山猫の傘
夜更け頃からは酷い嵐でした。
平時は深閑として佇む山の森も、今宵ばかりは狂気のように轟々と唸り、暴れ荒ぶ風にひっ掴まれた木々は逆立つかのよう、雷鳴だか、雨音だか、風の音だか、混然として響き渡ります。
その、轟音の中に、
――動物達の叫びも、確かに含まれている。
山猫の傘は、そう思いました。老いて死んだ山毛欅の巨木の虚の中……自身が吹き飛ばされてしまわないよう、かっと爪を樹皮に食い込ませながら……。
ぶるぶると震えつつ、傘は、恐ろしさを紛らわせようと、雷鳴を、一つ、二つと数えていきました。
――これが十に届く頃にはすっかり収まってはくれないだろうか……。
と、祈りました。
がらがら がっしゃん!
十を数え終えてからさらに三つ目が、一際大きく、どこか山から程無い辺りに落ち――と、馬鹿になった耳のせいか、刹那の静寂――そうして続く稲光が、その一刹那を、目の眩むほど照らし付けます。
その中に、傘は恐ろしいものを見ました。
傘のいるすぐ手前、氾濫した濁流さながらに、土も木も草も花も巻き込んで怒涛が流れ、流れ、流れ、その中には見知った動物達の顔ぶれさえ混じってあって……。
――やがてここも危ない……。
意を決し、傘はその場を離れることにしました。
山を降りてさえしまえば、土砂崩れに呑まれる心配はあるまい、と。
また、
どろどろどろ……
と、先刻光った稲妻の轟きが、遅れて傘の耳を脅かしました。
夜目を凝らし、くれぐれも、泥濘に足を取られてはならない、と、用心しいしい爪を立て、傘は走り、走り、やがて……、
「傘!」
ふと聞こえてきた自分を呼ぶ声に、傘は俄に立ち止まり、声の方へと目を凝らします。あっ、と思いました。
青大将の燈だ!
夜闇と雨粒に煙る視界に、ぼんやりと浮かぶ、彼の青白い角質の肌を認めました。
「傘! 頼むよ!」
燈は、土砂の中に突き刺さって辛うじて流れずにいる頼りない枝にしっかと巻きつき、心細そうに、声を上げるのでした。
「助けておくれ……。塒に残された娘らを、救い出そうとして、身を乗り出したら、掴まってた枝が折れっちまって……この通りさ」
それから殆ど泣き出さんばかりになって、傘に、というより神様に頼むように、叫びました。
「ああ、娘らを早く助けないと! 溺れ死んじまうよぉ……」
傘はしばし考えました。
考え、考え、考えたけれども、どうやったって、自分のような小さな身体では燈を助けてやれない、たとえ燈の所までようやっと歩いていけたとして、そのまま二人とも谷底へ浚われるのが落ちだ……。
傘は首を振りました。
無理だ、諦めてくれ、と……。
燈はそれを理解し、自分を今にも捕らえんとする運命を悟り、もういい加減無茶になっていた尾っぽの力も抜いて、ただ、その代わりに、有らぬ限りの力を振り絞った大声で、こう叫びました。
「娘らを頼むよ、傘!」
そうしてたちまち、その叫びも姿ももろとも、本当にそれは一瞬のうちのことでした……真っ黒な怒涛へと吸い込まれ、すぐに見えなくなったのです。
豪雨と風の音だけが、またもや傘の聴覚を支配しました。
濁流の注ぐ先を眺め、しばし呆然としていた傘でしたが、はっと我に返り、燈の娘らのことを思いました。
すぐそこの穴蔵で、どんどん深くなる雨水に、燈の娘らは身を寄せあって怯えているだろう……。けれど……、と傘は思うのです。けれど、自分一人でも助かるかわからないのに、蛇の子など連れて山を下ることなどできようか? いや、それ以前に……
――燈を見捨てた私じゃないか!
仮に燈の娘らが生き残れたとして、と考えました。子らはきっと私を恨むだろう。そう、ならばいっそ、ここで……。
その先を具体的な言葉に思うことはせず、傘は背を向けました。いっかな収まる気配の無い大嵐の夜の山を、それからはただ無心で、駆け抜けてゆきました……。
翌朝、太陽が姿を見せる折には、嵐はすっかり止んでいて、細かい水の粒子をたっぷり含んで北の空には大きな虹がかかる程の快晴で、嘘のように輝く太陽など、そういう光景を、山の麓の民家の脇の厩の中から、傘は白々しい思いで見上げていました。
村の人間たちがわらわらと通りに集まって来て、何やら相談を始める様子でした。壊れた民家やらなにやらの具合を口々に述べ合っています。麓に逃げてきた山の動物たちも、いそいそと身支度をして山に戻ろうとしています。
傘はけれど、山に戻りたい気持ちにはとてもなれませんでした。
傘は燈のことが好きではなかった……、というよりも、憎んでさえいました。なんとなれば、気が弱く友達のいない傘のことを、燈はことあるごとにからかっていたからです……。
――「おい、孤独!」
燈は傘のことをよくそんな風に呼んで笑いました。
それでも、山に戻る気にはなれないのは……。
あのとき、燈は私のことをちゃんと「傘」と名前で呼んだのだと、傘は思い至りました。
嗚呼……。
酷く疲れた気がして、傘は眠りたいと思い、その場に丸まって目を閉じました。
眠りに落ちようかという間際、不意にあの嵐の轟音が耳朶のうちに甦ってきて、はっとして目を開けました。
――耳たぶにあの音がこびりついてしまったのだろうか……。
再び目を閉じると、轟音に加えて、土砂の中で溺れゆく無数の蛇の子らの叫びが、その怖ろしさに歪む顔が、ありありと瞼の裏に浮かび上がって、たまらず飛び起きました。
心臓がばくばくと音を立てるほど、鮮明に描かれた場面でした。本当にその場面が見えていたわけでもないのに……。
嗚呼、嗚呼……。
傘は不安で、落ち着かなくなって、眠ることは諦めてふらふらと当てどなく歩きだしました。
酷く憂鬱で、酷く疲れていたためでしょう。
急に地面を見失って、雨でぬかるんだ畦道を転がり落ち、おいおい、と、どこか他人事のように思いました。
泥だらけになりつつ、
ざぱん!
と飛沫を上げて、気づいたときには用水路の中であっぷあっぷともがいている自分がいるのでした。水嵩の増した用水路は予期せぬ急流で、腕を伸ばしては岸を掴もうとするのですが、泥濘に爪は立たず、空を掻くのみで、その間にもどんどんと流されていってしまって、いつしかもう、もがく気力も無くなって……頭のてっぺんまで、急流の中に沈んでしまうのでした。
傘は薄れゆく意識の中で思います。
――不思議と息苦しくはない。それなのに苦しいのは、どうしてあの哀れな蛇の親子を救ってやれなかったのであろうかという後悔だ……。こんなに儚く、無意味に、誰のためにでもなく散っていく命であったならば、どうして……。
いよいよ霞んでゆく意識の中で、傘は何故か明瞭に響く声を聞きました。
「哀れなる山猫よ、お前が望むのであれば、私はお前に救済を与えよう……しかし私は解らないのだ……それが、如何なる運命を手繰り寄せようとも、哀れなる山猫よ、本当にお前はそれによって救われるのだろうか?」
勿論だと、傘は答えました。私はもうそのためになら何をだって犠牲にしよう、この命でも、喜んで差し出そう――そう、暗闇に沈む最期の意識の中で、答えたのです。
ガラガラガラ!
唐突な雷鳴に傘は目を開け跳ね上がりました。
辺りを見回すと、昨夜とそっくり同じに嵐の真っ只中で、自分は確かに濁流の這いうねる山の森にあるのです。
――そうすると、私は夢を見ていたのだろうか?
それ意外には到底考えられないのでしたが、
「傘!」
ふと聞こえてきた自分を呼ぶ声に……傘は自分でも理由の解らぬ感情に総毛立ち、声の方を振り仰ぐとやはりそこには青大将の燈があって……。
「待っていろ、燈!」
傘はもう考えるのを止めました。
もう無我夢中で、どれほど危険であろうとか、どれほど不安であろうとか、一顧だにせず、濁流が今にもその脚を引っつかんで持っていってしまいそうな際の際まで駆け寄って、燈が辛くも耐え忍んであるところまでずいと腕を伸ばしました。
「掴まれ!」
燈はなんとか体を伸ばし、差し伸べられた傘の腕に掴まります。一層激しく差し迫った濁流が、執拗な生き物みたいに二人に覆いかぶさって浚ってゆこうとします。傘は支えにしていた木の根っこに、爪がほとんど剥がれ落ちるほどの力を込めて耐えようとします。やがて最後の爪も折れ、そうして、自分の体を踏み台に、燈の青白い体が木の根に飛び移るのを見ました。
最後にはっきりと聞き取りました。
「悪く思うなよ、孤独!」
怖ろしい勢いの濁流に呑まれ、地面に叩きつけられ、体は傷付き、肺には泥がどんどんと満ちてゆき、意識は薄れつつあり……しかし、最後に傘は、嗚呼…良かった、と……そう思いながら、散ってゆき……。
嘘のように晴れ渡った翌朝のこと、山の麓の用水路に、塵のようにして浮かんであった脱け殻は、やがて誰かがやって来て、その手が優しく掬い上げるまで、ただただ静かにたゆたってあったのです。