ってよ。あとで見てあげるから」
マークはまたマキの頬にキスを乗せ、
「サンキュ。うん、頑張るよ。キミの話す言葉をオレも話せるようになりたいから。ところで、何を作ってるんだい?」
「明日の朝食べるバナナブレッド」
「お、いいね。でも、明日じゃないとダメ?焼き立てをオレは食べたいんだけど」
「一晩置くともっと美味しくなるのよ。今日のティータイム用のお茶請けはもう用意してあるから」
「わかったよ、マキセンセイ」
ニーッとマキがマークに笑って見せ、今度は彼女の唇に軽いキスを落としたマークは、なめらかなマキの頬に無精ヒゲそのままの自分の頬をジョリジョリと当て擦った。
「痛い!マーク、ちょっとやめて~。ヒゲが痛いんだってば!」
マークはわざともうひとすりさせてから、ひひひ、と笑い、リビングを通り過ぎて寝室へと向かった。
「ヒリヒリするじゃない、も~!」
と言いつつ、マキはシェービングクリームの人工的な香りがしない週末のマークの肌の匂いが好きなのだ。頬擦りされた部分をひと撫でしてから、またバター練りを再開させていると、
「マークの部屋は、魚臭いです」
突如聞こえてきた絶妙な日本語にマキは大笑いした。
(明日も晴れるみたいだし、お弁当を持ってピクニックに出るのもいいかも)
そう思いついたと同時に、この何気ない日常のひとつひとつの出来事を大切にしていこう、と、改めてマキは思った。
◆◇◆◇◆
本日の読み書き稽古はいつもの宿屋の一室ではなく屋外にて行うことになり、ミリアムとマルクは宿屋の主に借りた荷馬車で野原へとやって来た。木陰に布を敷き、二人で読本の一節を一緒に読んだ。マルクは本の音読をする時、最早突っかかることはなく、するすると読むようになっていた。
「はい、素晴らしい音読でしたわ」
「そうか」
マルクはいささか照れの入った笑顔を見せた。
「もうわたくしの教えること等殆どございませんわね。お一人でいろんな本をお読みなさいまし」
「いや、それは困る。俺はもっとあんたにいろいろ教えてもらいたい。ほら、歴史とか、他には・・・、何があるんだろう」
「本屋にお一人で行かれたことは?」
「姫さんが遣っているあの本屋には時折行っている。古くなって売り物にならなくなったものをあそこの主がくれたりもするんだ」
「まあ、そうでしたの。わたくしからも御主人にお礼を申し上げないといけませんわね」
「宿屋のおやっさんといい、本屋の主といい、懐の深い親父ばかりでありがたい」
「それは貴方自身の人徳なのでは?」
「そうなのかな、そうだといいな。そのおやっさんからさっき言われたんだが、ここ最近の俺は使う言葉が綺麗になって来たそうなんだ。字が分かるようになって来て、本が読めるようになった。そのおかげだ」
「そうですね。このところの貴方の努力には目を見張るものがありますもの。そして、これはわたくしの師からも言われることなのですが、言語とは我々人間が有すものの中で特別であると。他の動物は言葉を持ちません。
せっかくの素晴らしい伝達道具を持っているのですから、人は可能な限り綺麗な言葉を用いて活用すべきだと、わたくしも思います。難解である必要はありません。
貴方は本当に努力家ですわ。
宿屋の御主人がそうおっしゃったのは、毎日のお仕事の傍ら、勉学に励む貴方への賞賛でもあるのではないでしょうか」
ミリアムがそう言うと、マルクは嬉しそうに破顔した。うら若い身で一人村から出てきて、懸命に働き自立している。日雇いの下働きの仕事が続くのも、雇い主に気に入られていないとできないことだ。
「あ、そういえば、この本の中でちょっと解らない部分があったんだ」
マルクはそう言って、本の頁を捲っている。
ミリアムがそっとマルクの横顔を見ると、剃り残した顎髭がまばらにあるのに気付いた。手元が暗かったせいなのかも知れない。それとも支度の際、焦っていたのか。彼はどのように髭をあたるのだろう、と疑問が湧いた。子供の頃、近習が父の顔に剃刀をあてているのを見たことがあったが、マルクは自分であたるに違いない。
父が少し伸びた髭がある時に頬擦りしてきて、それがひりひりと痛いため嫌がった幼少の頃のことも思い出した。
(殿方なのだわ・・・)
と、ミリアムは改めて不思議に思う。周りにいる男性陣は身なりをきちんと整えている者ばかりなので、その剃り残しを新鮮に感じるのだ。
(頻繁にはお会いできないけれど、こうして貴方のお側にいられますことをとても、とても嬉しく感じます)
この幸福感をマルクに伝えた方が良いのか、と、思いあぐねていたら、マルクがふ、と本から顔を上げてミリアムを見た。相変わらずの光を宿した碧眼。ミリアムが見惚れていると、素早くマルクが唇を寄せてきた。
「・・・・・・」
顔を赤らめて、
「今のは不意打ちでしたわね」
と、ミリアムが言うと、
「せずにはいられなかったんだ」
マルクはそう答え、ミリアムの顔は火が点いたかのように赤く燃えたのだった。