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 篠原の疑問を予測していたように、今泉は言う。

「おそらく篠原さんが思い浮かべたのは成体の、それも単体のマボヤでしょう。私が似ているといったのは、ホヤの幼生なの。大きさは一ミリにも満たないから、こいつとはスケールが桁違いなんだけど、構造はそっくりだわ。オタマジャクシに似て、体幹部、つまり頭ね、それと尾部に分かれているでしょう。イソギンチャクのように固着している成体から放たれたホヤの幼生は、海中を浮遊して拡散する。口のように見える部分に付着突起があり、これで新天地に貼りついて、新たな固着生活を始めることになる」

「食物はとらないのですか」

「幼生の間はね。ちょうど逆立ちする恰好で岩などに貼りついた後は、尾を失い、内部構造が九十度回転して、入水孔と出水孔が上に出てくる。食物は、入水孔から取り入れた海水から、プランクトンを漉して摂取するわ。そのまま成長したものが、鮮魚店に出まわる通称『海のパイナップル』というわけ。でもそういった一匹狼より、自身のクローンを数多く並べてコロニーを形成するほうが、一般的かしら。種にもよるけど、群体性のホヤは血液や皮嚢を共有していたり、一匹一匹がもつ入水孔から取り入れた海水を、共同の出水孔から放出したり。通常、私たちが思い浮かべる『個体』とは、かけ離れた生態をもつわ」

「そうですね。人間に当て嵌めると、なんというか、おぞましい……自身のクローンが、皮膚や肛門を共有したまま、無数に繋がっているわけですから」

 半ば冗談のつもりで口にした自身の言葉が、冒涜的な響きを帯びて篠原の背を貫いた。ぎゅっと、今泉が眉をひそめるのが判った。

「ホヤはクラゲやタコよりもヒト、つまり私たち脊椎動物に近いと言われている。もちろんホヤは骨を持たないんだけど、幼生の間だけ、脊索せきさくという原始的な骨のようなものがあるの。これが泳ぐための尾を支えているのであり、ほかに脊索をもつ動物はナメクジウオ類しかいない」

 魚の先祖として、進化の系統図に必ず顔を出す生き物だ。古代魚という触れこみのアロワナなどよりずっと原始的な、まさに生きた化石であり、ひいては脊椎動物であるヒトは、これの直系の子孫ともみなせるだろう。我々が胎児のとき、この脊索があらわれては、また消えるという。今泉は言葉を継いだ。

「ナメクジウオが一生、脊索を維持するのに対し、ホヤは固着すると間もなく、尾と一緒に脊索もなくしてしまう。代わりに、硬い皮嚢ひのうが体を覆って身を守るのね」

「成長の段階で退化する、ということですか」

「退化、ねえ。私にはどうしても、進化が電磁波のように、直進するだけの現象とは思えないのよ。さっきも言ったけど、ヒトは地上で初めて脊椎を垂直に立てたというだけで、生物界の覇者となった。対して、イルカの先祖は海のより深いところを目指し、魚とそっくりな姿を得た。ヒトとイルカと、どっちがより進化した動物なのか、誰に比べられるというの。平行する様々な選択肢の、ひとつの姿に過ぎないんじゃないかしら」

 同じようなことを、篠原は裕美子から聞いた記憶があった。イルカは人間より、はるかに優れた知能をもつ、といった意味だったか。当時はイルカのトレーナーとして、この動物への愛着がオーバーに表現されたものと解釈していた。けれども最近になって、裕美子はたしかにイルカと「会話していた」のではないかと、思い返すようになった。そうしてこの動物しか知り得ない、広大な海中の情報を得ていたのではないか。だから、

 だから、娘に「洋子」と名をつけることを、執拗に拒んだのだろうか。

 今泉は水槽に目を遣り、また眉をひそめ、顔をそむけた。

「この生き物と同様に、ホヤの幼生も単眼を持つわ。付着するための口も似ているし、尾の中心に覗いているのは、脊索としか思えない。ただ、ナメクジウオだって数センチ程度なのに、二十センチ近くありそうなこの生き物を、半端な脊索が支えきれるとはとても考えられないの。のみならず、クラゲみたいに長時間、浮遊し続けるなんて。言語道断な例えだけれど、私たちは今、重力の影響がまったく異なる次元を、眼前にしているとしか……」

 そのまま彼女は水槽に背を向けると、無言で戸口へ歩み寄った。帰ってしまうのかと案じていると、身を屈め、アジアアロワナを覗きこむ恰好。

「あんなもの、見なければよかったわ。いつもどおりの電車に乗っていたつもりが、分岐器が勝手に切り替わり、いつの間にか異空間に放り出されたような気分よ。信じられない、どうしても信じられない風景が、窓の外にあらわれたような。ね、ちょっとほかの話をしましょう」

 客はまだ一人も訪れていない。土曜日ともなれば、すでに五、六人の常連客でにぎわっている頃だが。篠原は空になったカップをまとめた。

「コーヒー、もう一杯いかがですか」

「いただくわ」

 席を外す前に、六十センチ幅の水槽に目を遣ると、中では相変わらず「どうしても信じられない」生物が身をくねらせていた。熱帯魚のブラックゴーストをちょっと連想したが、あれよりもずっと不可解な泳ぎかた。篠原は少し迷ったあと、水槽に覆いをかけて、バックヤードへ向かった。あらためて湯を沸かしている間、なぜかまた裕美子のことを考えていた。そうして、なぜ香織が急に水泳をやめてしまったのか、今泉なら何か聞いているかもしれないと思いなおした。

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