03//鬼を喰らう子ども
「…こんなことにならないようにと、あれほど………固く申しつけておいたものを…!一体今まで…貴様は……何を…!」
「……」
「たまたま今回は無事…幸いだったが………もしもこんなことが…また……!」
「……」
「謝って済む問題ではない!これは………のだ!!万が一にもまたあれを………なれば……!!」
「……」
「奇し御魂はもう……しれんのだよ!今やあれは………唯一の…」
「……」
「皓魂廟……霹靂はどうした…?」
「……」
「そうか……だな…」
「……」
「あとは任せる…」
+ + + + + +
温い微睡の中で、ひどくしゃがれた男の声を聞いた。どこからか届くその声はどうやら一人ではなく、その上、時に強くなり弱くなり――まるで打ち寄せては返す波の揺らぎのように途切れ途切れに耳に届く。
怒号を浴びせられている人物のほうは、声はすれども言葉までは聞き取れない。その声音の細く繊弱な感じから察するに、女であるように思えた。
ため息をついて瞼を開けた先には、真っ白な天井があった。
ここがいつもの――毎日の検査を受けているあの部屋だと気付くのに、さほどの時間は要らなかった。擦り剥いた額と胸と右腕が包帯に包まれている。だが、あちこちに残る体の痛みは、随分ましになったように感じた。
普段は注射器を刺される左の腕に、点滴の針が刺さっている。針に繋がる細い管に沿って目を移すと、寝台の横に吊り下げられた瓶から透明な薬液が滴っているのが見えた。
まるであの洞窟で見た天井の雫みたいだ…。
そのまま暫くぼんやりとしていると、小さく扉の開く音が聞こえた。
入ってきたのは華瑞だった。
「――やあ、シャオ。気が付いたかい?」
華瑞は手にしていた金属製の角盆を俺の枕元に置いた。するとその上に乗せられていたものが小さく音をたて、俺はそこにいつもの注射器が二本乗せられているのを知った。
「胸はもう苦しくない?打ち身がけっこうひどいから、まだ当分はあちこちが痛むと思うけど…」
そう言って華瑞は俺の体を抱き起こし、そっと髪を撫でた。
「また血……採るの…?」
「…ああ」
空になってしまった点滴の針を手早く外し、華瑞は採血の準備をしている。心理学を研究していたと聞いたはずなのに、この時、彼がやけに手慣れた様子なのが気になった。
「俺の血…あそこの人たちにあげるの…?」
「え…?」
駆血用のゴムを巻く手が一瞬止まる。
「あの人たちに俺の血をあげるとどうなるの…?」
「違うよ、シャオ。君の血液はこの後検査に回して、君がちゃんと健康でいるかどうか――」
密かに望んでいたささやかな期待は裏切られた。華瑞ならきっと本当のことを話してくれると信じていた。
なのに――。
(結局、華瑞も他の奴らと同じことを言うんだ…)
そう思ったら、ちょっと優しくされたというだけで、いとも簡単に大人を信用していた自分自身に腹が立った。
こいつも同じだ。
大人なんか皆同じなんだ。
そっちがその気なら、今日こそは絶対に本当のことを訊きだしてやる――。
俺は唇を噛み締めた。
「あの人たち、俺の血を欲しがってた」
いっそ今この胸の中に燻る疑問を、全部ここでこいつにぶつけてやろうと思った。
「俺のじゃなきゃだめなの…!?」
「ちょっと…少し落ち着きなさい、シャオ」
華瑞はずっと困ったような表情を浮かべて笑っている。
きっとまた、何か適当なことを言ってごまかそうとしているのだと思った。
子どもの俺がこんなに生意気な口をきいているのにそれを咎めもせず、大人である華瑞が終始笑顔を絶やさないのがその証拠だ。おまえは何か誤解している、おまえの思ってるようなことじゃない――そうやって笑い飛ばすことで、また俺を欺こうとしているんだ…。
「あの人たち、どうしてあんなところに閉じ込められてるの?」
俺は疑問をぶつけ続けた。胸の中は、信頼を裏切られた怒りでいっぱいだった。
「なんであんな体になってしまったの?あの人たち、前はあんな体じゃなかったって…!!」
突然――。
またも締め付けられるような痛みが走り、俺は胸を押さえた。
ぐらりと崩れかけた体を、血相を変えた華瑞が抱き留める。
「大丈夫か、シャオ!?どうか落ち着いて…!」
「なんで…なんで俺…。俺……!!」
「しゃべらなくていい…もう大丈夫だ。大丈夫だから…」
そうやって優しく俺を宥めながら、華瑞は盆の注射器のうちの一本を片手でそっと取り出した。
「かわいそうに――。怖かったね…」
そうじゃない。そんな言葉が聞きたいんじゃない…!!
さり気なく被せられた布団の陰で注射針が密かに刺されようとしている――。そのことに気付いた俺は、咄嗟にその手を払いのけた。
――ガシャン!
その衝撃で跳ね上がった盆や注射器が、床の上に散らばる。
「皓魂廟ってなに!?」
「シャオ…」
「あの人たちのいたところ!?」
さっきから急に激しさを増した鼓動がずっと胸を叩き続けている。軋む胸を握り締め、俺はじっと華瑞を睨みつけた。
やがて――。
「……ああ、そうだ」
華瑞は、躊躇いがちに口を開いた。
「あそこにいるのは、もうあまり長く生きられない連中だ。彼らは――」
この話には聞き覚えがある。
確か…この施薬院の離れには、病気でもう長くない人がたくさん集められている――と、北斗に聞いた。つまり、もしもあの岩屋の男たちがそうであるなら、あの場所はこの建物のどこかということになる。
「病気…なの?」
「ああ…まあ、そうだな」
ということは…。
やはり、俺も彼らと同じなのか…?
「じゃあ俺は?俺も病気…?」
「いいや、君は違う」
この言葉に少しほっとした。
でもそれなら俺は、どうして毎日ここであんな検査なんか受けているんだ…?
それに、なぜ彼らは俺の血なんか欲しがるんだろう?
「俺の血で…あの人たちは助かるの?」
そう尋ねると、華瑞は首を横に振った。
「それはないだろう。彼らはもう手遅れだからな」
「あの人も――。左腕のないあの人も、自分はもう長くないって言ってた…」
なのにあの時、あの男は俺の名を聞いて確かに――。
「彼なら…さっき死んだよ…」
「!!」
再び胸をずきりと貫く痛みを感じ、俺は胸に当てた手に力を込めた。
「君がここでが眠っている間にね…」
「ど…して?どういうこと?さっきは…あんな――」
どう考えても急すぎる。あの時の男の様子、その言葉――それらを思えば、こんなのはあまりに早すぎる。あの時俺の髪を掴んで吊り上げた手は、決して瀕死の人間のものなんかじゃなかった。
「……」
華瑞は続く言葉を詰まらせていた。
「何でなの!?」
「……」
「どうして!?黙ってないで教えてよ…!」
「……」
喉の奥から、ひゅうひゅうと笛のような音が微かに漏れる。何だかひどく息が苦しい。それでも俺はむきになって渾身の力を絞った。
「華瑞……ッ!!」
すると、少しの沈黙の後――。
「君を襲ったからだ…!!」
華瑞は苛立ちを吐き捨てるように答えた。
「大切な君を…傷つけようとしたからだ!その報いを受けて彼は――いや、あそこにいた者は残らず全員殺された!!」
「こ、殺さ…」
声が震えた。恐ろしかった。施薬院は病気や怪我を負った者を治療するための施設のはずだ。その場所で殺人が行われているなんて…!
「そうだ。でも、どの道あそこに送られたんじゃ時間の問題だ!彼だって、ほんの数か月、命が短くなったにすぎない」
「俺のせい…?」
「それは違う、シャオ!君のせいなんかじゃない…!だけど君は特別なんだ。君は、僕らにとってもっとも貴重な――」
俺が特別?
俺が貴重だって…??
どういうことだ?
『僕ら』って一体誰のことなんだ…?
言ってることが一つも分からない。
大体、そんなはずないじゃないか。
だって俺は――。
「違うよ…俺は。だって、華瑞は俺に…普通の子だって…。そう言ったじゃないか」
俺は、瞼にじわりと涙が溜まり始めるのを感じていた。
「シャオ…。君はね、ここで生まれた子なんだ。他の孤児たちとは違う」
(俺が皆と違う…?)
嘘や欺瞞に満ちたこの場所で、明らかに他の子どもたちと違う扱いを受けていながら、ずっと周りの子どもと同じ振りをしてきた。
本当のことが知りたい、本当のことを教えろと何度も口にしておきながら、これまで無理に信じ込ませられてきたこと――それこそが真実であって欲しいと、どこかで密かに俺は願っていた。
「君はここで生まれて問題なくちゃんと育ってる、たった一人の普通の子どもなんだよ…」
「何なのそれ…。分かんないよ…」
「今まで君は不思議に思わなかったのかい?勉強でも運動でも…何をしても、君は誰よりもずば抜けてよくできただろう?」
皆と違う普通の子ども――こんなおかしな言葉があるのかと思った。
俺だって薄々は気付いていた。俺だけじゃない。きっと瑠華も北斗も――他の奴らも。だからこそ俺は『おまえは皆と同じだ』、『皆と変わらぬ普通の子だ』と…ずっと大人に、そうはっきりと言って欲しかったんだ。
なのに…。
溢れた雫が頬を伝って落ちる。
「体こそまだ小さな子どもだが、君の中にある能力は計り知れない。この調子で発達を続けていけば、ほんの数年と経たないうちにここにいるすべての大人たちをも凌いでしまいかねない。この頃では…特に君の知能に関して、急成長の兆候があるという報告が、碧落院からも上がってきている。大人たちが君と接するのにまるで腫物に触れるような反応を見せるのはそのせいだ」
「……」
「君から発せられる気は、強力かつ完璧すぎる。見える者が見れば、そのあまりの眩しさに目が開いていられないほどだそうだ。その大きさも総合的な均衡も、この世に在りながら、あり得ないぐらい優れすぎている。
恐らくこれは君の生い立ちに起因するものだ。だがいくら同じことを試しても、君のような子はこれまで一人として生まれなかった。それどころか、あの実験で生まれてきた子たちは皆、人の形ですらなかった」
華瑞は深く息をついた。
「ただもぞもぞと蠢くだけの肉塊だ。中には声のようなものを発したり、ばたばたと跳ねて見せるものもあったそうだが、多少強い気を放ちこそすれ、そいつは殆ど身動きさえできない血肉の塊。君のようにまったく人と変わらぬ姿をした者は皆無だった」
恐ろしくて堪らない。怖くて悲しくて、苦しくて――。
でも、そうか…。
やっぱり俺は違うんだ。俺の血も…この身体もこの命さえも…全部何かの実験で造り出されたものだって――そう言うのか…。
「俺は……俺は人間じゃないの…?」
「そうとも言えるし違うとも言える。正確には半分だけ人間だ。ちゃんと人間の腹から生まれてきたんだから」
また一筋、もう一筋――次々に涙が伝った。
「ここ玉蟾山の本尊は元々生き神なんだ。見るからに人らしからぬ姿をした者や特殊な能力を持った者など、とにかく人間を凌駕する生きた存在を本尊として脈々と奉ってきたんだよ。君の母親もその一人。つまり、君はこの寺にとって『神の子』と言える」
体の震えが止まらない。
息が苦しい…。
「ところで君は、『夜来香』という鉱物を知っているかい?
こいつは実に不思議な鉱物でね、生き物の成長に甚大な影響を及ぼす非常に珍しい物質を含んでいることがある。これを対象となる生き物とうまく融合させてやると、その生き物に備わっていた能力の一部が本来の限界点を越えて異常な成長を遂げることがあるんだ。
シャオ――君の母親はね、この人体実験に使われた孤児だった。彼女は孤児ながら、とても優れた気の持ち主でね、何度となく実験に敗れ疲弊を極めていたここの医師たちからも多少なり期待をされていたようだ。この地で採掘される神秘の鉱物『夜来香』を体内に取り込みながら、それでも体のどの部位も失わずにごく普通の人の姿のまま生きていられる――そんな資質を初めから奇跡的に備えていた…。
医師らの読みは当たり、彼女は体に夜来香を埋め込まれながらも、暫くは普通の子どもとして生きていた。今の君のように、この場所で他の孤児たちと一緒にね」
俺の知らない俺の過去をひどく淡々と語る華瑞の姿が悲しかった。
華瑞は、俺のこと知りたいって言ってくれた――。そんなふうに言ってくれた、ただ一人の大人だった。
だけど、俺の事なんか何でも知っているじゃないか。
俺自身よりずっと…。
「だが十五歳を迎えたころ、彼女は徐々に異常をきたし始めた。明晰な頭脳は人並み以上の水準を保ちながら、まだ発育途中であるはずの彼女の身体が急速に衰え出したんだ。このまま放っておけば、あと数年もしないうちに貴重な彼女の命は失われてしまう。医師らは、彼女の遺伝子を後世に残し、この研究を継続しようと考えた。それも、もっと強力な気を宿したもっと強い子どもで――」
「……」
「かつて、ここの僧侶の中に、厳しい修行で身に付けた力で念を練り上げ人造の妖を生み出すことのできる者がいた。その妖を使って生身の人にはでき得ないことを可能にしてしまう――そんな禁断の術を操る者が実在したんだ。その術と夜来香の力を借り、やがて医師らは彼女の胎に小さな鬼を宿らせることに成功した。
でも、その時――まだほんの齢十五だった少女の胎には、既に人間の赤ん坊が息づいていたんだ。処置後にそのことが判明して、一度は失敗かと思われたこの実験だったが、そうではなかった。こちらの予想に反して、胎内の赤ん坊が順調に成長していったからだ。
ただ…赤ん坊と言っても、恐らくそれは人ではない。まだ発生したばかりのか弱い人間の赤ん坊は、念で造られた小鬼に取って喰われてしまったのだろう――そう考えられていた。当時の担当医師が残した記録には、検診の際の心音は常に一つだったと記載されている」
改めて華瑞は俺を見据えた。じっと注がれるその眼差し――そこに一瞬宿った光は、あの時、岩屋の男が見せた狂気の色とどこか似ていた。
「しかし、ようやく生まれてきた赤ん坊は、驚いたことに人間の姿をしていた。彼女の中に確かに宿したはずの小鬼の姿はどこにもない。医師らは首を捻った。だがそうして悩んだところで結論なんか一つしかない――そう、逆だったんだ。この人間の赤ん坊こそが、あの小鬼を喰ってしまっていたんだよ!
その時、話を聞いて駆け付けた例の僧侶が言った。この赤ん坊から発せられる凄まじい白銀の気には、あの小鬼の気配が確かに存在する…と。どうやらこの赤ん坊、正確には鬼を喰ってしまったわけじゃない。赤ん坊は、小鬼と一つの体を共有する道を選んだのだ、と――」
「お、お…れ…」
激しい戦慄が全身を痺れさせる。いくら堪えようとしても、唇の震えが止まらない。
胸が――。
胸が苦しい…!!
「そうだ。全部君のことだよ、シャオ。君の名――皆が君を『シャオ』と呼ぶその理由、それはあの小鬼を指す『小鬼』という言葉からきているんだ」
「は…」
俺は胸を押さえて屈み込んだ。
また息ができない。まるで誰かに心臓を鷲掴みにされているように――!
「はっ…はあっ……」
指先からどんどん体温が失われてゆくのを感じる。目の前がぐらりと歪む。
「!」
顔色を変えた華瑞が、俺の背中を腕に抱くようにして支えた。
「はあっ…はあっ、は…あっ…」
「――シャオ!シャオ、落ち着いて!ゆっくり息を…!」
「……か…」
「もっとゆっくり…。そうだ、ゆっくり息を吐いて…」
このまま俺もあそこの連中のように死んでしまうのだろうか…?
でも、そうなら…。
「か…さん…。おれ…の、かあ…さん…は…?」
逢いたい――。
たったひと目で構わない。
「どこに…?」
「君を産んで暫くして…亡くなったそうだ」
「…っ!!」
とっくに俺には何もなかった。
もうどうなっても構わない…!
嫌だ。
大嫌いだ、華瑞も、ここも…何もかも…!!
「あ…あ…!」
「シャオ!」
「俺…も…」
涙が止まらない。
ここにはいたくない。
こんな何もない世界には、もう――。
「大丈夫だ、君は!!君は僕が必ず守るから…!大丈夫、ちゃんとここにいるから…!」
「俺に触るなッ!!」
背中の手が肩を抱き竦めてしまう前にその手を撥ね付け、俺は白い部屋を飛び出した。
もう俺に誰も構うな!
もう誰も俺を呼ぶな…!!
「信じ…ない…!もう…俺は…。だ…れも…っ!」
でも――。
結局逃げ出すことはできなかった。
何度も発作を起こして、もはや息も絶え絶えだった俺は、扉を出たところで頽れ、そのまま意識を失ったのだった。