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このままドライブしないかという誘いを断り、篠原香織は駅前でレゲエマンのラングラーを降りた。なんでも「本物のジープ」だとか、四百万円近くするのだとか。なるほど、ゆったりしたシートの座り心地は悪くないのだが、あの芳香剤は耐え難い。インド産の希少な天然アロマで、リラックス効果抜群という話だが、頭がぼんやりしてくるし、フルボリュームの前衛的なジャズと相まって、たちまち酔ってしまいそうになる。
駅の周辺ばかりの繁華街。ここに熱帯魚を売る店が一件もないせいで、郊外の篠原の店は細々とながらやっていけるのだろう。香織は傘をさし、行き交う人に紛れた。時おり絡みついてくる視線を感じ、ショートパンツはよすべきだったと後悔した。もともと出かける予定などなかったのだ。行くあてもないまま、幾つかの店を冷やかし、次に何気なく覗いたゲームセンターで、見慣れた背中を発見した。
二人の男子生徒は格闘ゲームに夢中で、真後ろに立っている香織に気づかない。カンフー映画じみた奇声を発しながら、中腰になり、壊れんばかりの勢いでレバーやボタンを叩きこんでゆく。原幸太のほうが劣勢とみて、香織は瀬川大介の背中を思いきり叩いた。
「ぐわあああああっ!」
大介の操る学ラン男は、一瞬、棒立ちになったところで、幸太操る弁髪の蹴りをまともに喰らい、地面で三回バウンドして伸びた。一発逆転、ゲームオーバー。よっしゃあああと幸太は叫び、香織とハイタッチを交わした。白眼を剥いたまま、大介が詰め寄ってくる。
「なんちゅうことをしてくれたんだ。お好み焼きを賭けてたんだぞ」
「ふ、敵が常に目の前にいるとは限らぬわ。修行して出直してくるがよい」
「おのれ、牛殺しの篠原倍達……て、暇なのか、おまえ」
ハリネズミのように立てた髪を、大介は指で梳いた。がっしりした体つき。少々魚似だが、すっと通った鼻筋に、くっきりした二重瞼のクラスメイトは、女子の間で高位にランクされていることを、香織は知っていた。学校は違っていたのに、中学生の頃から顔馴染みなのは、かれもまた県大会の常連だったから。「帰宅部」の幸太とつるんでいるところを見ると、珍しく部活は休みらしい。
「なんだかよく判んねえけどよ、この雨で水が濁っちまうんだと。市民の飲料水を確保するために、プールみたいな大量の水の使用はご遠慮くださいだとさ」
「ふうん、それで朝っぱらから、ゲラダヒヒみたいな奇声を発してたんだ」
篠原は何も言っていなかったので、熱帯魚屋はお目こぼしにあっているのだろうか。
「ゲラダヒヒってどんな動物だよ。それにもうすぐ昼だ」
「十一時前だから。でもそう言われると、急にお腹空いてきたなあ。ね、当然私にも、勝者の取り分はあるんだよね」
「黒田官兵衛はあなたでしたか」
森屋デパートが今年にも潰れるという噂は、香織が幼少の頃から耳にしていた。空襲で焼け残ったという、四階建ての古い建物。一階と二階はとっくに閉鎖され、上の三、四階だけが細々と営業していた。ほんとうに、よくこれで潰れないものだと逆に感心するほど。香織もかなり久しぶりに来たのだが、がらんとしたスペースに、ペットや玩具の売り場が残っていることに驚かされた。ペット売り場では、たった一つの水槽にグッピーやネオンテトラやエンゼルフィッシュの稚魚が泳いでおり、一応値札が貼りつけてある様子。こんなところに「ライバル店」があったとは。
「お好み焼き屋なんてあった?」
お子様ランチやメロンソーダのある食堂なら覚えているが、鉄板を見た記憶などない。けれど大介と幸太は勝手知るらしく、薄暗い四階をどんどん突き進んでゆく。瞬いている蛍光灯を見上げて、香織は眉をひそめた。篠原なら二分で取り替えるだろうに。
「なにぼうっとしてんだ。入るぞ」
切れかけた蛍光灯が幻を映し出したように、「お好み焼きHERO」という看板が目に飛び込んできた。ヒロと読むのかヒーローなのかは不明だが、狭い店内を覗けば紛れもなく伝統的なお好み焼き屋のたたずまい。三十代後半くらいの意外に若い「おばちゃん」が一人で営業しているらしく、大介たちを迎える声に、馴染んだ親しみが籠もっていた。
「あら、どっちの彼女?」
「ちげえよ。こいつはただの詐欺師だ」
「あんたたちには、もったいないもんね。ゲラダヒヒとでもデートしてるのがお似合い」
「だから、それはどんな動物なんだよ。おばちゃん、豚玉三つな」
窓際の席につくと、水が運ばれてきた。店には当然のように、かれら以外の客はいない。お品書きには、驚くほど安い値段が並んでいた。ほんとうに、よくこれで潰れないものである。
「この席は眺めが最高にいいんだ。見てみろよ」
大介に促されて、現世的なお品書きから窓の外へ目を移した。へえ、という声がおのずと洩れた。灰色の雨にかすむ街並みの向こうに、遊園地の敷地がまるごと見下ろせた。そのすぐ先には、海が横たわっている。
遊園地はけれど、香織が小学校へ上がる前に閉鎖されていた。かれこれ十年になるのだが、いまだ取り壊されもせず、動きを止めた遊具たちは、いたずらに錆びるに任されていた。けっこう広いのに、なぜか町のどこから見ても、観覧車以外はほとんど隠れてしまう。こんなふうに敷地全体を俯瞰したのは、香織も初めてかもしれない。
水を一気に飲みほして、大介が言う。
「裏野ドリームランドだ。有名なお化け遊園地だよ」