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 プールサイドに腰かけた彼女は、バンドウイルカの首を抱くような恰好。何か歌いながら、もう片方の手で、ゆっくりとイルカの背を撫でているようだが、反対側にいる篠原の所まで歌声は届かなかった。どちらかというと小柄なほう。真っ直ぐな長い髪をポニーテールに結んで、臙脂色のウエットスーツには、意外に豊満な曲線が包まれていた。

 不意に彼女は立ち上がり、滑らかなイルカの体が呪縛を解かれたように、するりと水に潜った。ショーの最中でもあるかのように、裕美子は姿勢好く背を伸ばすと、両腕を高く上げ、頭の後ろへ手を回した。身体の線がすべてあらわになり、ほどかれた髪が漆黒の水流のように、細い肩の上にあふれた。

 彼女が飛びこむのと、プールの中央でイルカがジャンプするのとが同時だった。

 篠原はすべてを見ていた。工具を取り落とさなかったのが不思議なほど、裕美子の一挙手一投足に魅された。人魚と行き逢った男は無事では済まないという、お伽話の意味がはじめて判る気がした。この世のものではない、妖しく美しい存在に魂を奪われたのだから。二度と「この世」に帰って来られなくなるのは、理の当然であろう。

 間近で起きた水音に驚いて、今度こそ脚立から落下しそうになった。

「だいじょうぶですか」

 笑みを含んだ声が足下で弾けた。たった今プールから上がってきたばかりの裕美子が、濡れた髪を掻き上げると、飛沫が踊り、虹がきらめいた。

(篠原というのは、整備の若いやつか)

(なんだかもっさりした、暗そうな男だったが。まったく釣り合っていないよな)

(石川嬢は案外、気まぐれという噂だよ。どうせ永くはもたんさ)

 二人で海へ行ったのは、つきあい始めて三ヶ月後だった。一種の肉体労働者なので引き締まってはいたが、まったく日に焼けていない体を篠原は恥じた。

「秘密の場所があるの」

 裕美子は水着ではなく、このときもウエットスーツを着ていた。彼女が先に立って岬の崖を回りこむとき、今にも足を滑らせるのではないかと、はらはらした。デート中に花形を骨折させたとあっては、職場に顔向けできない。ただでさえ嫉妬の集中砲火を浴びて、居心地が悪くなっているのだ。油まみれの整備士が部もわきまえず、水族館の女王を傷ものにしたと責めたてられ、詰め腹を切らされるのみだろう。

 間もなく、とても平らな岩棚に出た。五メートル四方はあるだろうか。あちこちに潮だまりがあり、緑や赤の海藻がちりばめられていた。二人の影に驚いた蟹が、慌ててくぼみに身を潜めた。見上げると崖の途中から張り出した樹木が生い茂っており、上の道路からも覗けそうにない。

「ここにいると、誰にも見られないのよ。潮が満ちてしまうまで」

 篠原の心を読んだように、裕美子が言った。そうして赤面するかれの胸に、いきなり全身を投げかけてきた。吐息と唾液が混じりあい、別の意志をもつ生き物のように、舌が絡みあった。野獣めいた抱擁が解かれると、痛いほど勃起している篠原に、裕美子はわざと肩をすくめてみせた。そうしていくぶん反らした、ウエットスーツの胸の部分を指して言うのだ。

「脱がせかたを知ってるの? 義徳くん」

 間近で覗きこんでいる香織の目に気づいて、篠原はびくりと身を引いた。裕美子の眼差しと、とてもよく似ていた。

「何を考えているの、お父さん」

「べつに、ただぼーっとして……」

「そろそろ店を開けなくちゃまずいんじゃない? また気まぐれ店主がサボってるって、誰かに言われちゃうよ。それにもしかしたら、お客さんの中に、こういう生き物に詳しい人がいるかもね」

 どうやらかれが、謎の生き物について考えこんでいたのだと誤解してくれたらしい。並の従業員みたく、レゲエマンが率先して動く筈もないので、みずから戸口へ向かいかけたところ、「そうだ」という香織の声が響いた。

「ねえねえお父さん、私これを写真に撮って、SNSに流そうか。うん、それが一番手っ取り早いと思うんだ」

「いや、だめだ」

 自分でも驚いたほど強い口調になり、現に香織は不可解そうに目を円くしていた。

「なんで? ネットなら大学教授だって見ているんだし。ものすごく希少な生物だったら、結果的にお父さんだって、儲かっちゃうんじゃないかなあ」

「だからだめなんだ。こういうのはね、香織。あんまり騒ぎ立てないほうがいい。騒ぎ立ててもろくなことはないことを、お父さんは何度も経験しているんだよ」

 詭弁だ、という内なる声が、篠原の良心を疼かせた。本当は拒否した理由など、自分でもまったく判らない。まったく判らないけれど、ただ「そうしてはいけない」気がしたとしか説明できない。香織はけれど、首を傾げながらも納得したらしく、一度取り出したスマートフォンを、デニムのショートパンツのポケットに戻した。

「はいはい判りました、お父さんのお好きなように。せっかく篠原熱帯魚店の売り上げに、貢献してあげようと思ったのにさ」

 ふくれ面の娘を背に、今度こそ戸口へ向かった。磨りガラスの向こうに、薄く人影が映っていた。急いで鍵を回し、いまひとつ滑りのよくない扉を開いた。傘をさし、もう片方の手を腰にあてて、今泉絵梨子が仁王立ちしていた。

「遅い遅い遅い、気まぐれ店主がまたサボってる!」

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