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 眉間に深く皺を刻んだまま、今泉絵梨子は無言で十五分間、水槽の中を凝視していた。とても話しかけられる状況ではなく、もし何か尋ねたところで、沈黙の壁に弾き返されるだけだろう。篠原はそっと席を外し、コーヒーを煎れて戻ってきたが、銅像にでもなったように、今泉の姿勢は変わっていなかった。

 やがて腹の底から絞り出すような呻き声が、彼女の口から洩れた。

「こいつ、誰が持ってきたのよ」

 魚であれザリガニであれ、いつもなら親愛をこめて「この子」と言う彼女が、「こいつ」呼ばわりしたことに、篠原はまず違和感を覚えた。それは、この生き物の存在自体が、「異変」であることにほかなるまい。

「それがよく判らないんです。フードつきの雨合羽を着ていたし、ほとんど無言で、押しつけるようにバケツを置いて帰ってしまったので」

 陰火のように暗く燃える目が、記憶の底にこびりついていた。そうしてあの「く、りとるりとる」という、発音もままならない言葉が、どうしても解けない呪いのように、まだ辺りに重く漂っている気がした。いつになく、今泉は礼も言わずコーヒーに口をつけた。

「さっき、漁師だと言わなかった?」

「これが網にかかっていたようなことを、言っていましたから」

 水族館では、漁師が魚を持ち込むことは珍しくない。契約を結んでいる場合もあるが、中には個人的な使命感に目覚めた常連がいて、展示の基準に満たないものや、イカ類のように飼育が不可能なものを次々と採ってくるため、館でも持てあましていた。けれども昨夜の男は、そういった気さくな漁師たちとはまったく雰囲気が異なる。そもそも、重病を患っているとしか思えないあの体では、とても漁などできまい。

「漁師には見えませんでしたけど。けっきょく、これはいったい何なのでしょう。魚、ではありませんよね」

「魚じゃないわ。脊椎動物ですらない。じゃあ何なのかと問われると、私にも判らないとしか答えようがない。これが何を意味するのか判る? 私にも判らないということが」

 吐き捨てるようにそう言い、彼女はまた眉間に皺を刻んだ。博士号こそ持たないが、進化多様性生物学の領域で、今泉は学会でも知られていた。斬新でユニークな着眼点の論文は、だいがくの重鎮たちをも唸らせ、在野のレイチェル・カーソンの異名をとる。彼女は言葉を継いだ。

「こんなものは存在しないし、存在してはいけない。ね、篠原さん、この地球上で私たちに最も強い影響を与えているのは何だと思う?」

「さあ……」

「重力よ。私たち生物は、いわば重力の奴隷なの。進化とは、重力への反逆ともいえる。このあまりにも圧倒的な力のもとで、ぐしゃりと押しつぶされ、這いつくばった姿から、殻をもち、骨を作り、気の遠くなるような時間をかけて反抗をこころみてきた。地上に対して、初めて背骨を垂直に突き立てることに成功した人間は、だから、生物界の覇者になれたの。ね、エデンの園で、アダムとイブは蛇から林檎をもらうわね。林檎、とは書いてないけど、絵画ではだいたい林檎が描かれている。私の見解では、林檎を食べる前のアダムとイブはまだ腕を地につけて歩く猿の姿だった。知性だか理性だか知らないけど、日頃私たちをぐしゃぐしゃに悩ませているものは、直立二足歩行の副産物に過ぎないというわけ。ところが」

 一旦、今泉は言葉を切り、残りのコーヒーを飲み干した。

「ところがこの生き物の形態は、重力に真っ向から逆らっている。無視している、と形容したほうが適切かしら。この大きさで、こんな形状をしていたら、泳ぎ回るどころか、たちまちアメーバー状に体が崩れてしまうべきなのよ。むしろ篠原さんが私を驚かせるために、こんな玩具を作ったんだと言われたほうが、まだ信じられるわ。こいつはまるで……」

 ぎゅっと握った拳を、彼女は唇にあてた。最もおぞましい言葉を、みずから封じたように見えた。篠原が、かすれた声で言った。

「地球外生命体、ですか」

「そうじゃない。そういう単に空間的な問題じゃないと思う。もっと、超時空的な、たとえば、昔、私たちの先祖が『神』とみなし、畏れていたものの一部が、忽然とあらわれたような……だめね。適切な表現を探せば探すほど、現実から遠のいてしまう。ただ、これと似た生き物に、心当たりがないわけではないの」

 単眼モノアイを蠢かせ、苦悶するように泳ぐ生き物から、ようやく今泉は目を離した。疲れ切ったような表情が、彼女から日頃の若々しさを剥ぎとっていた。

「これと似た生き物がいるんですか」

 ゆっくりとうなずき、篠原を見つめた彼女の戦慄が、伝染するような気がした。

「ホヤよ」

「えっ」

「海鞘とも書くわ。篠原さんに説明は無用でしょうけど、脊索動物門尾索動物亜門ホヤ網の海産動物。海のパイナップルと呼ばれ養殖もされているから、一般にはそれを思い浮かべるでしょうけど」

 彼女の言うとおり、魚市場でたまに見かける赤い球状の塊を篠原もまず思い浮かべた。硬い表面は無数の疣に覆われ、底部はすぼまり、根っこのようなものさえ生えている。とてもこれが「動物」とは思えないが、よく見ると上部に入水孔と出水孔があるので、海中の岩などに貼りついて、呼吸している生き物だと知れる。

 あらためて水槽の中へ目を遣ったが、今泉が言うような「似た生き物」とは、とても思えなかった。

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