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 白いタンクトップに洗いざらしのジーンズという、どうしようもなくシンプルな恰好。無造作に髪を後ろで一つに束ね、買い物袋を兼ねたトートバッグを提げて、唯一のブランドものは履きつぶす寸前の、ナイキのジョギングシューズばかり。それでも必要最小限の化粧をほどこした目鼻立ちはくっきりとして、上背もあるため、華がないわけでもない。香織の通う高校の教諭で、三十三歳独身。

 今泉は傘をたたむと、店先のアジアアロワナに向かい、架空のスカートをつまんで挨拶している。

「ボンジュール、ジョセフィーヌ。今日もいちだんとお綺麗ですね」

 この古代魚に、篠原がナポレオンの最初の后と同じ名をつけた覚えはまったくないのだが。そもそもアジアアロワナのオス・メスはプロの目にも、まず見分けられない。毎度のことなので無視していると、次の瞬間、水槽の間から突進してくる今泉の姿があった。鼻がぶつかりそうなくらい、篠原に顔を近寄せ、掴みかかるほどの勢いで、

「ちょっと、篠原さん、あれはどういうこと?」

「は?」

「ジョセフィーヌの発色がよくないわ。眼にも疲れが出ているし、何かストレスを与えるようなことをした? 生物教師である私の目は、誤魔化せませんからね」

 必ずしも生物教師がアロワナの発色の変化に敏感であるとは思えなかったが。ただ、おおいに心当たりがあるので、かれは今泉の慧眼に驚かされた。みょうにおずおずした口調で、香織が切りだした。

「私、そろそろ出かけなくちゃ。先生は、どうぞごゆっくり」

「約束があるなんて、聞いてなかったけど」

「そうだっけ。駅前で友達と会うつもり。気が向いたら、映画でもみようかって」

「じゃあ、ボクが送ってってあげるよ」給餌の仕事を放り出して、レゲエマンが言う。「マスター、ついでにアクアモールで荷物を受け取ってくるから」

 二人の姿はすでになく、ラングルーのエンジン音を聴きながら、かれはため息をついた。香織の魂胆は見え透いていた。

(今泉先生と再婚すればいいのに。案外、お似合いだよ)

 レゲエマンのほうは、けれど少しの間だけでも、香織とドライブできるチャンスに飛びついた恰好だろう。スマートフォンで彼女を盗撮してる場面を目にしたこともあるが、あえて咎めなかった。しょせんは気の弱いお坊ちゃんであり、水泳できたえ抜かれたうえ、聡明な娘とのあいだに間違いが起きるとは思えない。

 先程、香織の瞳が、裕美子の眼差しと重なったことを思い出した。この世にないもの。この世には、あってはならぬ存在……あれと同じ視線を、香織も受け継いでいるのだろうか。

(脱がせかたを知ってるの?)

 海での抱擁が、新しい生命を裕美子の身体に注いだ。間もなく二人は結婚し、無事に娘が生まれた。名前をつけるうえで意見が食い違ったのが、そのころ唯一のいさかいらしい諍いといえた。篠原は「洋子」という名前にこだわった。シンプルだが声に出しても文字に書いても美しいし、事実、オーシャンチャイルド、海が生ませた子供なのである。意想外に激しい妻の反発は、だから篠原をうろたえさせた。イルカを愛し、海を愛している裕美子が、「水」に関する名前だけはつけたくないという……

「香織ちゃんはいい子ね。篠原さん、あなたにはもったいないくらい」

 今泉絵梨子は、二人が消えた戸口を見守ったままつぶやいた。

 八つは年下の筈だが、彼女は篠原にほとんど敬語を用いない。店主と客という関係上、不自然ではないけれど、喫茶店の店員などには、決してぞんざいな口調にならないことを知っていた。

「ね、何か面白い、入ってない?」

 トートバッグを傍らに放り出し、彼女は身を乗り出した。タンクトップの胸もとがあやしいが、まったく気にしないのだろう。裕美子にせよ香織にせよ、女性に対して受け身がちな自身を、篠原は苦々しく思う。

 今泉が常連客になって三年ほど経つ。隣のK市からこの陰州いんす町へ赴任して来るのと同時だった。初めて来店した日から、店のたたずまいを一方的に誉め、一方的に居座り、一方的にアロワナの名前をつけた。彼女自身はタンガニーカ湖産シクリッドのファンだが、水棲生物全般に尽きせぬ興味を抱いていた。

 母親のいない香織のことを、何かと気にかけてくれている様子。担任でこそないものの、学校でもよく喋っているらしい。未婚だとか、カレシもいないとか、ありがた迷惑な情報を仕入れてくるのは、もちろん香織だ。二度ほど、娘の罠にはめられた恰好で、デートらしいこともさせられていた。

 少しためらったあと、篠原はこたえた。

「面白いというより、奇妙なものなら」

「奇妙?」

「漁師みたいな男が昨夜、持ち込んだんですが。厳密にいうと、魚でもなさそうなんです」

「魚類じゃない?」

 いかにも気短な性格らしく、歯切れのよくない説明の要点を、彼女は繰り返す。

「ええ。一見、日本のナマズみたいなんですけれど、海産で、眼は変なところに一個しかないし、口は吸盤みたいだし……」

「百聞はなんとやらでしょう。見せてくれる?」

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