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日が暮れた後も雨は止まなかった。
今日で四日、いや、五日経つのだろうか。奇形の龍のような梅雨前線が停滞し、いったい天空のどこに蓄えられるのかと訝るほどの雨量を、連日叩きつけていた。季節柄、あたりまえの現象だとしても、何やら幼少の頃の「梅雨」にはなかった異臭のようなものを、篠原義徳は嗅ぎとっていた。これもいわゆる地球温暖化の影響なのか判らないが、天空に横たわる奇形の龍は、人間に対して明らかに、強い悪意を抱いているように思えた。
あるいはそれを、殺意と呼び変えてもよいのかもしれないが。
ぐしゃり。
稲妻に先導されて、巨大な尾を叩きつけるような雷鳴が轟いた。分厚い黒雲の上で、グロテスクな生き物がのたうち回る姿が、篠原には見える気がした。同時に、停電しなければよいがという、現世的な心配がわいた。熱帯魚店にとって、停電こそが最大の脅威なのだから。
午後七時半を少し回ったところだ。磨りガラスのドア越しに覗く屋外には、僅かな昼の名残が留まっているようだが、店内には夜がいち早く忍び込み、蒼白く照らされた水槽たちの間を闇で満たしていた。客は一人もおらず、二メートル級の水槽を旋回するレッドアロワナと、何度も目が合った。この見事な古代魚は売り物ではなく、現地ではそうであるように、縁起ものとして店の一番目立つ所に飼っあった。開店してすぐに仕入れたので、もう十五年以上生きていることになる。
また雷が鳴り、古代魚の目玉がぎょろりと動いた。魚にも個性があって、この深紅のアジアアロワナはあまりものに動じない、おっとりとした性格であるようだ。ところが数日前から、つまりこの長雨が始まってから、みょうに苛々と泳ぎ回っていた。昨夜など真夜中にジャンプして、ガラス蓋にぶつかり、二階で寝ていた篠原がぎょっと目を覚ましたほど、大きな音をたてた。
「もう、閉めてしまおうか」
わざと口に出してそう言ったのは、陰鬱さに絶えかねたから。レゲエマンがいてくれたらだいぶ気が紛れるのだが、かれは一時間以上前に、七色のジープを運転して帰って行った。レゲエマンというのはもちろん渾名で、篠原の娘がつけたのであり、本名は小俣勝。篠原熱帯魚店唯一の従業員ということになっている。
三十六歳独身で、働かなくても食うに困らぬ身分らしい。もともと常連客だったのが、数年前から何となく手伝うようになった。一人で店を切り盛りするのは、はやり大変なので、仕入れだ何だと自前のジープで駆け回ってくれるレゲエマンの存在はありがたかった。とはいえ無給というわけにもゆかず、気持ちばかりは示しているが、かれは薄い封筒の中身を確かめもせず、いつも無造作にジーンズのポケットに突っ込んだ。
ずんぐりした体つき。渾名のとおり、絶滅したヒッピーがドレッドヘアになって蘇ったような風貌をしている。赤い毛糸の帽子もサングラスも口髭も、「従業員」としては如何なものかと思わなくもないが、ボランティア同然に動いてくれている以上、篠原が口を出す権利はどこにも見当たらなかった。
ぴしゃりと、古代魚が尾鰭で水面を叩く音が響いた。二の腕が粟立っていることに気づいた。
日中はあれほど蒸し暑かったのに、日が落ちてから急に気温が下がっていた。外からは相変わらず、街を容赦なく打ちのめす雨の音が、こだまを返していた。閉店時間はとくに定めておらず、できる限り遅くまで開けていることにしていた。開けていたからといって、そうそう客が来るものでもないが、子供の頃、夜の動物園や水族館が醸す、夢のような雰囲気が好きだったから。
娘の香織が店を覗きに来てから、三十分くらい経つだろうか。食事の用意ができたことを告げに現れたのであり、自身は先に済ませた頃かもしれない。とくに言葉は交わさなかったが、いつになく不安げな眼差しがみょうに、心に引っかかっていた。
彼女が二歳の時に篠原は妻と別れ、ついに再婚しなかった。父親と二人きりの暮らしは何かと寂しかった筈だが、ほとんど表に出さず、よく笑う、明るい子に育ってくれた。今年で十七になった香織とは、アジアアロワナと同じ年月をこの家で重ねたことになる。
その赤い古代魚は、また篠原を睨みつけて、身を翻したところだ。そういえば、さっきから二階でもの音がしない。一階は店と倉庫で占められているため、台所からそれぞれの寝室まで、居住空間は二階に集約されている。料理しながら踊っていることも珍しくないほど、いつもは何かと音をたてる娘だ。おおかた勉強でもしているのか、またこの雨で大半のもの音は掻き消されるのだろうけれど。濡れた革のベルトのように、彼女が遺していった眼差しが、篠原の胸をきりきりと締めつけ始めていた。
この雨だ。もう客は来るまい。そう心に決めて、篠原は立ち上がった。
磨りガラスの扉が、いきなり開いたのはそのとき。
いつのまにか、外は真っ暗になっていた。