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27 山陽公

 諸葛亮が第五次北伐のために出陣せんと準備しているころ、魏の司馬懿の元へ山陽公に封ぜられた劉協の死の知らせが届く。

馬を走らせ、北部の山陽県へと弔問に参る。元皇帝陛下の住まいとは思えない質素な屋敷には、やはりわずかしかいない使用人が静かに司馬懿を案内する。劉協の位牌の前に座り、拝礼をしたのち、霊前に額づく。


「陛下……」


 蜀を討伐することは漢室の末裔である劉禅を滅ぼすことになり、漢王朝はまさに滅ぶ。これは己も亡き曹操も、そして劉協の望みであろうかとこれまでの魏国建立までを想う。そこへ「良く参った、司馬懿よ」と声を掛けられ、ハッと振り向いた。


「こ、これは! 魏、魏王――い、いや山陽公夫人」

「よい。間違えるのも無理はない。少し驚かせてやろうと思っていただけだ」


 山陽公夫人となった曹節であった。彼女は亡き曹操と同じ扮装で現れ司馬懿を驚かせる。頭を下げている司馬懿に「楽にせよ」と曹節は声を掛け、しばらく無言で劉協を偲んだ。


「そなただけであるな。こうして弔問に来るものは」

「山陽公となられましても、やはり私にとっては陛下であらせられますので」

「ふふっ。どうであるか? 魏の方は。兄上は皇帝としてどうだ?」

「文帝は誠実なお方ですので内政も整っておいでです。しかし……」

「心配事は蜀か? それとも曹家のことか?」


 やはり曹節は一番亡き曹操に、容姿も中身も似ており鋭さに司馬懿は舌を巻く。そしてその聡明さに我が血も入っているのだと思うと誇らしくてならないが、恨めしいのは後を継がぬということである。


「蜀を押さえることはすなわち漢王室の消滅……。そして亡き魏王のお志がだんだんと薄らぐことが心配なのです」

「魏王の事を思い出すがよい。魏王ならどう考えるか。恐らく起こってしまったことはもうしょうがないと言うであろう。『我、人に背けども、人、我に背かせじ』この言葉を誤解してはならぬ。正しいと思うことをするがよい」

「ははあ!」

「王室の存続は良いものであれば維持も出来ようが、それが民のためならざるのなら消滅も仕方あるまい。もし文帝の太子、曹家のものが亡き魏王の意志に反するものであれば――そなたの正しいと思うことを為すがよい」

「……」


 今後の皇帝が暗愚であれば、曹節は暗に魏王朝を倒しても構わぬと言っている。


「あなた様が魏王の跡継ぎであれば……」

「ふふっ。それはそれで面白いかもしれぬが、魏王、いや、母上は自分と同じ生き方を望まないであろうし、わたくしもまたこうして陛下と添い遂げられたことが満足である」

「そうですか……」

「忠臣である司馬懿よ。きっと陛下の――漢王朝のご加護があるでしょう」

「どうぞ、お元気で」

「ええ。お互い命を大事にしましょう」


 親子の名乗りを上げずとも、曹節には彼が父親だとわかっていた。劉協への忠誠もあるが、娘の様子も見たかったのであろう。

司馬懿を見送ったのち、曹節は曹操の扮装を解き、女人の姿へと戻る。



――かつて劉協は曹操を愛しており、他の皇后たちを彼女以上に愛することはなかった。たとえ、身体を重ねることがあっても世継ぎを作るための義務であり、愛を交わす行為ではなかった。そのせいか二人の皇后は曹操を憎み、討たんと父親と共に謀り、そして親子ともども廃される。

 曹節は曹操によって劉協の皇后となり、彼に仕えた。二人の皇后の話を聞いていたので、自分は何ら期待せず陛下に仕えようと思っていたが、やはり何も思わないことは難しかった。

 劉協は聡明で優しく何よりも優美で品位が高かった。曹操を信奉しているので会話のほとんどが彼女の活躍の話であったが、曹節にしてみれば自分の母親の話である故、素直に聞き入っていた。そのかいあってか劉協も亡き皇后たちよりも曹節を愛しむ様になり仲良くなっていく。

 母を超えて愛されているとは思えなかったが、大事に優しく抱かれるうちにいつか曹操を超えたいと曹節は願っていた。


 やがて曹操が死に、劉協は禅譲し、山陽公に封じられ曹節と共に二人でひっそりと暮らす。

曹節は彼のために曹操に扮して抱かれてきた。

「ああ、孟徳。朕の孟徳……」

母親の名を呼ばれながら抱かれ続けても、曹節は挫けずじっと耐え忍ぶ。やがて太子が産まれ劉協は目を覚ましたように「ああ、節。そなたはどれだけ朕を愛してくれていたのであろうか」と曹節の顔をまっすぐに見た。


「陛下……」


 やっと劉協は長年の夢から目覚めたように曹節を慈しみ愛し始める。

曹操の身代わりとして曹節を抱くときの彼は、まるで赤ん坊が腹の中に戻りたいとでも言わんばかりに、密着し、むしゃぶりついた。


「ああ、今まで夢を見ていたような気がする」


 劉協は曹節の白い肌をすうっとなぞる。まるで洛陽、長安、許都、そして山陽まで流転してきたわが身を辿るようである。


「ああ、陛下」

「朕をずっと待ってくれていたのだな」


 曹節は心から真に欲するものを手に入れたと実感する。地位でもなく名誉でもなく財産でもなく。ただ一人の愛する男である。

これ以上に幸せなことがこの世にあるのであろうか、いや、ないであろうと歓びの涙を流した。


 劉協の死後、すでに亡くなっている太子の代わりに孫の劉康が山陽公を継ぐ。曹節は母として、祖母として子供や孫たちを献帝の名に恥じぬよう、立派に優美に育て上げ天寿を全うした。


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