表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
源の風景  作者: 菅谷鐘
1/1

前編


この作品は、私の母方の祖母の生きざまを描いたものです。



実は母方の家は由緒有る家だったようですが、今は断絶をしてしまって仏壇と共に祖母の写真すら何処かに無くなっていました。


このままだと祖母が生きていたことすら忘れられて無かったことになってしまう!


祖母だけではなく、祖母が大切に守っていたその家族も忘れられて無かったこと、存在しなかったことになってしまう!


そう言った恐れから、とにかく記憶に遺して置かなければ!と言う強い思いがこの小説を書き始めた切っ掛けです。


私は生まれて間もない頃、身体が弱く、何度も死にかけました。


そんな時、寝ずの看病で必死になって私の命を死から引き戻してくれたのが祖母と母でした。


しかし、その祖母も、長年の過労とガンの為に命の灯火が今にも消えようとしていたのです。



祖母は最期に幼い私を抱きしめて「お前にお祖母ちゃんの命を上げるよ。」と言って、私の誕生日に天国に帰って行きました。


偶然だったのかも知れませんが、私は祖母の代わりに祖母の命で生かされていると、本当に変わらずに思っています。



そのようなこともあって、祖母の記憶を小説にして遺すことは、私に取って、祖母への恩返しであり、どうしてもやらなければならない事、使命のようなものだったのです。



果たして、納得の行くようなものが書けたかと言うと、思うように行かないのが現実です。



実在の人物を書いていますが、史実や事実と異なる部分もあります。



調べようにも、今となっては調べようが無い事や、時間や予算も無く調べられない事、色々な事情から名を伏せたり…また、小説ですからフィクションとして面白くする為に加えたりしている部分も当然あります。


そして、私の筆の拙さから思うように伝わらないところもあると思います。 



それらの点はどうぞお許し下さい。



ただ、そう言った至らぬ点を差し引いて見たとしても、描いた彼女の生涯は真実であり、輝いたものであることには変わりありません!




そして、必ず、彼女の生きざまとその姿からきっと何かを感じて頂けることでしょう。



この細やかな物語を読んで頂いた、何方かの心の中に、例えそれが、たった一人の方の心の中であったとしても…彼女のことが記憶として残り、彼女が生きていてくれるなら、それで私は満足です。



是非、風が流れるような、この清々しい景色をご覧頂けたら幸いです。



2018年元旦



【前編】


[序章]


源の風景はとても暖かく、穏やかな風が吹いていた。


その景色を最初に目にしたのは何時の頃だったのだろう?


それまで、混沌とした長い深い闇の中しか覚えていない。


その闇の中、呼吸をしていたのかどうかすらも分からない。


ある時、突然、闇のトンネルが抜けたような気がする。


そして、最初に目にした景色が泉が涌き出るこの暖かな場所だった。



僕に文才などと言うものが有るかどうかは全く分からない。


所詮、牧師崩れの中途半端な人間だ。


恐らく、人様の言う、立派な小説と言えるようなものは一生かかっても書けないと思う。


でも、この風景の記憶だけはどうしても書き遺して置かなければならない。


それは僕が生きている内にやらなければならない義務であり、恩返しであり、最後の御奉公だと思っている。


この事をおろそかにしたら、僕が生きて来たこと、混沌とした闇から抜けた数十年の月日が全て空しいものとなってしまうような気がする。


所詮、はかない一瞬の瞬きに過ぎない人の一生に、何かの意味を見出だし、何かを遺して置こうと人は良く願望するが、ある面、そんな自分自身の根底に持っている欲求や野心と言うような泥臭いものからではない。


この湧水の輝きと伴に流れて消えて行った一瞬の風景を、まるで写真で切り取った様に止めて置くことは全く自分自身の為ではなく、その源そのものの意味を失いたくないからで、源をずっと生かしておかなければならない、誰かの心に必ず遺して置かなくてはならないと言う思いからだけだ。



ただそうとしか僕には言えない…。



そう…物心が付いて最初に見た景色はぼんやりとしていて濃い霧の中のようだったが、多分、霧の中で最初の最初に目にしたのは母の顔だったと思う。


そして、仏壇の上の壁に、真っ白な、まるで雪のような髪をした清楚な美しい淑女が、どこかはかなげに、でも、はち切れるように僕に微笑み掛けている…


僕が最初に目にした風景は、座敷の中の仏壇の上に掛けられている白髪の貴婦人が何時も見守っている何気無い畳六畳の世界だった。



ある日の午後、西に傾く朱色の陽射しが目にしみて、昼寝から覚めてふと目を上げてみると、隣で母が洗濯物を片付けながらこちらを覗き込んで、「良く寝てたね、お母ちゃんも仕事が捗って助かるよっ」そう言いながら頭を撫でてくれた。


僕はぼんやり寝起きの目で意味も無く何時もそこに有る白髪の貴婦人を見詰めていた。


「あぁ、おばあちゃんね…本当に真っ白な髪でしょう!この写真を撮った時はまだ五十歳に成ったばかりで、それなのに、髪は黒いところが全然無かった…そうね…ふぅ~」母はちょっとだけ気だるそうなため息を漏らすと、「そうそう、あんたにはまだちゃんと話していなかったね…かあちゃんは苦労してばかりで、まだまだ若かったのにあんなに髪が真っ白に成って、苦労し続けてぼろぼろに成って死んじゃた…」そう呟くと母は仏壇の上の写真に目をやり、徐に僕の顔を見て、僕の瞳をちょっと睨み付けるように「富夫はあのおばあちゃんから命を貰ったの!」そう言うと真剣な顔で話し始めた。





[菅谷の家とカネ]


菅谷の家は代々旗本として徳川将軍家に仕えていた。


元々は茨城をルーツとする武家の家で、先祖には戦国大名の小田氏に仕え、宍倉城や土浦城の城主を勤める戦国武将を輩出したりしていた。


遠くは赤松氏に属し、村上源氏の流れを汲むと言われていた。


祖母はそのような由緒有る家のひとつに養子として迎え入れられた。


明治に入って、幕府は滅び、曾祖父は東京の警察官を勤めていた。


家はそれなりに安定して使用人を抱えるほど潤っていた。


なぜ祖母が養子として迎え入れられたか定かなことは分からない。


ただ、誰から見ても、幼い時から容姿端麗で聡明な女の子だったらしい。


親戚すじから見初められ養子に迎え入れられたのか、あるいは使用人の娘だったのか、または、街でたまたま出会ったのか、確かなことは分からない。


当時世間一般的に良くあったように、曾祖父が妾さんか馴染みの芸子さんに産ませた子と言うことも否定出来ない。


もしかしたらそれが一番妥当な見方かも知れない。


ただ、ひとつ、確かに言えることは、決して派手ではないが幼い頃より人を惹き付ける華が有る子供であったようだ。


それは、仏壇の上の写真からも感じられた。


着物はつぎはぎの有るような粗末な物を着ていて、真っ白な髪は後ろでひとつに束ねているだけの何処にでも居る貧しい老婆の身なりをしているのだが、幼い僕にも貴婦人と感じさせるものが確かに有った。


品の良い佇まいと、何処かはかなげだが温かさと優しさをも感じさせる凜とした微笑、日本人離れしたハッキリとした目鼻立ちで、おでこが若干広めの理知的な顔だち、一言で言うと清楚な美人と言うのだろうが、それは上部だけのものではないような内側から沁み出て来る山間の美しい泉のようなもので、オーラそのものが美しい湧水の様に清々しく何処までも透明にキラキラと清み渡っていること感じさせる。


たった一枚の写真でも、彼女の魅力は十分伝わって来る。


さしずめ現代であれば、トップアイドルでも女優にでも成れたことだろう。


ここまで言ったら誉めすぎだろうか?


そんな祖母の物語を母は幼子の僕にも良く分かるように噛んで含めるように話してくれた。


そして、母の話しを聞いている内に、僕は彼女の生き方そのものが泉のような清楚な貴婦人であることを知ることになる。



菅谷カネは日露戦争が終結した年にこの世に生を受けた。


まだ幼い頃に、父、菅谷政之助、母、加代に養子として迎え入れられた。


カネの父は今は隠居の身であるが、昔、西南戦争にて西郷軍と警察隊の一員として戦った事の有る生粋の武士であり、根っからの警察官であった。


晩年、酒を飲むと、田原坂での一戦を自慢げに良く語ったと言うが、普段は物静かで謹み深い優しい老人であった。


思慮深く、穏和でありながら、ひとたび職務となると勇猛果敢に先陣を切り、周りからの信望も厚く、ほんの噂ではあるが、一度は幕臣の出でありながら警視総監にと推挙されたこともあったと言う。



妻の加代は遠くは徳川四天王の一人、本多忠勝公の血を継ぐ三河以来の旗本の家に生まれ、格式も身分も政之助より上の出ではあったが、幕末の動乱の折り、これからは格式だの身分だのと言う時代ではないと、自分より身分が下でも真面目で誠実な人柄の政之助に惚れて自ら駆け落ち同然にいっしょになった。


若い頃は男勝りに武術を嗜み、長刀は免許皆伝の腕前、謹み深くあっても形に捕らわれない、正に本多忠勝の末裔を思わせる江戸の明治女だった。


そんな、なに不自由無く思われた二人ではあったが、一つだけ大きな問題が有った。


子宝に恵まれないと言うことだ。


それで一度は跡取りをと、親戚すじから男の子を迎え入れたが、間もなく結核で亡くなってしまった。


そんなこともあって、男女を問わず元気で跡取りに相応しい子をと、捜し、見出だしたのがカネだった。


二人はカネを目の中に入れても痛くないほど可愛がった。


教育もしっかり受けさせ、女学校にも通わせていた。


この時代、女学校へ通っているのは武家の出や豪商、政府の役人の子女で、庶民にはまだまだ縁の無い所だった。


ハイカラさんなどと言う言葉が流行ったが、今で言うとセレブなお嬢様と言ったところだろうか?


カネも両親の期待にけなげに応えようと懸命に学問に励んだ。


そんな彼女だったから、戦争中、自分の娘が英語を隠れて学んでいても黙って応援していたのだと思う…。


それは、まだまだ先の話しになるのだが…。




[青木与七との出逢い]


ある日、女学校の帰り道。


土手沿いの道の桜も散っていて、すでに葉桜に成っていた。


荒川の水面(みなも)をわたる風は心地好く、頬を薄紅(うすくれない)に染める初夏の夕陽がカネの髪をあま色に輝かせ、藍色のリボンと伴になびかせていた。


突然、小鳥の囀ずりを遮る様に「カネ~待って~!」と、後ろから甲高い声が追い迫って来た。


友人のチヨだ。


「どうしたの?そんなに慌てて」


チヨはけたたましい音を発てて自転車のブレーキを掛けると息を切らせながら、「だって、黙って帰っちゃうんだもん!」


「ごめん!このところ母上様のお具合が芳しくなくて…」カネは拝むような素振りで苦笑いしながら言った。


「かか様のお世話だったら家政婦のタケに任せて置けばいいじゃあない!カネがそんなに心配しても急に良くなる訳でもないし…そんなに気を張るとカネが潰れちゃうよ!」チヨはあっけらかんとした顔で少し頬を膨らませている。


カネが半ば苦笑いをしながらチヨの顔を見ていると、チヨはカネの着物の袖を引っ張るようにして、「そうだ、今日、深川のお不動さんで縁日が有るの!どう!気晴らしに行って見ない!」


チヨは豪商の娘で奔放に育って来た。


女学校も花嫁修行にと親が無理やり入れたので、本人は学問にあまり関心はない。


それでも元々頭の回転が良く、決して性格も悪くない。


物事を適当にやっているだけで、友達思いの優しいところがある。


カネもそれを知っているからイヤとは言えなかった。


チヨはいたずらっぽくウインクすると、「じゃあ6時に山門の前で待ってるからね!」そう言うとさっきまで歩きながら引いていた自転車にまたまたがり、濃紺の袴の裾を風にパタパタとなびかせながら行ってしまった。


カネが屋敷に戻ると女中のタケが玄関先を掃いていた。


「あっ、お嬢様!今日はお早いお帰りで!」タケは白いタスキをほどきながらペコッと頭を下げた。


カネは微笑みながら「母上様のことが気に成って…」


「奥様でしたら堀切の榊原先生も往診に来られ、もう大丈夫と言っておられました」


「旦那様も以前、御長男を結核で失なってから気が弱く成られて、今回もひどくご心配のご様子でしたがひとまず安心なさったみたいです」


そう言うと竹ぼうきを玄関脇に立て掛けながら、「お嬢様もあまりご心配なさらずに、学業にお励みなさいませ。いざとなれば、このタケが付いております!」


「それに老いているとは申せ、武芸の達人、長刀の名手であり、徳川最強の本多忠勝公の血を受け継ぐ奥様のこと、そう簡単には流行り病の病魔ごときに敗けはしませんよ!」ほうっかむりをほどきながら、カネをたしなめる様に高らかに笑いながらそう言った。


カネは母を気に掛けながらもチヨの気持ちを無下にする訳にもいかず、浴衣に着替え、身支度をすると、父に許しを得て出かけることにした。


父、政之助もカネを信頼しているので大抵の事は何も言わない。


ただ、夕暮れに娘を一人で外出させるのには抵抗があったので、使用人の伍作を護衛に附けると言うことで了解した。


夕刻とは言っても、5時6時頃ではまだ日も高く、真昼のように明るい。


傾きかけた日輪は頬を真っ赤にしながら沈まぬ様に頑張っている。


伍作は提灯を折り畳むと腰に刺し、玄関先で足元の履き物を整えると、加代の部屋の前でタケと立ち話をしているカネに向かって大声で、「お嬢様!もうそろそろ行かねーと6時に間に合いませんぜー!」と屋敷中に響く様にがらがら声で叫んだ。


伍作は小僧の頃より菅谷家に仕え、もうすでに七十は超えている。最近は耳も遠く成って来てやたらに声が大きく成った。


カネはそそくさと小走りで廊下を走り、下駄箱の中に手を入れると赤い鼻緒の下駄を取り出し、格子戸の外で立っている伍作に良く聞こえるようにと大きな声で、「伍作ー!そんなに急がなくても市電に乗って行けばまだ間に合います!」と叫んだ。


すると伍作は耳に手を当てながら、「お嬢様、何ですかー!」と、しゃがれたがらがら声で叫び返す。


カネは履いたばかりの下駄の上でつま先立ちに成りながら、「だからー、市電を使えばまだ十分間に合いますって!」伍作の耳元に手を当てて大声で叫んだ。


伍作はカネを見下ろすようにして、「お嬢様!お言葉ですが、あっしは市電が苦手でやんして、あんなすし詰めに成る位なら歩いて行った方がまだましでやんす!」と叫び返す。


カネは「何を言っているんです!ここから深川のお不動さんまで歩いて行ったら1時間はかかりますよっ!」と、腰に両手を当て弱冠苦笑しながら言った。


「じゃあ人力車で行きやしょう!」伍作もしつこく食い下がる。


カネは呆れた顔つきで首を横に振ると、「今月はお母上のお医者代が嵩んでいるの!節約、節約!」と言いながら伍作を押して道に出た。


カネと伍作は市電が来るまでの間、駅所でずっと黙っていた。


人が徐々に集まって来て伍作が列の中程になった頃、市電がチンチンとベルを鳴らして目の前に止まった。


伍作とカネは人の列の中で市電に飲み込まれる様に乗り込んだ。


座席がひとつ空いていたのでカネは伍作を座らせて自分は立つことにした。


伍作は鳥打ち帽の下で、済まなそうに瞳を上目遣いにしてカネの顔を見上げた。


眉毛や髭は黒いところが数えるほどしか無い。


眉間や口元には深い谷間のようなシワが幾つも刻まれている。


小僧の頃から菅谷の為に懸命に勤めて来たのだろう。


そう思うと、カネは伍作がとてもいとおしく思え、微笑みながら頷いた。


その微笑みは十六の少女とは思えない、赤子を見詰める母のような温かな笑みだった。


ほどなくして、門前仲町の駅所に着くと市電はざわざわと人波を吐き出し、チンチンとベルを鳴らして行ってしまった。


街中はお不動さんの縁日とあってガヤガヤと賑わっている。


道筋の和菓子屋やそば屋からは、のれん越しに笑い声や注文の声が聞こえ、老若男女が出入りしている。


カネはほんの数歩、伍作の後を人を避けながら歩き、下駄屋の前を過ぎると、お不動さんの山門が見えて来た。


目を凝らして見ると、山門の脇には萌木色に鮮やかな牡丹の柄の浴衣を着てそわそわと辺りを見渡す少女が見えた。


チヨだ!カネが大きく手を振るとチヨも気付いたらしく、此方の方を見て飛び跳ねるようにして大きく手を振って来た。


今度はカネとチヨが伍作の数歩前を歩き、伍作が人波の中を掻き分けながら付いて来た。


チヨは人混みの中で持っていた巾着を高く上に上げ、カネを横目で見ながら、「カネ!今日はお小遣い沢山持って来たからあたしがおごるよ!」と言うとカネの手を取って参道の中程に有る出店まで引っ張って行った。


チヨは人混みの中でしっかりとカネの手を握って裸電球の下まで小走りで行くと、「おじさーん、その大きい方の水飴、2本ちょだーい!」と、何時もの甲高い声で、一瞬、辺りのざわめきを掻き消した。


「ちょっと、恥ずかしいよ…子供みたいに…」カネはチヨの手を逆に引っ張りながら言った。


「何言ってんの、あたし達まだ子供でしょう!」チヨはカネの顔を覗き込みながらウインクした。


そして、もう一度振り向くと、大きな出来立ての水飴をカネの手の中に押し込んだ。


「まず、ここに来たらこれがないとねっ!」チヨはそう言うと水飴をこね始め、そして、ちょっとこねながら歩いたかと思うと、パッと顔を上げ、今度はカネの袖を引っ張りながらまたまた走り出した。


「ちょっと、今度はどこ行くの~」カネは引き摺られるようにして人混みの中を付いて行った。


カネは何時もの事ながらチヨに呆れながらも、内心この天真爛漫さに惹かれ憧れるようにすらなっていた。


チヨもカネの繊細なそんな気持ちが分かっていて、カネの前では少しおどけて見せていた。


「金魚すくい、金魚すくい」チヨはカネの袖を握り口元に水飴をくわえながら呟いている。


「お行儀悪いわよ!」カネは苦笑いしながらも心の底から笑みが溢れて来た。


こんな楽しい気持ちに成れたのは久しぶりだった。


カネは呆れた顔つきで引き摺られながら心の中でチヨに感謝していた。


「ほら、チヨ、そこ、そこ」

「あ~あ」

「おじさん、これ、直ぐ破けちゃうよ!」

「あの金魚、少し大きいんじゃない?あれはやめた方がいいよ」

「うふふ」

「なに笑ってんの?」

「だって、こんな姿みたら誰も女学生だなんて分からないんじゃない」

「…あっ、…そう言えば…、あたし達、…何か大きな忘れ物していない?」

「そうね、チヨはしょっちゅう忘れ物して来るものねっ。この間なんか、体操が有る日なのにブルマまで忘れて来るんだもん」

「おまけに遅刻はよくするし」

「そうじゃないわよ、今、今の話し!」

「ん…ん…」

「あっ!伍作だ!」

二人は顔を見合わせた。

「チヨがあんな勢いで引っ張り回すんだもん、そりゃあ伍作だって見失うわよ」

「なんせ、もう七十過ぎなんだから」

そう言いながら二人は顔を合わせて声を出して笑った。

元々箸が転がっても笑う年頃、暫くお腹を抱えて笑っていた。


「カネ、どうしょう?捜しに行く?」

「そうねー、でも、伍作としては護衛に付いて来たのに迷子になったとなると、父上様にお叱りを受けるでしょうし、本人も長年使えて来たプライドと言うものがあるから、きっと今、必死になって捜していると思うの、だからここで私たちが動くと行き違いに成る可能性が有るから暫くこの辺でじっとして居ましょう」


チヨもちょっと心配そうな表情で大きく頷いた。


二人は参道脇の石灯籠の傍らで辺りを見渡しながら待つことにした。


相変わらず人混みは引きそうにもない。


益々増えて行っている。


チヨは少しうつむきながらカネの横に立って、「ごめんね、あたしがカネを振り回したばっかりに…」と溜め息混じりに言った。


「チヨは悪くない!気にしないで。このところ母上様の事で何時もふさいでいて、こんなに笑ったことなんて無かった…チヨには感謝している…ありがとう…」そう言うとチヨのうつむき加減の頬に自分の頬をあてがった。


するとチヨの表情がつい先ほどまでのような無垢の笑顔に戻った。


「あのね…あたしさっきの出店の横でほおずきを売っている出店が有って、思い出したんだけどカネはほおずき鳴らすの上手だよね…あたしなんかなかなか鳴らせないし、赤い実から種を取り出すことすら上手く出来ないんだよね…何時も実をもんでいる内にイライラして来て実が潰れちゃうの…今度教えてくれない?あそこの出店、帰りによって行こうか?」


「うん…」カネはチヨの両肩に手を置きながらもどこか気の無い返事をしていた。


チヨはカネのそんな気持ちを察しながら「そうだね!今日はもう遅いし、伍作さんの事もあるから今日は止めて、あらためて今度、八幡様のほおずき市に一緒に行こう!」そう言って屈託無く笑った。


「うん」カネも微笑み、大きく頷いた。


「でも、カネって凄いよね、あんなに勉強してるのにほおずきでも草笛でも何でも出来るんだもん」


「うん、海ほおずきだって吹けるわよ」


「本当に凄いよ!だって、この間、武田さんにたまたまほおずきの話しをしたら「何?それ?」だって!あたしって、やっぱり子供っぽいのかなぁ?でも、あの人のとと様、東京帝大の教授だし、兄様は京都帝大の学生さんだから、そのぐらいのこと知ってると思ったんだけど!」そう言うとクスクス笑った。


「だけど、うちのクラスメート、みんな大人びて硬いよね!お役人の子が多いからかなぁ?」


「なぁに言ってんの!私の父上は元警察官よ!」カネもそう言ってお腹を抱えて笑った。


そうこう話している内に30分位経っただろうか?山門の有る方から二人のがっしりした体格の良い男達が何故か此方に向かって近付いて来た。


そして、石灯籠の脇で笑いながら雑談している二人の前に来て急に立ち止まった。


カネが少し驚いて男達に目を向けると、正面に立っている灰色の鳥打ち帽にチョッキを着けた背の高い男がカネに向かって、「姉ちゃん、俺達にちょっと付き合ってくれねーか?」と、威圧的に言った。


「あなた方は何者です?」カネはチヨを自分の後に匿う(かくまう)ようにして後退りをしながら言った。


「私はあなた方のことは知りませんけど?」チヨはそう言っているカネの背中にしがみつく様に隠れている。


カネにはチヨの心臓の鼓動と震えが背中に伝わって来るのを感じた。カネはちょっと振り向くと小声で「大丈夫!怖がらないで」そう言うと凛と正面を向き、男の目を睨み付けると、「変なことをすると大声を出しますよ!」と言った。


カネの少し乱れた前髪からは汗が滲み出て来る。


すると、「心配いらねーよ、ちょっくら俺達とコーヒーでも飲みませんか?って言っているだけじゃねーか?」


少し揉めていると、うしろから髪がお釈迦様のようにカールしたもうひとりの男が顔を出した。


カネは一瞬、目を見張った。

見覚えの有る顔だった。


「あっあっ、もしかして、あなた、よっちゃん?」


「えっ!おめえ誰でぇ?」パーマ頭の男は少し身を引くと、訝しそうな顔で斜めに構えながら言った。


そして、少し後退りすると人混みの中でも誰にも聞こえるような大きな声で、「何でおめえがおいらの名を知っているんだ!」と叫んだ。


「私よ!私!菅谷様に養子に行ったカネよ!」


「えっ、…何…おめえ?随分見違えて、垢抜けしちまったじゃねーか!」男はカネの爪先から頭の先までじろじろと撫で回す様に見ながら少し驚きの表情を浮かべた。


カネは何故か泣き出しそうな震えた声で「よっちゃんこそ何でこんなことしてるの~?」


「昔、荒川の土手で良くおままごとしたじゃない!」


「良く、クローバーの花で冠(かんむり)を作って上げたじゃない!よっちゃんもクローバーの花で首飾りを作ってくれたじゃないの!」


「小さい時のよっちゃんは、大法螺(おおぼら)吹いたり、いたずらばかりしてたけど、おおらかで楽しくて、誰よりも優しい子だった!なのに何でこんな人を脅す様な事が出来るの?」そう言うとカネの大きな瞳から泉の一滴(ひとしずく)が流れ落ちた。


「おめー何言ってんだ!ごちゃごちゃと変なこと言うんじゃねー!人が集まって来るじゃあねーか!」男はわざと大袈裟な態度で言った。


「ハイカラさんだか、旗本令嬢だか、何だか知らねーが、おいら達はなぁ、明日から親方と一緒に遠い満州まで行かなきゃならねぇんだ!行く前に思い出位作ろーと思って何故悪い!」そう言うと背の高い鳥打ち帽の男に向かって、「兄貴、こいつは絶対に駄目ですぜ!こいつの親父は元察のお偉いさんですぜ。こんなやつに手を出すと直ぐブタ箱行きでさー!さぁさぁ長居は無用です!行きやしょう!」そう言いながら鳥打ち帽の男の前に立ち、押さえ留めるようにしている。


そうこう言っている内に、騒ぎに気付いたやじ馬達が集まって来たので、男達は人混みの中に身を隠す様に逃げ去って行った。


カネは何故か、立ち尽くしたまま涙が溢れて来て止まらなかった。


チヨもうしろで、カネに抱き付いたまま涙が止まらない。


やがて二人はそこに座り込んで抱き合って泣いていた。


二人の浴衣の裾は涙で濡れて白い腕に張り付いた。


やじ馬の中から年輩の見知らぬ婦人が抱き合って泣いている二人の元に近付き、二人の肩を抱いて慰めようとしている…「怖かったね、怖かったね、…もう大丈夫だよ、あいつらあたしらを恐れていっちまったよ!大丈夫、大丈夫、おばさん達が付いてるから安心をしい。」そう言いながら二人をきつく抱き締めた。


チヨは安心したのか更に声を出して泣いた。


カネは何故か分からない、男達に相対した時は何も恐れていなかった。


少しは母上から合気道などの技を教えてもらっていたし武家の心得を常々教わっていた。


いざとなったら与太者の一人や二人、投げ飛ばしてやれと心の中では構えていた。


泣く理由など無いはずだった。


なのに、どうしてなんだろう?涙が泉のように次から次に溢れて来て自分でもどうすることも出来ない。


「どうして、どうしてなの?」カネは小声で呟きながらチヨと頬を合わせて更に泣き崩れた。


そんなことが有ってから…伍作は責任を感じてしまい、カネが外出する時は必ず付いて来る様になった。


女学校に登校する時も付いて来て下校時も校門の脇で何時間でも待っていた。


まるで子供扱いとは感じたが、カネも伍作の気持ちが痛いほど解っていたので何も言えずにいた。


カネのクラスメートの中には伍作を忠犬ハチ公等と揶揄する者もいたが、カネは伍作を何時も庇っていた。


しかし、そんな伍作の護衛もある日を境に完全に無くなる事になる。…




[激震]


それは突然やって来た!


翌年、大正12年9月1日、11時58分32秒!


東京と神奈川を中心に南関東に歴史上類を見ない災いが襲い掛かった!


関東大震災だ!


その日は能登半島沖の台風の影響も有って弱冠風が強かったが東京の巷は何時もと変わらず、女学校も何時ものように夏休み明けの始業式を迎えていた。


伍作も何時ものように女学校の校門脇に居て、帰り始めていた女学生達を見送りながらカネが出て来るのを待っていた。


そして、それは、伍作が校門の石柱を背に腰掛け、煙草を取り出そうと懐に手を入れたその時の事だった。


突然、ドンドン!と地面の下からハンマーで叩かれるような震動が響いた!


伍作は何事が起きたのかと辺りを見回したが何時もの景色しか目に入らない。


暫く妙な強い震動が響いて、辺りの瓦が擦れ落ちる音がしていたが、それも落ち着いたので立ち上がろうと両脇に手をついたその時だった!


激しい、大浪に揺られるような横揺れが始まった!

伍作は立ち上ることも出来ずに地面の上を転がっていた。


大浪に飲まれる木葉のように自分の意思ではどうすることも出来ない!


あちこちから甲高い悲鳴が上がっている。


丁度お昼時と重なり、近所の民家の台所から火の手が上がり始めた!


火の手は時折吹いている強風に煽られ、あっという間に辺りに広まって行く!


伍作は何度か立ち上がろうとするが思うように行かない!


やがて煉瓦の塀が崩れ出し、校門の石柱が傾き倒れ伍作に襲い掛かた!


伍作は咄嗟に身をよじったがもう間に合わない!


右足首を挟まれて身動きが取れなく成った!


辺りからは悲鳴や泣き叫ぶ声が響いて来る!


カネの身が心配だ!


伍作は老体の全身の力を振り絞って石柱を動かし、なんとか右足を引き摺り出したが骨折しているようで感覚が無く、思うように立ち上がれない!


それでも火事場の馬鹿力ではないが、近くに有った桜の木にしがみつき、なんとか立ち上ると、火の粉が飛んで来る中をびっこを引きながら校舎に向かってゆっくりと歩き出した。


校舎の中からは悲鳴を上げながら女学生達が飛び出して来る!


時折、何名か伍作に気付いた学生が、声を掛けて来るが伍作は意に介さず、口を手拭いで被いながら、真っ直ぐにカネが居るであろう校舎に向かって歩いて行った。


後にクラスメートの一人が火の粉が飛び散り燃え盛る校舎の廊下でカネの名を呼び叫ぶ老人を見掛けたとカネに告げたが、二度と伍作が戻って来ることは無かった。



この日激震と共に起きた火災は火災旋風を巻き起こし、40時間市街を被い続け、東京を中心に21万2000余棟の建物を完全に焼き尽くした。実に火災の死者犠牲者だけでも9万1781人に及んだ。



カネは伍作が手拭いで口を押さえ、火の粉が飛び散る校舎に分け行った丁度同じ頃、チヨと数名のクラスメートと共に炎で崩れかけた裏口から命からがら外に出ていた。


市道は余震が続く中、炎を逃れようと逃げ惑う人で満ちていて、市電も止まったまま動くことも出来ず、荷車やフォードのトラックが衝突して炎を上げているところを互いに押し分けるように市民が着の身着のまま叫びながら逃げ惑っている!


当に校舎の外も阿鼻叫喚の地獄だった!


カネ達は炎を逃れようと、荒川沿いの何時もの道に向かうことにした!


チヨは泣きながらも新品の秩父銘仙の着物を気にして、「これ、流行りの柄で、きのう下ろしたばかりなのよ~!涼しくて軽くて綺麗だったのに~もう真っ黒で焦げて穴だらけ~!」


「こんな時に泣き言言わないで!私だって泣きたいんだから!」そう振り向きながらカネは煤で真っ黒な頬を袖で拭った!


前にクラスメートの前田さんや良子ちゃんが歩いている、担任の吉沢先生もいる。吉沢先生は山の手のお嬢さん育ちで去年師範学校を卒業したばかり、当然、こんな経験は初めてだ。


校舎を出る前から顔が真っ青でまるで幽霊のようにその細い身体は存在感が薄い。


女学生達に励まされながら懸命に先導の勤めを果たしている。


そして、その、痛々しい後ろ姿の前を大勢の人が列を成して歩いている。


この眺めは地獄の行進の様だった。


「校長先生、どうしただろ?最後まで残るって言っていたけど…。」そう小声でチヨが呟いた。


カネはただ黙って前を向くしか無かった。


数時間かかって押上の屋敷の有るであろう所までたどり着いたので、カネはチヨ達クラスメートと別れた。


別れ際、チヨは涙ぐんでカネに抱き付いて来たが、また女学校での再会を約束して、そこに居たクラスメートも含めて固く手を取り合って別れた。


最後までチヨは何度も振り向いていた。


辺りを見回すと確かにこの辺りなのだが、何処が屋敷の有った所なのかさっぱり分からない。


炎は街をそれだけ焼け尽くし、辺りは瓦礫の山に成っていた。


ほんのちょっと離れた所では、まだ激しく炎が上がっている!


時折、むっとする熱気や煙と共に、人の焼けた臭いや死臭が漂って来る!


ここはまだまだ危険だと感じたが、昨年、肺炎を患い寝た切りに成っている母上様や年老いた父上様のことが気になり案じられてならない。


伍作も何時もの校門付近に居なかったが、無事に戻れたか心配だ。


タケのことも気に掛かる。


とりあえず火の粉を避けながら辺りを見回していると、正面から焼け焦げてボロボロに成った着物と割烹着を羽織った年輩の女性が近付いて来た。


「お嬢様!」


その声の主をじっと目を凝らして見ると、タケだ!

カネは思わず駆け寄った。


そして、タケの手を握りながら立て板に水のように次々と両親の安否や伍作の安否について尋ね掛けた。


タケの握った手はゴツゴツしているが、何時ものような力強さを感じることが出来ない。


タケはうつむいたまま数回頷くと重い口を開き始めた。


「旦那様は地震が始まる前は何時ものようにお庭の手入れをしておられ、奥様はお部屋で休んでおられました。お嬢様もご存知のように寝た切りに成ってからはほとんど台所にも来られなく成っていて…そこをあの激しい揺れが襲って、奥様は身動きも取れず…お屋敷が崩れかかったところを旦那様が飛び込んで行かれ…そのまま火の海に……。」そこまで話すとタケは声を詰まらせ、涙で言葉に成らなくなった。


カネも状況は察しが付いたがタケの前では気丈に振る舞おうと、必死になって涙を堪え、「伍作は、伍作はどうなりました!」とまるで訴えるように問い掛けた。


タケは僅かに目を上げ「何時ものようにお嬢様をお迎えに行くと言って、それから…姿を見ていません」

その言葉が終わらない内にカネも耐えきれずしゃがみこんで泣き崩れた。


その後は何もかも言葉に成らず、ただしゃがみこんだまま二人で泣き崩れていた。


やがて辺りが夕暮れ時で薄暗く成って来たので、タケが思い付いたように「お嬢様、とりあえず極楽寺へ行きましょう。彼処でしたら川の向こうで火の手も回っていないでしょうから…」


極楽寺は室町時代からの由緒有るお寺で菅谷家の墓の有る寺だ。


二人共昔から通っている道で多少暗くても分かる。


そうこうしているうちに夕闇が徐々に深まって来た。


カネはぐっと足に力を込め立ち上がると、タケの手を取って歩き始めた。


寺の境内では傷付いた人々や避難して来た人達が大勢暗闇の中で身を寄せ合っていた。


その中を住職と小僧さんや近所の奥さんが、差し入れの握り飯を盆に乗せて忙しそうに人々の間を歩き回っていた。


「おやっ、菅谷さんのお嬢様じゃないですか!そんなところにいらっしゃらないでこちらにお出でなさい!」住職が手招きをして二人を呼び寄せた。


「お父上やお母上はどうなさいました?」


二人がうつ向いて今にも泣きだしそうな顔をしているのを見て住職も察しながら、「このような有り様じゃさぞかし辛い思いをされたことでしょう。言わんでいい、言わんでいい」そう呟くように言うと御堂の中に招き入れた。


そして、「今握り飯を持って来るから、この辺で休んでいなされ。」そう言うと御堂の隅を片付け、二人が十分休めるだけの広さを確保すると忙しそうに外に出て行った。


タケもカネもこのお寺には墓掃除だけではなく、奉仕活動など事有る毎に来ていたので、住職や小僧さんとは親戚のような親しい間柄になっていた。


二人は一月ほど寺にお世話になり、両親と伍作の遺骨を埋葬すると、暫くタケの故郷、会津に行くことにした。


10年ほど前に亡くなったタケの夫も同じ会津の出身で、家も斜向に有り、互いに幼なじみだった。


タケの家は元々会津藩の足軽の家で、戊辰戦争の折り、両親を始めまだ幼かった兄達も皆戦火に倒れてしまった。


そして、孤児と成り、行く当ても無く途方にくれていた幼少のタケを引き取って育ててくれたのがタケの夫の家だった。


タケが十五の時、嫁に成り、暫く会津で百姓をしながら洋裁和裁を学び、東京に出て来て菅谷の先代に夫と二人使えるように成った。


だからタケにとっても他に行く当てなど無かった。


カネにしてみても元々は養子で菅谷に入った身、遠く土浦辺りに宗家が有る様だが、カネ自身は行った事も無く、屋敷が灰に成ってしまった今、行く当てなど何処にも無かった。


タケもカネもそれぞれノートの切れ端に自分達の安否と所在をメモして駅前の交番の壁に貼った。


交番の壁は既に伝言が書かれた多くの人のメモや貼り紙で埋め尽くされていたが、窓枠の脇に僅かに空いている所が有ったのでそこに無理に貼り付けた。


そして、その足で鱗雲が夕焼け空を流れて行くのを見上ながら会津へ向かう夜行列車に乗り込んだ。




[二つの再会]


それは年の瀬の押し迫ったある日の夕暮れ時のことだった。


カネも会津に来て三年近くが経ち、会津での生活にもだいぶ馴れて来ていた。


早朝から降り始めた雪が積もり出し、辺りを一面の銀世界に姿を変えていた。


カネにとっては会津に来て三度目の雪景色だ。


今年は例年に比べてかなり初雪が遅い。


そんなことを思い、窓辺に目をやっていると、何時しか雪も止み、雪雲の隙間から鮮やかな朱色の日光が射し込み、白銀の地面を撫でる様に照らしている。


そして白銀に反射して暫し辺りは黄金色の極楽浄土のように見えた。


しかしそれもほんの束の間、やがて夕闇が辺りを覆いだし、藍色のベールが静かに銀世界を包み込んで行く。


やがて磐梯山の山影がクッキリと漆黒に見え、辺りは静寂に包まれて行く。


時折、豆腐屋の音と人の会話の音が入り雑じって耳元に届いて来る。


そんな風景を感じながら井戸に水をくみに行くと何やら玄関の方から雪を踏む音と、甲高い女性の声が聞こえて来た。


「あっ、来客だ。」


カネが玄関に向かうとタケの声も聞こえて来た。


玄関口には花柄のスカーフを被り、ロイヤルブルーのオーバーコートを羽織ったモダンな婦人が立っている。


玄関の中に居たタケがカネの姿に気付くとカネに向かって大きく手を振り「お嬢様~!お嬢様にお客様です!」と叫んだ!


カネが急いで玄関口に向かうと、その婦人はカネの方を振り向いた。


チヨだ!


「チヨ!チヨじゃない!どおしたのー!こんな所まで来てー!」


思わず二人は抱き付くようにして跳び跳ねた。


「なに~チヨ!急に大人びちゃって!」

「違うわよ~服装だけ!」

「良くここが分かったわねー!」

「あんた達が交番に貼り紙して行ったでしょー!直ぐに分かるわよっ!でも正直、ちょっと迷ったけどね!」チヨはそう言ってウインクした。


二人とも久しぶりの再会で話したい事が頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。


ほんの少しの沈黙の後、チヨがちょっとはにかみながら、そして照れ臭そうに口を開いた。


「あのね…あたし、年明けに嫁に行くことになったんだ…」


カネは目を大きく見開いて「えっ!何、それ本当!素敵じゃない!」


チヨは照れながらも若干俯きながら、「実は今回の震災でとと様のお店が壊滅的な被害を受けてしまって、お店を立て直す為にも兼ねてから話しの有った大阪の百貨店の御曹子のところに嫁がなければならなく成って、それをまず、カネに伝えたくって今日は会いに来たんだ…それだけじゃないけどね…」


そう、はにかむように言うと、チヨはちょっと上目使いに何時もの悪戯っぽい目でカネの顔を見上げた。


チヨの家は日本橋で二百年ほど前から商いをしている老舗の呉服問屋で、最近はモダンな柄の呉服を多く手掛けている流行りの店を営んでいたが、今回の震災で倉も含めて店のほとんどを焼失してしまった。


また、この時代の女学生は卒業するまでに嫁に行くことがごく普通なことで、器量のよい生徒ほど早く結婚をする風潮が有った。


卒業まで在学するとまるで売れ残りのように言われたと言う。


だからカネもチヨの話しをごく自然に受け入れることが出来た。


「ねぇ、チヨ、ここは寒いから中でちょっと話さない?ここはタケの実家で皆さん良い方ばかりだから大丈夫よ!こんなこと言ったら…図々しいかな?」


すると後ろで話しを聞いていた家主が、「いいえ、ゆっくりして行って下さい。私どもも菅谷さんにはどれだけお世話になったか知れません。何なら今日は泊まって行って下さい」そう言うとチヨの手荷物を持って中に招き入れた。


チヨは相変わらず照れ臭そうに微笑みながら、「ありがとうございます。では、お言葉に甘えまして」と頷き、家主やカネに促されるまま、玄関でブーツを脱いで中へ入って行った。


玄関を入って真っ直ぐに行くと昔ながらの囲炉裏の有る居間に通された。


カネがチヨのスカーフとコートを預かり、鴨居に有る衣紋掛けに掛けていると、この家の子供らやタケが珍しそうに寄って来た。


「これは舶来のコートでございますか?いい色をしてますね~生地も厚くてまるで毛皮のよう…温かでしょうね~」そう言いながらコートの袖口を撫でる様に触っている。


「こら、タケ!子供達が笑ってますよっ!」カネは少し背伸びをしてコートを鴨居に掛けると苦笑いをしながら自分の腰に手を当ててわざとタケの顔を睨みつけた。


チヨは笑いながら「ありがとう、タケさん!今年は何の準備もして来なかったけど、今度来年のクリスマスにはもっと良いコートをタケさんにプレゼントしますね。」


するとタケは袖口を離し、顔を真っ赤にして、「とんでもございません!そんなつもりじぁ…でもお嬢様、そのクルシミマス(苦しみます)って何ですか?」と神妙な顔で言った。


すると家の主や奥さん、子供達が同時に吹き出し、家中にどっと笑いが巻き起こった。


これにはカネもチヨも暫く笑いが止まらなかった。


囲炉裏端での食事は笑いが絶えず、タケの実家、村上家の方々と共にチヨもカネも久しぶりに楽しい一時を過ごした。


やがて夜も深まり、二人は同じ部屋で休むことになり、それぞれと風呂を頂くと布団を引いたが、まだ寝る気にはならない。


チヨが布団の上に座りながら、湯上がりの髪を解かすカネに、「…カネのとと様とかか様、残念だったね…」そう思い切って問いかけてみた。


「うん」カネは少し俯き加減に頷いた。


チヨも言葉が無くてもカネの気持ちは十分解る。


暫く沈黙が二人の間を支配した。


「伍作さん…校舎の中から遺体で見つかったんだってね…」


「うん…」


そこまで言うとチヨは耐えきれなくなって思わず涙が溢れて来た。


カネは次のチヨの言葉を押し止めるようにして言った。


「チヨ!もういいよ!もうその話しはいいよ!」


「帰ったら、お墓参りに行くね。…とと様とかか様と伍作さんのいる…みんなの眠っているお墓へ行くね…」そう言うとチヨは鼻声になり、声を上げて泣き出してしまった。


それを見て、カネもつられ声を上げて泣いた。


一頻り泣いて落ち着きを取り戻すと、また話し初め、チヨが鼻水をちり紙で拭いながらふと思い出したようにこんなことを言った。


「それから、…ここに来る前に、おかしなものを見たの、…菅谷さんのお屋敷の有った辺り焼け野原全体に杭が打たれ、柵が出来ていて中に入れなくなってるの…看板が何ヵ所かに有って、不動産屋の名前が書いてあったわ。…えぇ…と、たしか…大貫不動産とか書いてあった!ネェ、変な話しでしょう?」そう真剣な表情でカネの瞳を覗き込んだ。


カネは涙を拭いながら、「たしかに変ね。…きっと何かの間違いでしょうから今度帰って確かめてみるね」と言って頷いた。


それから二人は寝床の上で一晩中話し続けた。


夜半、時折雪が降り頻っていたが、早朝にはすっかり晴れ渡っていた。


チヨは結婚の準備で早く戻らなければならないと言って、朝食も取らず、着替えると帰り支度を始めた。


カネはそんなチヨを心配そうに見詰めながら思い切ったように口を開いた。


「チヨ、…昨夜からずっと気になってるんだけど、時々変な咳が出てるけど大丈夫なの?」


チヨは何時ものようにガサガサと動きながら、「大丈夫よ、震災からずっと疲れが溜まっていて風邪でも引いたんでしょう!あたし、昔から喉が弱いからぁ」チヨは笑いながらカネの肩を軽く叩いた。


「風邪でも悪化すれば肺炎に成ったりするでしょう…ちょっと咳が続くようならちゃんと早い内にお医者さんに見て貰った方がいいわよ」


「大丈夫!あたしこう見えてけっこう丈夫なのよ!」

チヨはそう言うと屈託無く笑った。


そして身支度を終えると、タケと村上家の家族ひとりびとりにお礼を言っている。


カネはチヨのバックを持ちながら、「駅まで見送るね!」と言った。


チヨはまた来た時と同じ照れ臭そうな顔で、「ありがとう、でも大丈夫!天皇陛下じゃないんだからここでいいよ!師走の忙しい時に突然来てごめんね。でも、…会えてとても嬉しかった!本当に楽しかったよ!」と、何時もの天真爛漫な笑顔で微笑みかけた。


そして、玄関でブーツに足を通すと、一度カタカタとかかとを鳴らせ、シッカリと土間を踏むと格子戸をガタガタと引いた。


外は街中とは言え銀世界が広がっていた。


冷たい空気を吸い込んでチヨがちょっと咳き込んでいる。


カネは思わず「ほら!万全じゃないんだから無理しないで!やっぱり駅まで行くよ!」と、チヨの肩を抱きながら言った。


するとチヨはその言葉を振り切るように、「ごめん!そんなことしたらあたし…帰れなくなっちゃうよ!」


その横顔にはうっすらと涙が光っていた。


カネは思わず半歩後退りをすると、「分かった、じゃあここで見送るね。でも、家に着いたら必ず電話してね…」そう言って持っていたバックを手渡した。


チヨは新雪に足跡を残して白銀の輝く中をカネの元から離れて行った。


朝日が雪に反射して眩しい。


眩しさと涙でカネの目にはチヨの姿に靄が掛かって良く見えない。


街角の少し離れたところでチヨが急に振り向いた。


そして、「カネ~!また必ず会おうねー!きっと、必ず、約束だよ~!」チヨが涙声で力一杯叫んだ。


カネも「分かってる!約束するよ~」と頬に両手を当てて叫んだ。


「本当に、きっと、きっとだよ~!」そう言うとチヨの姿は早朝の雪の街角に消えて行った。


辺りにはこだまのように二人の声が響いていた…。



しかし、この約束が果たされることはついになかった。


チヨは翌年、大阪の結核病棟でその短い生涯を終えることになる。


享年僅か十九だった。


チヨが自分の病についてこの時、知っていたかどうかは誰も知るものはいない…。


もちろん、カネも知らなかった…。




やがて、年が明けて間も無くカネとタケは一度東京に戻ることにした。


チヨの言っていたことが気になり、屋敷跡の土地を見に行く為だ。


凍てつくような寒い夜二人は会津を発った。


夜行列車は暗黒の闇の中をゴトンゴトンとリズムを取りながら走って行く。


時折、闇を切り裂く悲鳴のような甲高い汽笛の音と唸りを上げながら一路上野に向かって行く。


タケはカネの隣ですやすやと寝息を立てている。


人が疎らな車内からは小声でひそひそと話す人の声や、寝息の音が聞こえて来る。


静寂。


つい二年半前の出来事と混乱がまるで嘘のようだ。


カネは自分の息で曇った窓ガラスを上着の裾で擦ると闇夜に映った自分の顔を黙って見ていた。


チヨの姿や学友達、震災前の記憶が走馬灯のように何故か目の前に映る。


時が緩やかに流れて行き、気が付けば列車は目的地に着いていた。


辺りはまだ薄暗い。


カネはタケに声を掛けてタケを起こすと、ホームに降り立った。


昨日、小雪か霙でも降ったのか、東京の冬には珍しく若干湿った冷たい風が吹いている。


駅中のベンチで持参した弁当を食べ、上野駅の改札を出る頃には白々と夜が明けて来た。


あちこちに残っている水溜まりには氷が張っていて歩く度にパリパリと音がする。


焼け野原に成った町はまだ荒れたままだが、バラックの間や残ったビルの間に建築中の建物が姿を見せている。


カネ達が東京を離れている僅かな間にも着実に町は前に進んで姿を変えつつあった。


市電もかなりの部分で復旧しているようだ。


カネは久し振りの東京の町に人々の息吹と力強さを感じた。


そんなことを目にしながら押上方面に向かって暫く歩いていると、街も目覚め始め、瓦礫が残る道を部分的に復旧した市電がチンチンとベルを鳴らしながら走り始めた。


そんな市電を幾つか乗り継ぎ、かなりの部分を歩いたが、朝の内に屋敷跡に無事着いた。


跡地には火災で燃えた庭木の焦げた根と崩れた石灯籠が目に入って来たが、瓦礫と成った木材や瓦のほとんどは何処かに撤去され、代わりに細い木の杭が道との境目に周りをぐるりと取り囲むように幾つも打ち込まれ、有刺鉄線が張り巡らされていた。


カネは困惑した表情でタケの方を振り向いたが、タケも目を見開いたまま唖然として立ち竦んでいた。


カネはタケの方を振り向いたまま思わず言った。


「タケ!これはどういうこと!?チヨから聞いていたけどこれじゃ中にも入れないじゃない!」


タケは溜め息を洩らしながら、「私にもなにがなんだか分かりません?」と言うと暫く目を見開いたまま言葉が途切れてしまった。


ほんの少し、時間が止まったように二人を沈黙が覆った。



やがて、カネが気を取り戻したように、「チヨが大貫不動産と書いた看板が立ってると言ってたけど探して見ましょう!」と言いながら道との境を巡り始めた。


所々に崩れた側溝が有り、靴を泥だらけにしてしまったが、構わずに二人は小走りで探した。


暫くすると反対方向に走って行ったタケが辺り一帯に響き渡るような大声で、「お嬢様ー!有りました!有りましたよー!」と叫んで来た。


カネはタケが手を振る方に向かって走った。


息を切らしてたどり着くと、タケの指差す所に斜めに成った電柱に立て掛けるようにして、人の背丈ほどの立て看板が立てて有った。


カネは息を落ち着ける為に胸を撫でながら読んで見ると、この辺一帯の土地は大貫不動産が管理し再開発を進めているとあり、その下に、不動産の住所と簡単な地図を書いた貼り紙が貼られてあった。


カネは息を整えながら読み終わると、タケの目を睨むように見つめながら「これから直ぐに行きましょ!」と言った。



住所地は有楽町の方になっている。


何でそんな所の不動産屋がこんな所に関係が有るのか?と、疑問を持ちながら、とにかく二人はメモした住所を頼りに部分的に復旧している市電や人力車を乗り継ぎながら有楽町に向かった。


ほんの少し遠回りをしたが午後には有楽町に着いた。


確かにこの辺りも震災で倒壊した建物や焼け野原に成った区画もかなり残っているが、大勢の人が行き交い街は活気を取り戻しつつ有るように見える。


住所と簡単な地図を頼りに通りすがりの人に尋ねたり、町中の交番で聞いたりしたが、なかなか見つからない。


「タケー、私達はかなりおのぼりさんに成ってしまいましたねっ」と言いながらカネは悪戯っぽく笑った。


タケもその屈託の無い笑顔を見ていると何故か不安が消え失せて一緒になって声を上げて笑った。


すると通りすがりの黒い背広を着て中折帽を被った紳士が、二人を微笑みながら見たので、カネが思い切って尋ねて見た。


「あの~ちょっとお尋ねしたいんですが、この住所の所に行きたいんですけど、分からないで困っています。もしご存じでしたらお教え頂けませんか?」


するとその紳士はニコリと笑いながら大きく目を見開いて、「そこは僕の事務所の有るビルだよー!」と言った。


そして、二人をジロジロと見ながら、「そのビルは震災でも残って今は雑居ビルとして色んな業者が入って来ているよ。僕は以前からそこで税理士事務所をやっているんだけど、君達はなんと言うところに用が有るんだね?」そう言うとまた徐にメモに目をやった。


「ふんふん…、大貫不動産ね~最近入って来た不動産屋だね…あんまり柄が良くないなー、君達はここに何の用事なの?」と言いながらメモを押し戻して怪訝そうな顔をした。


カネは不安そうな目でその紳士の顔を見ると、「うちの御先祖様の土地、それと私達の住まいに関わる大切な用事なんです!」と言った。


「そうなんだね。詳しいことは分からないが僕もこれから帰るところだからついて来なさい」そう言ってその紳士は中折帽に手をやった。


そこから10分ほど歩くと目的の建物に着いた。


確かに入り組んだ分かりづらい所に有った。


近代的なハイカラな建物ではあるが、思ったより小さなビルだ。


中折帽の紳士の事務所は2階に有ると言うことで途中で別れたが、階段を登りながら目的の不動産屋は3階に有ると教えてくれた。


薄暗い少し煤で汚れた階段を更に登り、3階に着くと、所々、壁にひびの入った廊下に、幾つかの小さな木製の扉が並んでいた。


階段の踊り場から廊下の突き当たりまで、弁護士事務所、土木関係の事務所、ナイトクラブの事務所と並んでいる。


それらの事務所のドアを横目に見ながら薄暗い廊下を進んで行くと、突き当たりの角のドアの窓ガラスに大貫不動産と書いた紙が貼られているのが目に入った。


タケが何か恐いものでも見るような目付きをしながら、おそるおそる小さな声で、「お嬢様、嫌な予感がします」と言ってカネの袖を引っ張った。


カネは振り向きながら、小声で、「大丈夫!会津女の意地を見せなさい!」とタケを一喝した。


タケは一瞬怯んだが、直ぐに覚悟を決め、ぎゅっと拳を握った。


タケはこの時、カネの凜とした横顔を見ながら、内心、この人は外見はうら若くか弱い女学生でも中身はやはり侍、旗本の娘なんだと改めて思った。


しかし、本当のところはカネも不安で押し潰されそうだった。


タケと同じように気持ちが折れてしまいそうだった。


カネも自分は何処にでもいる弱い人間であることを自分が一番良く知っている。


彼女もタケに一喝しながら実は自分自身に一喝していたのだ。


カネは勇気を出して事務所のドアを叩いた。


すると中から、低い男の声で、「はい!どうぞおは入り下さい!」との返答が有ったので、思い切ってドアノブを握りしめドアを押し開いた。


するとドアの近くまで小肥りで銀縁の丸眼鏡を掛けグレーの背広を着た男が出迎えに来た。


そして、近くに有る椅子を二つ動かしながら、「お二方で何の用事ですか?どうぞこちらにお座り下さい」と言って椅子を指差した。


二人は部屋の中をキョロキョロと見回しながら言われるがままその場に座った。


奥の机にはヤクザ風のガタイのいい厳つい男が二人、足を投げ出し座っている。


その奥では事務員の女性がひとり、タイプライターをカタカタといわせていた。


カネは一度、唾をゴクンと飲み込むと、震災からこれまでの経緯を話し始め、何故自分達の許可も無く勝手に自分達の土地を管理しているのかを問い質した。


すると丸眼鏡の男はニヤリと笑いながら、「お嬢さん、言いたいことはそれだけですか?そもそもお嬢さんがあの屋敷後の土地の所有者だと言う証拠が何処に有るんですか?土地の権利書を見せてくれませんかねー。

だいたいあの区画では生存者が一人も確認されていないんですよ!炎の竜巻、いわゆる火災旋風と言うやつが起きましてねー何も残っちゃいません!取り敢えずまずはあなた方が彼処に住んでいたことから証明して頂かないと無理ですねー。

何も無いのならあなた方にあの土地を使わさせる訳には行きません!

だいたい今まで役所に連絡もせず何処ぞに逃げていたからいけないんですよ!

証明出来なきゃ法的にも絶対無理ですよ!

お嬢さんは賢そうな人だから言っておきますけど、あまりしつこくすると五体満足で帰れなく成りますよー!

そちらのばーさんと二人してね。

さあ、どうぞ、お引き取り下さい!」

そう言ってニヤニヤと笑いながらカネに顔を近付けた。


カネは俯くと自分の膝を両手の拳で叩きながら、「酷い、酷すぎる!そんな無茶苦茶な事が通っていい筈がない!」と呟いた。


頬には悔し涙が次々と流れて行く。



それを見た丸眼鏡の男は声を荒げ「何が酷い、何が無茶苦茶だ!明治維新からこのかた、酷くなかった時が有るか!薩長の連中が政治の中枢に居る限り無茶苦茶な世の中は続くんだよ!奴等は力と嘘で権力を手にした!だから今だに内政も外交も暴力と嘘で片付けようとする!今は江戸時代のようにのんびりして居られる時代じゃないんだよ!これは国策なんだ!帝都復興院の指示、政策なんだよ!

帝都東京が荒廃し、何時までも復興しなければ世界中の物笑いに成る!

大日本帝国は日清日露は勝ったが地震の大ナマズには負けたと嘲られていいのか!

これは帝国の威信が掛かっていることなんだよ!」と叫んで机を叩いた!



そのやり取りをカネの横で黙って見ていたタケが、丸眼鏡の男を睨みつけると立ち上がって、「あんた、黙って聞いてりゃなんだい!お国の為とか偉そうに言ってやがるけど、やってる事はゲスな泥棒じゃないかい!」と怒鳴りつけた。


タケは会津より東京の下町に長く居ることもあって、興奮するとつい江戸弁で啖呵を切る癖が有る。


それも下手な江戸っ子より遥かに威圧的で流暢でしかもリズムカルで上手い。


そして、ひと度スイッチが入ると全く別人に成って誰も止められなく成る。


タケが更に捲し立てようとしているのを見た丸眼鏡の男はついに堪らなく成って、ヤクザ風の大男に命じて二人を事務所の外に追い出した。


二人は暫くビルの外に佇んでいた。


誰か親戚に助けてくれる人がいないか考えたが、カネが養子に入った時、父の二人いた弟達は反発して絶縁状態に成り、今は何処に居るのか?生きているのかすら分からない。


母方の家や本家とは数十年交流が途絶えているし、菅谷の宗家に至ってはもう百年以上交流が無く、当然、カネのことなど知る由もない。


結局、二人で土地の権利書や自分達を証明してくれるものを焼け跡から探すしかないと言う考えに落ち着き、跡地にもう一度戻ることにした。



街中を歩き、市電に乗りながら、カネは世の不条理を感じていた。


街は荒廃し、行くあての無い人達がバラックや瓦礫の中で何とか雨風を凌いだり、路上で物乞いのように力無く座り込んで居る。


その現実が今更のように網膜に飛び込んで来る。


そして、閃光を見た時のように強く焼き付いて来る。


不動産屋に向かった行きと帰りでは全く違う道、違う世界に見えた。


そして、震災後の混乱と人々の苦痛を尻目に、又、それを利用するかのように私腹を肥やす、醜い大人達の姿を知った。


カネは自分が再び孤児に成ったことを思い知らされ、世の冷たさを深く知った。



程無くして二人は屋敷後の焼け野に立っていた。


時はもう夕刻に迫っていたが、とにかく土地の権利書か何かが残っていないか探すことにした。


それが無駄なことだとしても、今はそうするしか気持ちの行き場が無かった。


カネは以前通学に使っていた着物と袴を着て、その上に濃紺のコートを羽織っていたが、コートを脱いで有刺鉄線の上に被せ、隙間を広げてそこから中に潜り込んだ。


そして、袴や着物が泥だらけに成るまで探した。


まだ残っている崩れた漆喰の壁の下に、母の大切にしていた指輪や父の好きな掛け軸を見付けたりしたが、肝心な書類などは灰すら見当たらない。


時ばかりが空しく過ぎて行く。


何時しか日が落ち夕闇が迫って来た。


風は冷たい強い北風に変わり、何処から飛んで来たのか乾いた枯れ葉がカサカサと音を立てて舞っている。



寒い!冷たい!手足が悴んで思うように動かない。


冷たい乾いた風がカネの頬を赤く染め、唇を紫に染めている。


カネは生きるということは、こんなに冷たく、悲しく、乾いたことなんだと思わされた。


辺りは徐々に暗く成り、もう探すのは無理だと思い、立ち上がろとした時だった。



「おい!おめえ達!そこで何やってんだい!」

誰かが柵の外から懐中電灯を照らしている。


カネは思わず、「すみません!探しものを探しています!でも、もう出ます!」と大きな声で答えた。


そして身なりを整えながら懐中電灯の男の居る所へ小走りで走った。


カネが近付くと、懐中電灯の男は驚いたように声を上げた。


「なんだ、おめえ、カネじゃねえか!…おいら随分探したんだぜ!」


「えっ!もしかしてよっちゃん?!」


カネも僅かな街灯の明かりで目の前に写った男の姿と、その声で直ぐに相手が与七であることに気が付いた。


「何、よっちゃん、何時もうちの跡地を見回りしてくれてたの?」


「ちげーよ、たまたま仕事帰りに通りがかっただけでい!」与七は少し照れ臭そうに、また、わざと渋い顔をして言った。


「よっちゃん、以前縁日で満州へ仕事で行くって言ってたけど、何時帰って来たの?」


「去年の暮れなっ…」


「ところでおめえ、なんだその格好は!泥だらけじゃねえか」そう言って笑い出すと、カネも何だか悩んでいるのが馬鹿らしく思えて来て、釣られて笑っていた。


タケも釣られて笑っている。


暫く笑っていたが、与七がふと何かを思い出したように、「ところでおめえ、困っていることがあるならおいらに話してくれねえか?」と真剣な眼差しでカネの顔を覗き込んで来た。


カネは一瞬、何故か、反射的に引いた。


すると、与七は、「なんでい、ガキの頃ままごとをして毎日遊んだ仲じゃねえか!水臭いことは抜きだぜ!」そう言ってモシャモシャの頭をかきながら苦笑いをした。


カネも頼る当てもなく、与七は幼馴染みで、以前、縁日でも助けて貰ったことが有ったので、これまでの経緯を全て正直に話した。


すると与七は舌打ちをして、「そうけい、ひでえ話しだ、おいらも何でこんな柵が出来たのか合点がいかねえと思っていたんだ。よし!分かった!この話し、おいらに一先ず任してくんねえか?!」そう呟くように言い、ひとりで頷きながら、「ところでおめえ達、今晩泊まるあては有るのけぇ?」と心配そうに覗き込んだ。


カネは与七が心配してくれていることがほんの少し嬉しくて、微笑みながら、「今晩はお寺に泊らさせて頂けるように話してあるわ。」と言った。


すると与七は、「そうけい、極楽寺だな?今晩中にまた会いに行くからちょくら待っててくれねえか?」そう言ってカネから不動産屋の住所を書いたメモを受け取るとそそくさと夕闇の街中に消えて行った。



カネは正直、…こんな問題、簡単には解決しないことだと諦め、とにかく今はどうすることも出来ずにお寺に向かった。


途中、冷たい空っ風が泥だらけの二人を攻め立てた。


でも、不思議なことに与七と再会してからは、先程までのような身を切るような冷たさが薄らいだような気がした。


二人は寺に着くと久し振りに会った住職に挨拶をして、風呂を頂き、夕飯を御馳走になった。


そうして暫く皆で話していると寺の門を誰かが叩いた。


小僧が立ち上がって見に行くと外に与七が懐に手を入れた姿で立っていた。


小僧も先程までカネ達の話しに耳を傾けていたので、話しに出て来た与七だろうと直ぐに分かって本堂の二人の居る所に案内した。


与七は二人の顔を見ると少し興奮したように話し出した。



与七が言うには、あれから直ぐに砂町に住む親方の事務所に行って、後輩を二人連れ、自分の寮に戻ってそのまま有楽町の大貫不動産に行ったとの事。


中には何人か強面の大男達がいたが、気にせず丸眼鏡の社長らしき男にカネ達のことを告げて談判をしたと言う。


相手の丸眼鏡の男は最初は取り合おうとはせず、カネ達に言ったように法的に府や市や国から許可と委託を受けてやっていることだと言い張っていたが、与七が、「旦那、先程から法律、法律って言いやすがね、旦那は六法全書を端から端まで全て読んだことが有るんですかい?

六法全書にゃ裏と表が有る事を御存じないんですか?!」と言いながら懐にしのばせていた短い合口をチラリと見せたところ顔色が変わったと言う。


そして、「おっと!おいらに手出しをしても無駄ですぜ!1時間しても戻らない時は親方が警察に垂れ込むっていう手筈に成っているんでぇい!」と大見得を切り、「とにかく役所に行って本当にそんな許可が有ったのかどうか調べさせてもれいやす!」と言ったところ、丸眼鏡の男は少し慌てて後ろに有った金庫を開け、「今面倒を起こされては困る!これで収めてくれ!」と言って二十円札の札束を手渡して来たと言う。


与七は周りにいた大男達に警戒しながら、弟弟子とともに後退りをし、その場を出て来たと言う。


そして付け加えるようにカネ達に、「おいら、一世一代の大見得を切っちまった…最高の大法螺、命懸けのハッタリだったぜ!」と言って、懐から木とブリキで出来た玩具の合口を出して大声でカンラカラカラと豪快に笑った。


そしてカネに深々と頭を下げ、「おいらにゃこんなことしか出来ねえがこれで許してくれねえか?」と言いながら懐から玩具の合口と一緒に取り出した札束をカネの手のひらに乗せた。



「以前のような旗本屋敷を建てるにゃちっと足りねえが、九千円以上は有るから市内の何処かにおめえ達が住める家を建てる位のことは出来るだろう…おめえの御先祖様には申し訳ないが、今のご時世、これがおいらに出来る限界だ」そう言って更に深々と頭を下げた。



カネは手のひらに乗せられた札束を見ながら驚くより涙が込み上げて来て抑えられなく成った。


そして、震える涙声で振り絞るように、「よっちゃん、こんな無茶して、あなたが怪我したり殺されたりしたらどうするの!もうこんな危ないことは止めて頂戴!」そう言うと一頻り泣いた。


与七は困ったような顔をして、「おいら、何か、悪いことしたかい?」と言ってカネの顔を覗き込むと、カネは泣きながら首を横に振った。


暫くして落ち着くと、カネはお寺の床に三つ指をついて頭を下げ、「与七さんどうもありがとうございます。与七さんのお気持ち、大切にします」と言った。


与七は照れ臭そうに、「よせやい、そんなことするない。幼馴染みじゃないけ!」と言ってカネに駆け寄り立たせようとした。


この出来事の真相は当時地権者が亡くなっていたり行方不明であったとしても、東京市や東京府や国が民間の業者に管理や再開発を委託するような事は無く、帝都復興院もカネ達が東京に戻る前、大正13年2月には既に廃止されていた。


つまり、この時期、まだ混乱の収まらない中でカネ達は詐欺に遭って安く土地を奪われたと言う事になる。


カネ達も薄々その事は気付いていた。


しかし、つい最近まで女学生をしていた少女と、遠い外地で送電線を張っていた職人の少年に、この時期、何れだけの事が出来たと言うのだろうか?


カネは後に自分の子供達に、「人を恨まば穴二つ、どんな目に遭っても人を恨んではいけないよ。人を恨んだら必ず自分に返ってくるからね」と良く話して聞かせている。


さて、話しを元に戻そう。


与七はそれから和尚さんの勧めで寺で食事をし、寮に戻ることにした。


外に出て、夜空を見上げると、満天の星が輝き渡ってまるで微笑み掛けているようだ。


カネもそこまで見送ると言って、与七に付いて外に出て来た。


「よっちゃん、あれ、オリオン座!懐かしいね。お正月なんか、良くよっちゃんの家に遊びに行った帰りに送ってくれて一緒に見たよね…」そう夜空を指差しながら与七の斜め後ろを歩いた。


何故か寒さを感じない。


満天の星が本当に何時もより明るく輝きカネにも笑っているように見えた。


暫く歩いてお寺の参道を出た所で急に与七が振り返り真剣な趣で、「あの…、おいらをおめえの婿養子にしてはくれねえか?…」と急に呟くように言った。


そして、ほんの少しの沈黙の後、照れ笑いをし、はにかむように頭を掻きながら、「おいらが近くで守ってやらねえと、おめえ一人にして置くと危なっかしくてなっ…」と、そわそわと落ち着き無く言った。



カネは突然の言葉に一瞬驚いた。



そして、何故か、近くに住んでいた伊藤君のことが脳裏によぎった。


彼は震災前、時々通学中に会って一緒に途中まで歩いたり、浅草の花屋敷やキネマに誘ってくれたりしていた。


父親は海軍のお偉いさんで、自分も中学を卒業したら海軍兵学校へ行くと言っていた。


背も高く、見た目もハンサムな良家の好青年で、正直、カネも僅かに淡い恋心を持っていることを自ら感じていた。


だが、そんな思いも目の前の不器用なプロポーズの前には徐々に薄れて消えて行った…。


そして、冷たい風の中でカネの心を今までに経験したことの無い温かさが覆って行った。


涙が何故か頬を止めなくつたわって行く…。

何時しかカネは小さく頷いていた。



カネにとって、この日の星空はどんな宝石にも勝って人生で最高の輝きを放っていた。




[結婚そして]

やがて荒川の土手に菜の花が咲き乱れ、ひばりが鳴き始める頃、穏やかな日差しの中、ふたりは身内だけの細やかな祝言を上げた。


タケはふたりの晴れ姿を見届けると高齢を理由に故郷に帰って行った。


ふたりは先ず砂町に居を設けた。


砂町は元々漁師が多く住んでいるような所で、この頃も海苔を干している家が彼方此方に有ったが、開発も進み、工場地帯に姿を変えつつあった。


与七の職場や親方の家も砂町に有るし、同僚も多く住んでいる。


ちょっと雑然とした感じの東京の端に有る町だが、これからのふたりにとってはちょうど良い場所だった。


新婚生活は決して薔薇色とは行かず、与七も懸命に働いたが生活は楽なものではなかった。


だが、そんな中、カネはあることを習慣のように毎日行うように成る。


それはカネにとっては自然発生的に日常生活の中でごく普通に出て来たことだった。


カネはご飯が少しでも残ると何時も握り飯にして、街の外れのバラックに住む人や、震災で焼き出され、路上で物乞いしている人達に持っていった。


これは戦中戦後の物の無い時も続けた。


自分の食べ物が十分無い時も続けた。


しかし、決して特別なことをしているとは彼女は思わなかった。


彼女の思いは、震災時に自分も人様に助けて頂いた、そして、目の前には同じように食べ物が無くて困っている人が居るのにほって置くことなど出来ないと言う、人としてごく自然な思いだった。


後にカネが亡くなり、家で葬儀が行われた時、多くの物乞いや乞食と言われている人達が玄関先で泣いていたと言う。


僕の母が中に入って焼香をするように促しても、皆、自分のような者が中に入るなど恐れ多いと言って中には入らず、何時までも外で泣いていたと言う…。




さて、ふたりは子宝に恵まれこの地で八人の子供を設けた。


与七が子供好きであったことも有るが、跡継ぎと成る男の子がなかなか授からなかったことも有る。


また、カネは自分が一人で家を守らなければならなかった苦い経験から、子供は一人でも多い方が良いと思っていたことも有る。


まあ、この時代は何処の家でも子供は多いが、そんなことから子沢山に成ったようだ。


上から、貴子、哲子、節子、清子、八重子、信子、八郎、であるが、その外にも一人赤子の内に亡くなっている。


長女貴子は繊細な性格だったようで戦時下の空襲で精神的に病んでしまい、人生の殆どの時を精神病院の鉄格子の中で過ごしている。


酷い話しだが身内からは本名で呼ばれることもなく、僕が子供の頃、親達が「オバケ」とあだ名で言っていたことしか覚えていない。


だから物心が付いた頃から「オバケのおばちゃん」と言う名前しか知らされていなかった。


時代がまだ精神病患者の人権を守るといった観点が殆ど無い時代だったから致し方無いのかも知れないが、それでは余りに叔母が可哀想に思えてならないので、あえて此処では貴い子、貴子さんと呼ばせて頂く。


そうでなかったら余りにも惨めで浮かばれないと思う。


さて、ここからは子供達や家庭にもスポットを当てて更に話しを進めて行きたい。



※後編に続く。






前書きでこの作品への思いは全て書かせて頂きましたが、応援して下さった皆さん、集中して執筆する時間を許して下さった方々に心から感謝致します。


ありがとうございました。



尚、前後編完成した時点で、改めてお礼をさせて頂きたいと思っています。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ