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稲妻が走り、来客のシルエットを黒々と浮かび上がらせた。肥った男だ、というのが第一印象。けれども、その肉のつきかたには、何やら病的なところがあった。ふつう、人間は肥れば肥るほど球形に近づくものだが、客のシルエットは、いびつな逆三角形を描いていた。それもボディービルなどで鍛えた肉体とは明らかに異なる、不必要な肉が不本意に体を占拠したのだという印象は拭えなかった。
反射的に浮かべかけた笑顔が凍りついた。「いらっしゃいませ」という言葉は、呑んだ息に押し戻され、乾いた唸り声と化した。客は扉を閉めようともせず、まっすぐ篠原のほうへ近づいてきた。ひどい猫背で、息が荒い。そのうえ、ぬめぬめとした光沢のある雨合羽を頭からすっぽりと被っていた。
全身を引きずるような足取り。一歩歩くごとに、大量の水が全身から滴るさまが不可思議だった。大きな音をたてて、アジアアロワナが尾鰭で水面を叩いたとき、魅入られたように立ち尽くしていた篠原は、この奇怪な客が目の前に突っ立っていることに、ようやく気づいた。
ひっ、と咽が鳴らなかったのは奇跡に等しい。
目を逸らさなかったのは、依然、金縛りに遭ったように自由がきかなかったからだ。雨合羽のフードには透明な覆いがついており、客の顔をほとんど隠していた。それでも野獣じみて蒼く底光りする眼と、かさぶたのようなものでびっしり覆われた皮膚が、無慈悲なインパクトで視界に飛び込んできた。
年齢の推測は困難。ただ青年らしくもなければ、老いさらばえてもいないので、篠原とさほど変わらないようではある。そうしてなぜか、男の陰火のように暗く燃える眼差しに射すくめられていると、ずっと以前に、これと似た目つきと接したことがあるように思えてならなかった。
男の両肩は、高さの違う瘤でも隠しているのか、異様に盛り上がっていた。最も解せなかったのは、客の荒い息づかいが、鼻腔ではなく、たしかに両肩の辺りから洩れてくることだ。それも、しゅうしゅうとざらついた呼気と吸気が、左右の肩で分担されているのだから。
「くぅ、うううう、り、とる、ううう、りと、る、ううううう」
理解の範疇を超えた言葉が、いきなり客の口から溢れた。
ほとんど唇を動かさず、ざらついた息の下、盛り上がった肩を激しく上下させながら。まるでそれは、人間の声帯ではとても発音できない言葉を、無理に絞り出そうとしているかのようだった。はるか昔に滅び去った言語。それも現生人類とは姿形がまったく異なる者たちが用いていた……
「はい?」
尋ね返す篠原の声もまた、ひからびたミイラが発したように響いた。
「めっ、珍しい、いっ、さか、さ、魚が、と、とっ、とれ、た」
先程の一言とは別人のような声を、次に聞いた。やはりどこから発しているのか判らない、わざと不快感を与えるためにコンピューターで合成されたような声だが、少なくとも意味はすんなり通じる。深夜にアナログラジオをいじっていて、ノイズだらけの異国の放送から、いきなり日本語の局へと移行したように。
「魚、ですか?」
「こ、このさかっ、さか、さか、な、魚がっ、あああ、網にか、かかっ、かかって、てっ、いっ、いた」
吃音というよりも、断末魔に近い。死ぬ間際の人間が、意識をなくしたまま口走る譫言のようだ。そう考えて、覚えず男の顔から目を逸らしたとき、右手が握りしめている汚らしいバケツに気づいた。小ぶりなブリキ製で、ほとんど原形をとどめておらず、まるでたった今海底から釣り上げたように、黒く錆びついていた。
僅かに持ち上げられたバケツを、半ば無意識に覗きこんだ。錆が滲んだのか、いやに濁った水の中で、何かが苦悶するように、泳いでいるのが判った。
ナマズだ、と最初に考えた。日本の川に棲む、よく知られた魚とシルエットが似ていたからだ。が、次に襲ってきた強烈な違和感が、まるで警報が鳴るように、そうでないことを告げていた。
そうだ、この生き物は、ナマズなんかじゃない。
この生き物は、こんな所に存在してはいけない「何か」だ。
ごとり。
まるで力尽きたように、男はバケツを床に置いた。黒い波紋の中で、やはりナマズとよく似た尾が突き出されて、沈んだ。びっくりして顔を上げたとき、客はもう背を向けようとしていた。
「ちょっと、待ってください」
しゅうしゅうと荒い息づかいが、呼び止める声を拒絶したように感じた。打ちのめされた思いで、左右に揺れながら遠ざかってゆく背中を、呆然と眺めるしかなかった。戸口の向こう。漆黒の闇の中に男の姿が消える直前、また稲妻が走った。土砂降りの雨音が急に意識の中になだれ込んできたとき、篠原は自身が、大量の汗をかいていることに気づいた。
重い水音が足もとで響いた。絶望した者の姿勢で目を落とすと、黒い、血溜まりを想わせる水の中で、悪意の塊が胎動していた。