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「変わったナマズだねえ」
篠原香織は水槽の前で腕を組んだまま、戯画的に眉をひそめた。土曜日の遅い朝である。前線はまだ停滞していたが、昨夜のような土砂降りは小康状態へと移行したのか。霧雨をばらまく薄い雲の上に、時おり日輪が透いては、また隠れた。
学校は休みらしく、彼女は先ほど起きてきたところ。無精な父親の代わりに、日頃、率先して家事をこなしてくれているので、休日の朝寝坊くらいは篠原も大目に見ていた。
高校生になって、なぜ香織が部活動をやめてしまったのか、篠原にはよく判らない。小さな頃から水泳が得意で、中学生の頃は県大会の常連だった実力者。ところが高校に入学したとたん、何の前振りもなく、「私もう泳がないから」と宣言された。
家のことなら大丈夫だから。気を遣わずに好きなことをやればいい。もちろんそれは篠原の本心であったが、香織は首を横に振るばかり。理由を尋ねても「いやになったから」の一点張りだが、たとえ結果に繋がらなくとも投げ出さず、こつこつと努力する娘の性格を知悉しているだけに、篠原にはどうしても解せなかった。娘が首を振るときに垣間見た寂しそうな目も、気にかかっていた。
「いあいあ、逆立ちしたってナマズには見えないっしょ。シノドンティスじゃあるまいし。カアちゃん、試しに逆立ちして見てみなよ」
ドレッドヘアを小刻みに揺らしながら、レゲエマンが茶々を入れた。通常はお昼近くに顔を出すので、今日はいつになく早い「出勤」といえた。篠原親子はおろか、客にすら敬語を用いないが、独特な風貌が「好き勝手に振る舞っても憎めないキャラ」を演出していた。そもそも客たちが、かれを従業員として認識しているかどうかさえ疑わしい。香織は演技らしく、レゲエマンを睨みつけた。
「人をカラスか、英国の怪奇ミステリー作家みたいに呼ぶの、やめてくれます?」
「カアちゃんだって、ボクに変な渾名をつけたじゃないか。ボクはレゲエなんか、ほとんど聴かないんだよ。もっとプリミティブな民族音楽か、あとやっぱりジャズがいいよね」
店のBGMもかれの選曲による。篠原の耳に、ジャズはだいたいどれも同じに聴こえるので、とくに文句はないのだが、ちょっと店番を頼んだ隙に、大音量にされるのには閉口していた。またかれは、自身のコレクションをせっせと焼き増ししては、香織に押しつけていた。聴きやすいバンド音楽が好みの彼女もまた、感想を求められるたび、苦笑いを禁じ得ない状況にあるらしい。
昨夜、雨合羽の男が持ち込んだ「魚」は、六十センチ幅の水槽に入れられ、店の最も奥まった一角に置かれていた。
(捨ててしまおう)
あのとき、汚らしいバケツを眺めたまま繰り返しそう考えたが、その把手に触れることすら躊躇われた。手を近づけたとたん、いきなりその生き物は躍り上がり、指を食いちぎるのではないか。永年、魚と接してきた経験から、あり得ないことだと知りながら、禁忌そのものの前に立たされたように、篠原は一歩も動けずにいた。結局、かれが出した答えは放置することだった。急いで戸締まりをし、水槽の照明を落とし、バケツをその場に置き去りにしたまま、二階へ駆け上がった。
リビングからテレビの音が洩れていた。ドライヤーを使っている香織のパジャマ姿を見たとき、初めて人心地がついた。逆に香織は、篠原の姿に驚愕した様子。具合でも悪いのかと訊かれ、打ち消すのに骨が折れた。おそらくは、死人のように蒼白な顔をしていたのだろう。
疲れ果てていたが、神経が高ぶってよく眠れないまま。浅い眠りの中で繰り返し悪夢にうなされ、その都度、ぎょっと目を覚ました。不定形な夢。目覚めたあとも、漆黒の、どろどろした生き物たちが隙間なく蠢く水の上を、綱渡りしていたような恐ろしさが、重く纏いついていた。ばしゃばしゃと水を叩く音が、記憶の底に残った。明け方近くにようやく悪夢から解放され、いつもより遅い時間にベッドから這い出した。体が重く、咽がからからに渇いていた。
(あいつはとっくに死んだろう)
雨合羽の男は「網にかかった」と言っていたから、そいつは海水魚か、海産の何かに違いない。昨今は河川で網をうつなど希なのだから。もし淡水魚なら、たとえば肺魚のように泥の中でも生きながらえる場合もあるが、海産の魚はいとも簡単に死んでしまう。かれらにとっての陸上は、我々にとっての大気圏外に等しいのだ。
けれども篠原の期待を裏切って、そいつは死んではいなかった。昨夜より幾分か水が済んで見えるバケツの底に、じっと横たわっていたけれど、その姿勢はこの「魚」が正常な状態で生存していることを、はっきりと示していた。地上から闇が払拭されたせいで、恐怖感がだいぶ遠のいた代わりに、好奇心という、あまりにも危険な感情が篠原の内から群雲のようにわいた。
(なんという奇妙な魚だろう……)
覚えずしゃがんで覗きこむと、半透明な頭部の上で、単眼がぎょろりと上を向いた。