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口紅

作者: 香子

下を向くと涙が出そうになる、もう別れて1ヶ月にもなるのに。

否、1ヶ月と7日だ、瞬時に細かい日数が頭に浮かぶ自分自身に舌打ちしたい。

こうやってまた小さく傷つく。


夕暮れの町は、心もとなさを加速させる。

一人でいることに惨めさを感じる、そんなことは失恋するまで思いもしなかったのに。

スーパーの袋とベビーカーを携えた母親、疲れたサラリーマン、イヤホンをしてスマホを無表情に眺める大学生、楽しそうに笑っている制服姿の女の子たち、様々な人とすれ違うたびに、

私は彼らから「暗い顔した女」と思われてるんだろうなと勝手に落ち込む。

自意識過剰なのはわかってる。


風が冷たくて心のみならず体まで冷え切ってしまいそうだ。

ポケットに押し込んだホッカイロを握りしめた。

私を温めてくれるのはカイロだけだな。

きっとまたどんよりした顔をしていると思う。


誰もそんなこと気にも留めてないだろうに。

そうして帰路をぶらぶらとしていて、ふと思った。

駅ビルのショーウインドーの中はもう冬の色だ。

その中のパネルの一つに外国の女優が艶やかに微笑むものがあった、ああ、綺麗。

自信たっぷりに微笑む彼女のくちびるは綺麗な赤に彩られていた。


よし、口紅を買おう、と。

ジョシリョクを回復しよう、と頭に浮かんだ言葉に

口紅くらいで何が変わる?ともう一人の自分が即座に否定する。

女子力って、ねえ?

あなたが振られたのは女子力の問題なの?と鼻で笑われる。


私の心の中の『私』はとても手厳しい、でも実際そうなのだ。

恋愛で失敗したことで内省をすることと、自己を否定することはイコールで結んではならない。

だから私がフラれたといっても、私に価値がないわけではないのだ、たぶん。


多分。


暗澹たる気分で化粧品売り場の店頭に着いた。

春夏秋冬、季節が変わるたびに様々な彩が並ぶ。

といっても夏には涼しげな色が毎年取りざたされるし、

冬にはこっくりと深い色がたくさん並ぶ。

流行り廃りといっても奇抜な色が並ぶことはあまりないし、そういうものなのだろうな、

と、考えて「新製品」と書かれた口紅を手に取った。


金色のパッケージは、蓋の部分が一部透明になっていて中身の色が瞬時に分かるようになっている。

朝の忙しい時にどの色かすぐわかっていいな。

スライド式のボタンで口紅がすぐにくり出せるのもいいな。


「何かお探しですか?すぐにご案内できますよ」

にっこりと微笑んだ女性に声をかけられた。

「はい。これ、色を見てみたいんですけど」

「どうぞ、こちらに」


店の奥に誘われ、ライトの備え付けられた鏡台のカウンターに座る。

この手の店はこの瞬間が辛い、強い光の下で自分の顔と否応なく向き合うことになるからだ。

仕事終わりだし失恋したてだし昨日は夜更かししてしまったし、どんな顔色をしてるかなんて見なくてもわかる。と自然と目を逸らした。見たくない。


「お待たせしました、担当の鈴木です」

どうも、と会釈をすると、

「髪をたばねてもいいですか。前髪も留めますね」

「ケープも失礼します」

「お色はこちらで宜しかったでしょうか?」

小気味よく進められていく。

では、とパレットに出した先ほどの口紅を紅筆に取り、

「失礼します」

と鈴木さんの手が私の頬に添えられた。優しくて温かい。

人に触れられたのは久しぶりだな、などと考えているうちに、

すっすっと筆が私のくちびるをなぞっていく。

「ご自分で馴染ませてもらっていいですか?」と紅を塗り終えた鈴木さんが手振りをして見せた。

私は唇を軽く噛むように「ん~」とすり合わせて紅を馴染ませた。

そして初めて鏡を見る。


「えっ」

思わず声が出た。


びっくりするほど似合っていない!

びっくりして声が出るほど似合っていなかった。

そして顔色も悪い、案の定、どんよりした顔の暗い女がそこにいた。


一瞬の驚愕ののちに、

「ちょっと・・これは似合ってないですね」

と半笑いの声で呟いた。

言った瞬間、こんなことを言われても店員も反応に困るだろうなあと思いつつもあまりに似合っていなかったので思わず声に出てしまったのだ。


「そうですね」


明快な同意が出てきた。なんと正直な鈴木さん。

「やっぱり」

だがしかしあまりの似合わなさに不快さなど感じるわけもなく、笑い出してしまった。

これをもし似合ってるからと売りつけてきたらその店員はただ商品を売ることしか考えていないだろうと、

それくらい似合ってなかった。

鈴木さんは一瞬真面目な顔をして鏡の中の私を見ると、

カウンターの引き出しの中から別の口紅を取り出した。

この死ぬほど似合わない口紅と同じパッケージなので、同じ新商品なのだろう。


「こちらのお色、お試ししても宜しいですか?」

と私に伺う。

「はい、お願します」

こんな似合わない口紅を買うことはないだろうし、今日はとにかく口紅を買いたい気分なのだ、いくつか色をみつくろってもらうのもいいかもしれないと再びカウンターに向き直り、瞼とくちびるを閉じた。

クレンジング液を浸したコットンが合わない紅を落とした。

そして先ほどと同じように紅筆がくちびるをなぞっていく。

筆が離れたタイミングで閉じていた瞼を開けた。


そもそもこんな疲れた顔のときに何を塗っても同じなのかもね、などと後ろ向きなことを思いつつ、

私は瞼を開けた。


「えっ可愛い!」


はっきりと自分の顔を見て思わず出た言葉がこれだった。

「あ、いや、この色が可愛いということで・・・」

別に自分の顔が可愛いとかそういうことじゃなくて、違うの。

もごもごと呟く私に対して鈴木さんは臆することなく、そしてにっこりと笑って、

「はい、可愛いです。お似合いですね」と打てば響く速さで返してくれた。

満足げな顔をしている鈴木さんを見て、人に化粧品を売ることだけではなく選ぶことも上手な人なのだなと尊敬の念を抱いた。


さっきの疲れた顔の女とはちょっと、いや、全然違う女が鏡の中にいた。

色一つでこうも違うか、とびっくりするくらいに。

「他の部分も少しお直ししていいですか?」

という鈴木さんの言葉に頷くと、手際良く品を選び、鏡の中の私と見比べながら鈴木さんの手が動いていく。手品を見ているようで面白いな、などと思っているうちに

「いかがでしょう?」と鈴木さんがブラシを置いた。


鏡の中の私は、いつもより断然垢ぬけて見えた。

さっき見た、似合わない口紅をつけて半笑いしてた生気のない顔の女ではなかった。

唇だけでなく、頬も瞼もきらきらしている。

纏った雰囲気がほんわりと明るく塗り替えられていた。


「わー・・・こんなに変わるんですね」

これが否定的な意味じゃないことは鈴木さんにも伝わってるのは明白だった。

肯定の笑みで頷かれ、

「こちらは新商品で・・・こちらは限定品で・・・」

と説明が続く。助長にならない、簡潔な商品の説明を聞いた私は、

「これとこれを買います」

と口紅だけではなく他の化粧品までも指していた。



ラッシュタイムを抜けた帰りの電車は程よい混雑で、座ったシートの背に深くもたれながら、

私は手に持ったショップバッグを膝の上にのせて「さすがに買いすぎたな」と苦笑する。

口紅だけ買うつもりだったのに結局こんなに買ってしまうとは。

でも全く後悔してない、車窓に映る自分の顔を見てそう思う。

さっきまでの疲れた女が居ない、化粧品くらいで変わるのなら安いもんだ。


そして、「あ」と気付く。

選ばなかった口紅のことを思って。


口紅と私は同じなのだと。


『パッと見ていいなとは思ったけど、実際に付けてみたら気に入らなかった』

『すぐに別の色を試したらそっちのほうが似合って可愛かった』


なんだこれは、私と一緒じゃないか、と笑いだしそうな気分になった。

彼だって、なんとなく合わないと思っただけで

他意、深い感傷も感情もなにもかも、無かったかもしれないじゃないか。


なんとなく合わなかった、

とか

他に似合うものがあった、

というだけで切り捨てることが日常には溢れてる。

お昼ご飯のパンだって来年の手帳だって口紅だって人だって、

しょっちゅう取捨選択しているしされている。

別に前に選んでいたものが悪いとかいいとかそんなことは抜きになんとなく新しくすることなんてしょっちゅうあるじゃないか。


だから。

自分の存在価値やプライドを並べて同列に考えることは不毛だなと思った。

だってあの似合わない口紅だって最初は良い色だと思ったし、私には似合わなかったけどあれが似合う人も絶対にいるのだろう。

でもそんなことに対して私は悩む必要なんかないのだ。

選ばなかったことや選ばれなかったことに意味を見出そうとするのは不毛だ。


もちろん反省することは大事だし、人間関係においては壊れてしまったのならその原因を振り返り、今後に生かすために悪いところがあれば直す心がけは必要だろう。

でも不必要に自分を否定しなくてもいいじゃないか。


少し自分を許せた気がする。

終わってしまったことや、人の気持ちはどうしようもない。

特に、もう終わった恋はどうにもならない。

どうして嫌いになったのなんて聞いたとしてもそれが「本当の理由」とは限らないし、

そんなこと聞いて益々傷つくのは明白だ。

そもそも、どんな理由だとしても失恋において納得なんてできない。

合わない口紅だったと思う強かさがあった方が楽に生きられそうだ。


私が私を嫌いにならなくてもいい。

だってほら似合う口紅があれば可愛くなれる、大丈夫じゃん。

やっとお迎えが来た子供のような顔をしているなと思った。

暗い顔の女はもういない。


私に、おかえりなさいが言える、帰路に着いた。








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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白かったです。失恋という悲しみの描写が儚げで綺麗に描かれている印象をうけました。その後の気づきのシーン、とても大事なことですよね。短編ではありますが、主人公を応援したいと感じました。
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