静かな家 - 藤崎という男 ー
久しぶりの投稿作品です。3部作にしてじわりとした恐怖感を作り出したいです。
カン。カン。カン。
どこか遠くで獅子の鐘の音が聞こえていた。
ああ、今日は祭りだったな。
羽毛布団のふわりと軽い暖かさに包まれながら、相田恭介は携帯を手に取った。
「うおっつ、8時5分前だ」
今日は生ゴミ収集の日だった。
パジャマの上にパーカーをかぶり、2個のゴミ袋を掴み走り出す。
幸いにゴミステーションは恭介の住む借家の2軒向こうで、ゴミを出すのに1分とはかからない。
「今日はまだ収集車来ていませんよ」
薄い鶯色の作業着を着た男が声をかけてきた。
「よかった。火曜日にだしそびれて今日出しておかないと、臭うところでしたよ。
だけど、藤崎さんの方はこんな時間にゴミだしするのは珍しいですね」
恭介の住む築40年の借家は同じような6棟の借家が3棟ずつ前後に並んでいて、声をかけてきた男はすぐ隣に夫婦で暮らしていた。
6棟の借家は恭介が勤める不動産会社が所有しており、その内の1棟を管理人がわりに安く恭介を住まわせていた。
だから、恭介は隣に住む藤崎の勤務先も知っていたし、夫婦の状況も他の近所の者よりは知っていた。
藤崎は市職員でゴミ収集車に乗務していた。そのせいか恭介は作業服を着た藤崎の姿しか見たことがない。
何か月前の夏の夜。夫婦連れだって歩いている姿を見かけたが、その時の藤崎は暑いのにスーツ姿で、普通のカジュアル着を持っていないのではと思ったくらいだ。
藤崎は仕事柄か顔も腕も日に焼けて真っ黒で、髪のくせはきつく、ぼさぼさになった様子はまるで鳥の巣を頭にかぶせているように見えた。
反対にその妻はすらりと細見で髪は高く盛り上げ、はらりと耳わきにたらした一筋の長い髪が主婦と呼ぶには憚られる雰囲気をかもしだしていた。
しかし、この妻は藤崎が引っ越してきてもう1年にもなろうかというのに、家に閉じこもっているようで、恭介にしてもこの夏に見かけたのが初めてだった。
職場の話では水商売で知り合った藤崎が、拝み倒して嫁にした。その時に彼女の体調があまり良くなく、家事一般は何もさせないからと約束したらしいと言われていた。
実際藤崎の妻は一歩も家をでることがなく、藤崎が仕事帰りにスーパーの袋を下げて帰ったり、夜洗濯を干していたり、毎日のゴミだしも藤崎がしていることからも、恭介はそうなのかもしれないと思っていた。
夏の暑い日まれに藤崎がゴミをだしている時、入り口の戸が開けたままの時があった。
そんな時、時折色鮮やかな薄いガウン風の部屋着を着て室内を横切る妻の姿を垣間見ることがあった。そのはでな姿に似つかわしくない、築40年の借家と作業着の夫。そして、水商売風に装いながらどことなくさびしげな少女のような表情の妻。恭介は隣に住む夫婦に好奇心を感じながらも、独身男と家族持ち。挨拶を交わす程度の付き合いにとどめていた。
「今日は、ちょっと病院に行こうかと思って会社を休んだんで、ゆっくりゴミを出していたんですよ」
藤崎ははにかんだように言った。
「そうですか。僕も今日は休みなのですよ。今日はお祭りだから、会社から地元の獅子に花代をことづけるように言われていまして。僕はもう一度寝なおします。体気をつけてくださいね」
その言葉どおりに恭介はまた眠りにつき、次に目覚めたのは来訪者の激しいブザーの音であった。
「隣の者です」
玄関戸をあけるやいなや初老の婦人がまくしたてた。なるほど藤崎の妻が横で青い顔をして立っていた。
面差しが似ているのでおそらく母親であろうと恭介は思った。
「実は娘の夫が家を出たようなのです。遺書があって・・・。私達は今から心当たりを探しに行きます。もし、こちらに帰ったら、ひきとめておいてください」
恭介の返事もまたず、二人はあわただしく出て行った。思わずその姿を目で追ったが、藤崎の妻があわてた様子で走ってタクシーに乗り込んでいた。髪は乱れ、服装も組み合わせがちぐはぐで、恭介には妻の取り乱した姿がとても意外に思われ又印象に残った。
念のため会社に連絡を入れ、少しばたばたとした後服を着て、インスタントコーヒーを入れてから恭介は遅い朝昼兼用の昼食を食べ始めた。
熱いコーヒーを一口すする。全く素の自分の瞬間に突然に藤崎の真っ黒な顔が思い出される。
「藤崎さん、何があったんだ」
今朝病院に行くと言っていたが、結果が悪かったのか。もう少し突っ込んで聞いてあげればよかったと思ったが、その先に思考を繋ぐことも、藤崎のために何かしてやれることもなかった。ただ、今日はずっと玄関をあけていようと思って、また一口一口とコーヒーをすすった。
夕方近くになって携帯の電話が鳴った。警察からだと名乗られた。職業がら、電話の向こうの相手には常に警戒しているが、自分が登録してある警察署の電話番号が表示されていたし、藤崎さんの件だなと思い話を続けた。
「家出人捜索願いを受理しております。それで、奥様の方に何度かお電話しているのですが、繋がらなくて。今、藤崎さんの家は施錠されているのでしょうか」
「はい。たぶん。先ほど、もし藤崎さんが戻られたらよろしく頼むと言って奥様は出て行かれたから。僕はこの6棟の戸建ての管理人みたいなこともしていて、全戸の合鍵を預かっているので、頼まれたわけです」
「相田さん、警察は奥様の了承もなしに家をあけることができないのです。管理者の立場で一度藤崎さんの家の確認をしていただけないでしょうか」
「鍵を開けろということですね。いいですよ。でも、当然警察の方も一緒ですよね」
「いや、今の時点でわれわれが一緒というのは難しいのです。できれば管理会社の判断ででお願いしたいのです」
歯切れの悪い警察の言葉だった。警察はもしかしたらまだ藤崎さんが部屋にいることを想像しているのだろうか。生死の別、その死の状況を別にして。
「では、会社に相談してから又ご報告させていただきます」
上司への電話はなかなか繋がらなかった。ようやく繋がった時にはすでに日が落ちようとしていた。
「もう一度、奥さんに電話をしてから家の鍵をあけよう。あの夫婦は保証会社を利用しての契約だから、奥さん以外の連絡方法がないんだ。奥さんの母親はいるが、何か事情があるのか緊急連絡先にも名前は書かれていないんだ」
藤崎さんの電話も奥さんの電話も繋がらなかった。
「入るしかないか。誰か一人一緒に入ってくれる人をせめて呼んでほしかったよ」
恭介は靴箱の中にずらりとかけられた鍵の一つを手に取った。
間取りは6戸ともすべて同じだ。古いガラス戸の開きの玄関。靴箱の上に玄関の電灯スイッチ。室内は薄暗かったが、何故かスイッチを入れようとは思わなかった。自分の指紋が残るのは最小限にとどめたかった。
靴箱に入りきらずにプラスチックの靴棚が置かれてあった。高価そうな高いヒール。色とりどりの飾りのあるサンダルが置かれていた。玄関先にも豪華な靴が取り乱れて散乱していた。藤崎の妻がよほどあわてていたのだろう様子が見てとれた。しかし、女物ばかりだ。藤崎さんの靴はと思いよく見てみると玄関先にある傘立ての横に黒く薄汚れた青っぽいスニーカーが1足だけあった。
「まずは一階から」
恭介は声をだして口にした。薄暗い静寂が自分に壁となってのしかかってくるような気がした。
半畳の玄関をあがると、右手にはトイレがある。築40年で借りても低予算の者しかないので、水洗ではあるが、トイレは和式のままだ。
「大丈夫トイレでは首をつっていない」
トイレの小窓は道に面しており、人影のなかったことはこの家に入る前から確認してある。
けれど、手首を切ってうずくまっていることもあるだろう。
トイレのドアをひねったが、きれいに掃除がされていると思う以外何の異変もなかった。
玄関から6畳の和室に入る。3畳の板の間台所に続く和室だ。
部屋の隅には化粧台が置かれている。昔の映画で見たような気がする円筒形の椅子や、こちらは恭介でも知っているカラフルな図形のブランドの化粧箱がいくつかあった。
化粧台の横には取り付けハンガーがあり、幾つかの洋服が吊られてあった。いつかの夏に見た薄いガウンもあった。薄暗い室内ににつかわしくない大輪の花模様のガウンは、かえって静寂を募らせるような気がした。
「問題は押入れだ」
又、恭介は声をだす。
古い襖のカンに手を添えたまま恭介はたじろいでいた。こんなところでは首は吊れない。けれど、もし服毒自殺をしていたら。
他人の家、日も陰った部屋で電気もつけず恭介は身動きもできなかった。けれど、このままでは真っ暗になってしまう。
思い切りに襖をあけた。2段の押入れの下段には布団があり、上段には藤崎さんのであろう作業着がいくつかと、古い鞄の大きいのやら、小さいのやらがいくつか見えた。
恭介は大きく息をはきながら、「やってられんな」とつぶやく。
台所は一目瞭然で問題がない。次は台所横の風呂場だ。風呂は一人用の浴槽で正方形の形をした小さいものだが、洗い場は十分なスペースがあった。
部屋の中で一番薄暗い。しかし、風呂場の換気窓は後ろの3棟に面しており、そこから、後ろの家々の生活音が響いてきていた。
「よし」
小さく気合いを入れ恭介はすりガラスの戸を開けた。ガラッと響く音が部屋にこだまするよう気がした。
何もいなかった。
「当然だ。いたら怖いだろう」
一人で突っ込む。
昔の狭い家だ。次はトイレの対面にかけられた階段を上って2階だ。トイレ前から恭介は階段を見上げた。昔の借家は階段の急なものが多い。この6戸の家の階段も急だった。ほぼ日も落ち、暗い薄闇が拡がっていた。
恭介は足を踏みあげた。1歩2歩3歩。そして後数段で2階の和室2間が目に入る手前で動けなくなった。
どうするんだ。どうするんだ。もし、もし、そこに居たら。そこに居ないかもしれない。けれど、全身が怖気だつというのか、心がくじけているというのか、恭介は上りきらず、階段を降りた。
独り言一つ口にせず、黙々と藤崎家の鍵をかけ、自分の部屋に戻り、普段着のまま布団に滑り込んだ。
布団はまだほんのりとぬくみがあった。傍らのテレビリモコンのスイッチを取り、お笑い番組に替わるまでチャンネルを切り替えた。少し尿意を感じたが、今は行きたくなかった。
2時間3時間とぼんやりとすごし、ようやくトイレに行き用をたした。
そして、その時初めて今はどこでどうなっているのかわからない藤崎さんに心の中で声をかけた。
「藤崎さん、奥さんあわててたよ。帰ってこいよ。今日は祭りじゃないか」
翌日は上司と顔を合わすこともなく、出勤してすぐに予定されていた仕事先に向かい、会社に帰ったのはもう夕方過ぎだった。
「おう、相田帰ったか。昨日はすまんな。藤崎さん、まだ、見つからないらしい。先ほど奥さんのお母さんから連絡があったよ。今月いっぱいであの家を退去するそうだ」
「えっ、藤崎さんが帰ってくるかもしれないのに」
恭介は思わず声を大きくした。
「たぶん、どこかで自殺しているだろうって。母親いわく藤崎さんが生きていたら娘を放っておくはずがないとさ。娘の体調もよくないから、自分がすんでいるアパートで一緒に暮らすんだと」
「そうですか」
恭介は自分のデスクに帰りながら、昨日の藤崎さんの部屋を思い出していた。
「じゃ、2階はやはりどうということはなかったんだな。子供みたいに怖がってばかみたいだったな。しかし、あの時は普通じゃなく怖かったんだ。」
心の中で言い訳をしながら、再び部屋の様子の記憶を反芻する。
「生活感のない家だった。藤崎さんがいない家だった」
「でもな、藤崎さん。奥さん、サンダルをあちこちに飛ばしてたんだよ。どんな事情があったのかは知らないが、死ぬには早い。あきらめるのは早かったんだ」
後日の話になるが、藤崎さんは近くの山の中で首をつって自殺をしているのを発見されたそうだ。それ以外の話は何も聞こえていないが、実は上司に言ってない話が一つある。自分が臆病風に吹かれて2階を探さなかったことではなく、警察からのあの電話だ。
恭介が管理会社として藤崎さんの部屋に入ってくれと言われた電話を警察はそんな電話はかけていないという。恭介の電話の着歴に残っている警察署の電話番号。しかし、恭介が話した担当警察官曰く自分達は末尾110番の電話は使っていない。それぞれのデスクにある個別の電話番号を使用すると。今後もしこのようなケースがあった場合は必ず2人以上で入室してほしいと言われたのだ。
「藤崎さん、あんた俺に自分の事見届けてほしかったんだろう」
恭介はかって藤崎さんが住んでいた家の前を通るたびに少し、胸がシンとする。