01//白い部屋
早朝、若い女が一人死んだ――。
詳しいことは知らない。どうせ聞いたところで分からない。
ただ、こんなことは玉蟾山ではそう珍しいことではなかった。
正式名称は玉蟾山・龍光院瑞石寺。あまりに長くて覚えづらいので、世間では『玉蟾山』とだけ呼ばれている。寺の所有する山全体に数々の関連建造物が点在する巨大寺院だ。
「シャオ、検査の時間だよ」
日が暮れて、本院の夕諷経が流れてくると、いつもこうして迎えがやってきて、俺は『施薬院』の別棟にある真っ白な部屋へと連れていかれる。そこで簡単な身体と体力の検査を受け、最後には細い注射器一本分の血を抜き取られる。
理由は分からない。
何度か尋ねてみたことはあるが、もうやめた。訊いたところでまともな返事なんか戻ってこないからだ。
単なる健康診断だとか発育調査だとか――そんな理由のはずはない。その証拠に、ここにいる数十名の子どもたちの中で、こんな扱いを受けているのは俺一人だけなのだから。
そして、どういうわけか、俺にそんなふうに答えてくる大人たちは皆例外なく緊張している。
緊張――?
いや、違う。あれは怯えているんだ。何でもないふりをしているが、全身が奇妙に硬直しているのが分かる。
「シャオはとりわけ体が弱いからね、我々は君のことを心配しているんだよ…?」
別に弱くない。人並みだと思う。いい加減な奴らだ。
この寺には、十五歳ぐらいまでの子どもばかりを集めた『碧落院』という施設がある。山の下の村々で時折起こる小競り合いや戦争などで身寄りを失った子どもらを、寺が積極的に引き取り、自立できる年齢になるまで面倒をみているのだ。
俺も、物心ついてからというものずっとここで暮らしている。
記憶に残る親はいない。いない理由もよく分からない。きっと他の子どもたち同様、戦争孤児か捨て子なのだろうと思う。
ここで当たり前に呼ばれる『シャオ』という名――これだって本当に自分の名前なのか分からない。いつだったか、シャオというのはこの国の古語で『小さい』とか『幼い』とかいう意味だと聞いた。だが、日々成長してゆく子どもに対し、果たして親がそんな名を与えるだろうか…?
本当は、ここに軟禁されているのかもしれない――。
心身の成長とともに知識や知恵が多少身についてくると、自然と俺はそう考えるようになっていった。
とはいえ、俺は――もちろん碧落院で一緒に暮らしている他の子どもたちにしても――四六時中どこかに閉じ込められているわけではない。朝昼の『勤めの時間』以外なら、比較的何をしていても文句など言われない。但し、この寺の敷地から外へ出ることだけは固く禁じられている。
実を言うと、以前、脱走を試みたことがあるのだが、山の中腹にある石門を乗り越えただけで、どこからか追手がぞろぞろとやってきてあっという間に包囲されてしまった。そんな経験も一度や二度ではない。
お陰でここ数年は、俺にだけ見張りらしきものがつけられたようだ。ちゃんと見たことはないが、どこかでいつも俺を見ている何者かが確実にいる。姿はなくとも気配だけは微かながらに感じられるのだ。
しかし、一体何をそう警戒しているのか分からない。身寄りのない数十名の子どもの一人がいなくなるってだけのことが、そんなに問題なのだろうか?
日中の『勤めの時間』は、読み書きを覚えたり心身の鍛錬を行う時間だ。どちらも、およそ十名程度の子どもにつき一人か二人の大人がついて丁寧に指導を施す。指導の内容は日によって異なるが、どれも年齢別に発展的な内容が組まれていて、学問でも体術でも、子どもたちが無理なく身に付けられるよう工夫されている。山の下の村に住む子どもたちよりも、もしかしたらこの点については恵まれているのではないかと思うほどだ。
「…ねえねえ、シャオはどっちだと思う?」
隣で瑠華が囁いていた。
「こっちの字とこっちの字、どっちが合ってる?」
差し出された帳面には、
フクシュウ。
その横に薄く彼女の下手くそな字で、
『復習』
『腹習』
二とおりの熟語が書かれていた。
無言で正解の方に印をつけてやると、瑠華は頬を少し赤らめて笑った。
「やっぱり『復習』かあ…。良かったあー。えへへー」
「……」
つか、腹で習ってどうする。
「さっきの試験ですっごく迷ったんだ。でもちゃんと合ってたよー」
そう言ってまた笑う。
俺より四つも年上のくせに、瑠華はいろいろとちょっと抜けている。
…というか彼女に限らず、ここの奴らはなぜかそういうのが多い。文字でも計算でも、至極簡単で些細なことがなかなかできないし覚えられない。だから授業では同じ話を何度も聞かされる羽目になるし、繰り返し同じことを練習させられる。集団での指導だから、俺も含めて一緒に勉強をしている者全員が一斉に同じことをさせられるわけだ。
(やれやれ…)
退屈のあまり、俺はいつも窓の外ばかり眺めていた。他にすることがないのだ。
なのに――。
「では、この問題が終わった者から終了とする。だが、シャオは少しここに残りなさい」
+ + + + + +
「ね、さっきの何だったの?先生、何だって??」
やっと解放されて部屋を出たところで今度は瑠華に捕まった。
「ああ…なんか……。来月から上の組に変わったらどうかって――」
「ええー!?でもこの間こっちに上がって来たばっかじゃない!」
「うん、そうなんだけど…」
「半年も経ってないぜ!?」
一緒に待っていた北斗も目を丸くしている。彼も俺より年上――瑠華よりも一つ下の十三歳だ。今いる組は、十二歳から十四歳ぐらいの少年少女で構成されている。
「でも、どうしてなのかな。シャオだけこんなに早く進級なんて…」
どことなくしんみりとした素振りの瑠華だ。
どうしてって、理由なんか分かってる。この組の学習内容には、もはや俺が習得すべきものがないからだ。だが、ここで馬鹿正直にそれを口にするのは気が引ける。彼らの目に俺が嫌味に映ったり生意気に見えてしまうのは困る。
「いつもちゃんと話を聞いてないから…かな」
「いや、できるからだよ。シャオ、賢いもんな」
「で、上の組に…行くの?」
「うーん…」
授業中の暇っぷりを思えば、確かにそのほうが良いのかもしれないが…。
「あっちに行けば、また知らない奴ばっかになるだろ。今度は人数もずいぶん少ないし」
「そっか…」
「うん…それはそうよね。私だったらやだなあ…」
もう一つ上の組に行くということは、また同じ組の連中と年齢が離れるということだ。齢が上の奴は、自分たちと同じことができる下の者を基本的に敬遠する。例えこちらが目立たないように振る舞っていても何かと気にされてしまうし、そうなると何をしてもいけ好かない奴と受けとられて除け者にされてしまう。これまでだって、そんなことは嫌になるほど経験してきた。
大体、この二人ともやっとの思いで親しくなったというのに――。
「あ!そういえばさ、また一人亡くなったんだって。女の人だって。なんかこの頃多いよねえ…」
唐突に北斗が言った。今朝方、噂になっていたあの話だ。
「ああ、施薬院の?」
「そう。あそこの離れに入ってた人なんだって」
あまり気味よい話でもなかったので最初は殆ど聞いちゃいなかったが、施薬院の離れといえば、例の真っ白な部屋がある建物のことだ。
「うん、あそこには病気でもう長くない人がたくさん集められてるって話だよ。俺、偶然遺体を運び出すとこ見ちゃってさあ…」
「え!?あそこ近付いたら駄目なところじゃなかった??」
「あ…まあ、そうなんだけどさ…。あの裏山、クワガタいっぱいいるんだよな…」
「わーるいんだぁ~」
「瑠華!おま…っ、先生に言うなよ!?」
「えー?どーしよーかなぁー?へへへー」
――病気で長くない人。
その言葉に、はっとして口を噤んだ。
入院しているわけではないが、俺も毎日あそこへは行っている。あそこで延々《えんえん》と胸糞の悪い検査を受け続けている。
ということは、ひょっとすると…。
思わず、俺も――とまで言いかけてやめた。
彼らは何も知らない。そもそも俺自身、自分がそんな大病を患っているとは知らされていない。
しかし、あの離れが本当に終末期患者のための施設というなら、まずはそれが事実かどうかを確かめるべきだと思った。それが確認できたなら、あの毎日の検査のことも姿の見えない見張りのことも納得がいく。それに…白い部屋の大人たちがいつも怯えている理由も分かるかもしれない。
でも、どうして俺は入院もせずに普通に暮らしていられるのかな…。
+ + + + + +
「さ、検査の時間だよ。おいで、シャオ」
今日もきっかり七時に迎えがやってきた。
諷経の声が風に乗って漂う中、俺は背の高い若い男に連れられて碧落院を出た。ふと見上げると、今日の迎えはいつもとは別の見たことのない男だった。
「――いつもの人は?」
そう尋ねると、男は苦く笑った。
「ああ、今日から担当が替わったんだ。僕じゃ嫌かい?」
男は俺の前にしゃがみ込んで目線を合わせた。こんなふうに俺に接してくる大人は初めてだ。正直、少し驚いた。
「ううん…」
首を横に振ると、
「そっか――なら、良かった。これからよろしくな、シャオ。僕は華瑞。最近よその国からここへ来たばかりでね、分からないことだらけなんだ。良かったらここのこと、色々と教えてくれないか?」
照れたように微笑む華瑞という男は、とても優しそうだった。こんな温かな大人の顔を俺は知らない。皆、俺と話すときはどこか怯えたように顔を引き攣らせていたからだ。
それから華瑞は、施薬院に着くまでの十数分の間にたくさんの話を聞かせてくれた。ここに来た最初の日に寺の山門の場所が分からず二時間近くも迷子になってしまったこと、以前いた国では心理学の研究に長く携わっていたこと、実は祖国に俺よりも小さな息子を二人も残してきたということ、そして――。
「さあ、着いた。明日はシャオの話を聞かせて欲しいな。どんな話でもいいからさ」
「え…俺の…??でも…」
これには本当に驚いた。俺の握力や肺活量を知りたがる大人ならいくらでもいるが、俺の話を聞きたがる大人なんか見たことがなかったからだ。
突然のことに戸惑っていると、華瑞は再び人懐っこい笑顔を見せた。
「何だっていいんだ。勉強の話でも友達の話でも…。もちろん好きな女の子の話でも構わないよ?」
「……っ!!」
「ははっ。冗談、冗談!でも、君のことをもっとよく知りたいんだ。今日から僕らは友達になろう」
そう言って、華瑞は白い部屋の扉を開けた。中にいたのはいつもと同じ顔触れの医師数名とその助手だ。
なんだ――と、がっかりした拍子に気付いた。不変だと諦めかけていた日常に、今、無意識ながら仄かな何かを期待していた自分自身に。
(俺…華瑞って人と話して楽しかったんだな…。こいつらと同じ大人なのに…)
華瑞はどうも助手の一人であるらしかった。
神妙な様子で医師らの指示を仰いでは、てきぱきと器械の支度をし、薬を運び――そうやって終始忙しく動き回る華瑞は、不思議とまったく笑顔を見せなかった。それどころか目も殆ど合わない。いや、ひょっとすると合わせないようにしていたのかもしれない。
その一方で俺は例の検査をごく淡々と受けていた。最初は身長、体重、視力、聴力ときて握力、背筋力に肺活量、柔軟性…と、続くのがお決まりの流れだ。そして最後は、体中に電極を繋がれて中庭を何周か走って――少しの休憩の後、血液を抜かれて終わり。なんらいつもと変わらない。
採血中、不意に視線を感じて目を向けると、華瑞が作業の手を止めて呆然とこちらを見ていた。ひどく悲しそうな苦しそうな…何とも言いようのない複雑な表情に、俺は急に恥ずかしくなって顔を伏せた。こんな姿は見られたくない――なぜか強くそう思った。
検査を終えて碧落院へ戻る道すがら、華瑞は思いつめたように立ち止まり、いきなり俺の左の袖をめくり上げた。
「かわいそうに…。こんなにされて…」
袖があるお陰で普段は見えはしないが、毎日針を刺されている腕の内側には青黒く変色している箇所がいくつかある。
華瑞は、まだ赤く血の跡の残る部分をそっとさすった。
痛みなんかほんの一瞬で殆どないし、血だって少し出るだけですぐ止まる。別に平気だ。こんなのはなんでもない。
なのに…。
「君はこんなに普通の子…なのにな……」
ぽつりと漏れ聞こえた言葉に、突然涙がこぼれた。
泣きたいわけじゃないのに、どうして…?
「……」
慌てて腕を振り払い、瞼をごしごしと擦った。
「シャオ…」
優しく伸ばされる温かな手。それが頬に触れる前に、俺は彼の手を振り払って逃げ出していた。
(なぜ…?どうしてこんなに――!)
胸の中が激しく掻き乱される。
頭の中がめちゃくちゃに混乱している。
とにかく今は、それが怖くて仕方がなかった。
こんな気持ちは初めてだった…