♯1
______聖マリーア学園。創立百十年を迎える、中高一貫の名門校。そこには、一人の教師が居た。
久遠寺美人。彼女は、普通の教師に見えた。外国人のような、亜麻色のサラサラとした髪。淡い栗色の、生き生きとした、意志の強そうな瞳。目鼻立ちの整った、白磁の顔。彼女の魅力は、何と言っても、時に見せてくれる優しげな微笑みだ。その美貌と穏和な性格で、彼女は生徒達から好かれ、尊敬されていた。
中等部の二年生である川田真実も、例外ではなかった。真実は、基本的に大人が嫌いであったが、久遠寺に対しては心を開いていた。久遠寺の笑った顔は、真実の心に「平穏」を齎もたらしてくれたからだ。今年の担任教師が彼女であったことを、真実は、密かに神に感謝していた。
…………それなのに。
「…………」
……眼下に広がるこの光景は、何なのだろうか…………。
真実は初め、何を見ているのか分からなかった。
テスト期間だというのに、うっかり理科のノートを教室の自分の机に忘れてしまったのだ。今日は理科の勉強をする予定だったので、ノートは必要不可欠。慌てて学校に戻って、自分のクラスの扉を引くと______そこには、久遠寺が居た。
「あら、どうしたの? 川田さん」
彼女は、いつものように口元を綻ばせる。久遠寺のその笑顔は、真実の心に安寧を齎すどころか、真実の頭を疑問で埋め尽くしていく。
「……何、をしているのですか…………?」
真実の色白の顔から、血の気が引いていく。声は震え、久遠寺への恐怖を象徴していた。大きく見開かれた、少女の目に映る景色。そこには、紅に染まった鋭い刃を持ち、笑う久遠寺。……そして、彼女が持つ刃に狩られたであろう、少女の姿があった。
少女は床に倒れ込み、ピクリとも動かない。安らかな表情から、眠っているようにも見える。だが、少女のワイシャツの左胸にある刺し傷が、決して少女がただ眠っている訳ではないのだということを示していた。……きっと、もう手遅れである。
凶器は、久遠寺の手に握られている刃物で間違いは無い。しかし、何故久遠寺はこの少女の生を奪ったのか。犯行に及んだ動機だけが、真実には全く分からなかった。一瞬、これが自分が見ている悪夢なのではないかと思ったが、辺りに飛び散った鮮明な「赤」が、現実なのだと教えている。
「そ、その刃物を置いて下さい……!」
真実は混乱したような声で、久遠寺に言った。すると彼女は、意外にも素直に真実の言葉に従った。その無垢な瞳には、悪意など微塵も無いようだった。
「……ど、どうして。こんなことを…………」
彼女は、特別な存在だった。器量も良く、皆からも愛されて。真実が知る中で、一番順風満帆な人生を歩んできた人間だ。そんな彼女がどうして、人殺しに身を堕とす必要があったのか。真実の疑問に、久遠寺は哀愁を帯びた表情で答えた。
「……この子が、可哀想だったから」
彼女は、床に横たう女子生徒を視界に捉えていた。ダークブラウンの頭髪は、窓から差し込む陽の光に照らされ、橙色に輝いて見える。長い睫毛に縁どられた瞳が開かれることは、もう無いのだろう。世間的に見れば、この少女はかなり可愛らしい容貌をしている。……そんな彼女の身に、何が起こったのか。久遠寺は全て知っていた。
少女の名は、佐山小雨。中等部の二年生。彼女は久遠寺が担任をしている二年A組の生徒ではないが、久遠寺を慕っていた。小雨はあることが起きる前までは、ごく普通の学校生活を送っていたらしい。
きっかけは、学年一の美男と謳われている男子生徒の告白を断ったことだ。話は人気の無い校舎裏でしていたのだが、二人の後を付けていた生徒達が居て、話を盗み聞きしていた生徒達が情報を拡散させたのだ。そのせいで、彼を好きだった女子達の恨みを買い、虐めの標的にされてしまった。
女子達は怒りのあまり、小雨が大切にしていた蝶の髪飾りを取り上げ、本人の目の前で壊したそうだ。その髪飾りは、遥か昔に交通事故で亡くなった、十年以上歳の離れた兄からプレゼントされた物だった。宝物を破壊され、小雨の心は深い闇に落ちた。
女子生徒達は小雨の宝物を壊すだけでは飽き足らず、ごみ箱の中身を投げてきたり、トイレの汚水を掛けてきたり、兎に角陰湿な虐めをしていた。……けれど、小雨は誰にも言えなかった。彼女の両親は、小雨には無関心の仕事人間。両親が娘の為を想ってくれるような人間だったなら、こんな結末にはならなかったかも知れない。親が駄目ならと、小雨は自分のクラスの担任である、男性の体育教師に相談を持ち掛けた。
『…………』
体育教師の岡部は、小雨にこう言った。「これを乗り越えたら得る物がある」と。要はボロボロだった小雨に、「耐えろ」と言ったのだ。親は疎か、担任までもが自分のことを分かってくれない。そんな状況が、更に小雨を追い込んでいった。 小雨は、誰かに救いを求めていた。地獄から解放してくれなくても良いから、せめて自分の話を一生懸命に聞いてくれて、相槌を打ってくれる人が欲しかったのだった。……そして、最後に小雨は、自身が敬意を抱いている久遠寺に相談をしてみた。
『……久遠寺先生。私を……助けて…………』
久遠寺は真剣に話を聞いてくれた。彼女の月のように柔らかい眼差しを向けられていると、自然と涙が溢れ出してくる。今まで涙だけは流さないようにと我慢していたが、もう強がる必要は無い。彼女が、悲しみも苦しみも受け止めてくれるのだから。久遠寺は泣きじゃくる小雨を、そっと抱き締めていた。伝わって来る温もりに、小雨は安堵した。
『久遠寺先生…………』
人生という物に絶望し切った彼女にとって、今、此処に久遠寺が居てくれていることだけが幸せだった。小雨の澄んだ黒色の瞳に映るのは、久遠寺ただ一人。それ以外は、何もいらない。小雨は本気でそう思ってしまった。自分を縛めるだけの他人なんて、世界には不要であると。……小雨は、自分だけの楽園を想像してみる。そこでは純白の花が咲き誇っていて、自分と親愛なる兄だけが存在していた。楽園へ行く為には、まずは現世の体とさようならをしなくてはならない。……そう。つまり______
『……私を、殺して下さい』
久遠寺に、息の根を止めて貰おうというのだ。小雨は弱いので、自死する勇気も無かった。このまま朽ち果てる日を待つよりも、久遠寺に殺された方が余程意味のある「死」になると思ったからだ。
……そして久遠寺は、それに応じた。一生のお願いを叶えて貰えた小雨は、とても幸せそうに眠っている。死ぬことで、小雨はやっと苦しみを抜け出せたのだ…………。真実は話を聞いて、小雨に憐みを感じた。同時に、久遠寺が常人ではないのだということも。
「……頼まれたら、先生は人を殺すのですか?」
真実がそう言うと、久遠寺は目をぱっと開く。それから、悪びれる様子も無く、彼女は言った。
「……苦しんでいる人を、助けてあげちゃいけないの……?」
真実には、久遠寺が人間以外の何かに思えた。同じ場所に居て、同じ景色を見ているというのに。真実と久遠寺では、まるで違う世界を見ているようだった。真実の理解を超えた久遠寺の目には、何が映っているのだろう。……真実には分からない。
久遠寺は、優しすぎたのだ。赤く穢れた世界で、彼女の存在は天使のようだった。彼女は美しく純粋であり……純真であるが故に、狂っていた。真実は、次第にこう思うようになる。本当に間違っているのは、久遠寺ではなく、一人の少女を死に追い込んだ世界なのではないかと。……それでも。彼女は異端だ。人を殺したのだから。
「…………」
真実は、久遠寺と小雨の顔を交互に見る。今直ぐ教室を出て職員室へ行き、大人を呼ぶことは可能だ。そうすれば久遠寺は警察に逮捕され、懲戒免職にされ……人生を失う。仮に刑務所から戻って来られたとしても、彼女を待ち受ける現実は厳しい物だろう。久遠寺の犯した罪は、あまりに重い。相当な罰が課されるのは、必然である。
けれど真実は、教室から出て行くことも、鞄から携帯電話を取り出して警察に通報することもしなかった。真実は鞄からウエットティッシュを取り出すと、一枚、久遠寺に手渡す。この時、真実は選んだ。平穏を取るか、正義を取るか。
「……どうぞ」
「あら、有り難う」
彼女は愛嬌たっぷりに微笑むと、血に濡れた手を拭く。すると、真っ白だったウエットティッシュは瞬く間に紅色に変わってしまった。真実には、そのティッシュが二人の罪の象徴であるように思えた。真実も、久遠寺を選択した瞬間から罪人となったのだ。
教室の掃除用具入れの片隅に落ちていた襤褸雑巾で床に飛び散った血を拭き取り、一回水道で洗い、ごみ箱に捨てる。明日はごみの日なので、丁度いい。誰も使っている人が居ないので、その雑巾が無くなっていても、皆気付かない筈だ。
床だけではなく壁にも若干付いていたが、何とか落とせた。教室は、すっかりいつも通りの風景に戻っている。久遠寺の衣服に返り血が付着していたが、服はもう一着持ち歩いているそうなので、それを着て帰れば問題無い。佐山小雨の死体については、久遠寺が秘密裏に処理をするとのこと。世間的に、小雨は行方不明者扱いになるだろう。
「……さて。そろそろ帰らなくては」
真実は本来の目的である、理科のノートを手に取る。おかしなことがありすぎて忘れそうになったが、持って帰らない訳にはいかない。果たしてこんなことがあった後に勉強に集中できるのか……という疑問はあったが、やるしかない。何せ、二年生の理科のテストは明日の一時間目に実施されるのだから。
「気を付けて帰ってね。……まみちゃん」
久遠寺は、真実に手を振る。真実は手を振り返すと、教室を後にした…………。