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 全長は二十センチ程度。一見、やはり日本のナマズを想わせるが、実際は頭と尾しかなく、背鰭も胸鰭もないさまは、魚よりもオタマジャクシにずっと近い。ただ、全身が滑らかに連続する蛙の子と違い、この生き物の頭部と尾部では、特徴がまったく異なる。尾部はほとんど透明で、形はオタマジャクシの尾と変わらない。ただ、透けて見える内部は両棲類よりもはるかに単純らしく、内蔵も見えなければ、骨すらなさそうだ。そのかわり助骨のない棒状の芯が入っており、これが我々の脊椎と同様な役目を果たしていると思われた。

 頭部は扁平な球形で方々が角張っており、半ば光を透かす殻のようなもので覆われていた。甲殻類の殻より柔らかいが、尾部との質の違いは明らか。何よりも奇妙なのは、てっぺんに嵌め込まれた単眼モノアイであろう。大きさは麻の実ほどしかないけれど、これが痙攣的に蠢きながら、覗きこむ者を水中から睨み返すさまは、背筋を寒からしめた。

 また前方にかなり目立つ吸盤があり、これが「口」ではあるまいか。巾着状に閉じているので、内部は覗けなかったが。

「きゃっ……」

 日頃めったに悲鳴を上げない娘の声に、篠原はぎょっとさせられた。見れば、胸に手をあてた恰好で蒼ざめていた。

「どうした」

「今これが口を開けたの。蛭みたいに、円い口の内側に沿って、ぎざぎざの歯がびっしりと生えていた」

 声に滲む恐怖が、冗談や軽口でないことを示していた。篠原は水槽に顔を近づけたが、吸盤めいた口はすでに閉ざされていた。その泳ぎかたはいかにも無様で、もし海に放りこまれたら、瞬く間に捕食されるのではあるまいか。金魚のほうがはるかに速く動けるし、身を守る殻や貝もない。

 あまりにも常軌を逸した動きに驚いて、最初は淡水と海水を間違えたのかと疑ったが、雨合羽の男が持ち込んだバケツに残っていたのは、間違いなく海水だった。あるいは、いきなり水質が変わったことによるショックだろうか。おおいにあり得るが、しかし、あの汚らしいバケツに一晩放置されても生きていたのだ。経験豊かな篠原が慎重にセットした水槽の中で、そう簡単にショックを起こすだろうか。結局、観察するうちに、この生き物にはこういう泳ぎかたしかできない、という結論に達した。事実、水槽に移して数時間が経過しても、弱ってくる様子がないばかりか、むしろ活性化しているようにさえ見えた。地球上には存在しない生物が、新しい環境に少しずつ適応してゆくように。

「こいつ、なに食ってんだろうね」

 気のなさそうに、レゲエマンがつぶやいた。かれは熱心な、というより篠原の目には少々病的に映るナマズ類のコレクターだが、ナマズとは似て非なるこの生き物には、まったく食指が動かない様子。そもそも日本人が馴染んでいるずんぐりした体型のナマズは、世界に二四〇〇種以上いるナマズ類の中では少数派に過ぎない。

 餌のことは、むろん篠原も気になっていたが、種を同定できない以上、どうすることもできない。無難な人工飼料をちょっとずつ与えてみる手もあるが、立ち上げたばかりの水槽に餌は投入しないのがセオリーだ。

「水族館の人に聞いてみたら? お父さん、まだそっちの人と繋がりあるんでしょう」

 反射的に眉をひそめたのが、自分でも判った。

 篠原はK市の水族館で裕美子と知り合い、離婚した後に幼い香織を連れて隣接するこの街に越してきた。不意に娘が口にした「水族館」という言葉は、だからかれの胸の癒やしがたい傷に触れずにはおかなかった。

 篠原は飼育係ではなく、整備士として勤めていた。水族館の勤務を希望したのは、少年時代からの熱帯魚好きが高じてのことだが、仕事自体はまったくの裏方。狭くるしいバックヤードや機械室に潜りこみ、配線や配管と格闘する毎日。電球の交換は日常茶飯事で、常にどれかが切れていたし、どこの電球であれ、手さえ塞がっていなければ、報告を受けて十分以内に取り替える手腕を身につけた。

 裕美子はイルカの調教師だった。旧姓は石川。イルカショーではメインの司会もこなす、いわばK水族館の花形であり、事実、彼女目当てに繰り返し足を運ぶファンも少なからずいた。

 同じ水族館に勤めていても、スポットライトを浴びる裕美子と舞台裏の篠原との間に、接点などまったくなさそうに思えた。調教師は一日の大半をイルカとともに過ごすし、整備士は一日じゅう、水槽の魚さえ見ずに終わることもある。仕事柄、全職員による慰安旅行など不可能であり、全員が一堂に会する機会もほとんどない。飼育係も整備士も調教師も、部署ごとのミーティングで一日が始まり、それぞれの役目に忙殺されてその日を終えるのだから。

(あの調教師、美人だよな。石川といったっけ? なんとか飲みに誘えないもんかな)

 裕美子は観客のみならず、男性職員たちも魅していた。

 篠原が初めて裕美子と言葉を交わしたのは、イルカのプール近くで急な配線の故障が生じたとき。修理している位置から、調教中の裕美子を存分に眺めることができた。どういうわけか、そのときプールにいたのは彼女ひとり。しかも通常、調教中はジャージ姿なのだが、まるでショーに出るときのように、裕美子はウエットスーツを着ていた。

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