表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/16

  1


 日が暮れた後も雨は止まなかった。

 今日で四日、いや、五日経つのだろうか。奇形の龍のような梅雨前線が停滞し、いったい天空のどこに蓄えられるのかと訝るほどの雨量を、連日叩きつけていた。季節柄、あたりまえの現象だとしても、何やら幼少の頃の「梅雨」にはなかった異臭のようなものを、篠原義徳は嗅ぎとっていた。これもいわゆる地球温暖化の影響なのか判らないが、天空に横たわる奇形の龍は、人間に対して明らかに、強い悪意を抱いているように思えた。

 あるいはそれを、殺意と呼び変えてもよいのかもしれないが。

 ぐしゃり。

 稲妻に先導されて、巨大な尾を叩きつけるような雷鳴が轟いた。分厚い黒雲の上で、グロテスクな生き物がのたうち回る姿が、篠原には見える気がした。同時に、停電しなければよいがという、現世的な心配がわいた。熱帯魚店にとって、停電こそが最大の脅威なのだから。

 午後七時半を少し回ったところだ。磨りガラスのドア越しに覗く屋外には、僅かな昼の名残が留まっているようだが、店内には夜がいち早く忍び込み、蒼白く照らされた水槽たちの間を闇で満たしていた。客は一人もおらず、二メートル級の水槽を旋回するレッドアロワナと、何度も目が合った。この見事な古代魚は売り物ではなく、現地ではそうであるように、縁起ものとして店の一番目立つ所に飼っあった。開店してすぐに仕入れたので、もう十五年以上生きていることになる。

 また雷が鳴り、古代魚の目玉がぎょろりと動いた。魚にも個性があって、この深紅のアジアアロワナはあまりものに動じない、おっとりとした性格であるようだ。ところが数日前から、つまりこの長雨が始まってから、みょうに苛々と泳ぎ回っていた。昨夜など真夜中にジャンプして、ガラス蓋にぶつかり、二階で寝ていた篠原がぎょっと目を覚ましたほど、大きな音をたてた。

「もう、閉めてしまおうか」

 わざと口に出してそう言ったのは、陰鬱さに絶えかねたから。レゲエマンがいてくれたらだいぶ気が紛れるのだが、かれは一時間以上前に、七色のジープを運転して帰って行った。レゲエマンというのはもちろん渾名で、篠原の娘がつけたのであり、本名は小俣勝。篠原熱帯魚店唯一の従業員ということになっている。

 三十六歳独身で、働かなくても食うに困らぬ身分らしい。もともと常連客だったのが、数年前から何となく手伝うようになった。一人で店を切り盛りするのは、はやり大変なので、仕入れだ何だと自前のジープで駆け回ってくれるレゲエマンの存在はありがたかった。とはいえ無給というわけにもゆかず、気持ちばかりは示しているが、かれは薄い封筒の中身を確かめもせず、いつも無造作にジーンズのポケットに突っ込んだ。

 ずんぐりした体つき。渾名のとおり、絶滅したヒッピーがドレッドヘアになって蘇ったような風貌をしている。赤い毛糸の帽子もサングラスも口髭も、「従業員」としては如何なものかと思わなくもないが、ボランティア同然に動いてくれている以上、篠原が口を出す権利はどこにも見当たらなかった。

 ぴしゃりと、古代魚が尾鰭で水面を叩く音が響いた。二の腕が粟立っていることに気づいた。

 日中はあれほど蒸し暑かったのに、日が落ちてから急に気温が下がっていた。外からは相変わらず、街を容赦なく打ちのめす雨の音が、こだまを返していた。閉店時間はとくに定めておらず、できる限り遅くまで開けていることにしていた。開けていたからといって、そうそう客が来るものでもないが、子供の頃、夜の動物園や水族館が醸す、夢のような雰囲気が好きだったから。

 娘の香織が店を覗きに来てから、三十分くらい経つだろうか。食事の用意ができたことを告げに現れたのであり、自身は先に済ませた頃かもしれない。とくに言葉は交わさなかったが、いつになく不安げな眼差しがみょうに、心に引っかかっていた。

 彼女が二歳の時に篠原は妻と別れ、ついに再婚しなかった。父親と二人きりの暮らしは何かと寂しかった筈だが、ほとんど表に出さず、よく笑う、明るい子に育ってくれた。今年で十七になった香織とは、アジアアロワナと同じ年月をこの家で重ねたことになる。

 その赤い古代魚は、また篠原を睨みつけて、身を翻したところだ。そういえば、さっきから二階でもの音がしない。一階は店と倉庫で占められているため、台所からそれぞれの寝室まで、居住空間は二階に集約されている。料理しながら踊っていることも珍しくないほど、いつもは何かと音をたてる娘だ。おおかた勉強でもしているのか、またこの雨で大半のもの音は掻き消されるのだろうけれど。濡れた革のベルトのように、彼女が遺していった眼差しが、篠原の胸をきりきりと締めつけ始めていた。

 この雨だ。もう客は来るまい。そう心に決めて、篠原は立ち上がった。

 磨りガラスの扉が、いきなり開いたのはそのとき。

 いつのまにか、外は真っ暗になっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ