03 ―― ふるさとは遠きにありて思ふもの
勢い良く現れだした蜘蛛たち。
小さい奴でも人の腰丈までありそうな大きさがある。
アラクネは居ないが、その数は脅威だ。
脅威となる数が居ると言うべきか。
それらが前足を大きく振って威嚇行動をしてくる。
ここは自分たちのテリトリーだ! とでも言うつもりなのだろう。
その姿にビスノスカは息を飲んだ。
黒と黄色を基調とした警戒色の毛に包まれた前足が四方八方で振られ、威嚇されているのだ。
威嚇の声を上げてこないとはいえ、否、無音であるからこその迫力がそこにはあった。
対して男は、蜘蛛たちへの警戒を緩めないままに周囲に視線を走らせ、それからビスノスカを小さく呼ぶ。
「お嬢さん ―― 」
呼ばれたビスノスカは、呆然とする事なく男を見る。
すると、視線を合わせる事なく問われた。
動けるか、と。
男の言葉にビスノスカは、疑問などを抱かず素直に従う。
この世界で少なからぬ荒事を経験してきていた為、問うべき時と動くべき時との分別がついているのだった。
パッと見て体中、特に重要な脚に外傷は見られない。
痛みこそ体の何処其処から感じられるが、それが逆に体が無事だと教えてくれているのだとビスノスカは認識していた。
殴られ蹴られ、或いは魔物に殺されたりしてきたのだ。
と、嫌な言葉を思い出した。
“痛みを感じてるウチは死なねぇんだよ”
耳の奥に再生された言葉が嫌なのではない。
言った相手が嫌なのだ。
人がどれ程に恐ろしいのか、残酷なのか、無常なのかをビスノスカに文字通り叩き込んだ相手を。
恐ろしい目つき、声色。
身がすくみ、叱られた時のように視線が自然と下がる。
自分の格好を見た。
白い肌、なだらかな膨らみ、可愛いおへそ、そしてその下 ―― 手足は服の残骸が残って隠れている分、ある意味で素っ裸よりも扇情的な姿になっている。
その事を知覚した瞬間、全ての感情が吹き飛んだ。
「○×#$%&!?」
言葉に出来ない叫びと共に、反射的に身を丸めるビスノスカ。
手足に残った布切れを必死に掴む。
羞恥心が顔を真っ赤にする。
ビスノスカの突然の痴態。
だが思考の全てをこれからの状況に振り向けていた男は、その理由に思いをはせない。気付かない。
故に、淡々と問うた。
「どうした、動けないのか」
否。
その言葉は問いかけではない。
何故なら返事を聞く積もりが無かったのだから。
「動けるけど動けない!」
か細い、悲鳴のような声は乙女の羞恥心の発露か。
だが現実は非情である。
「判った、任せろ」
「ゑ?」
返事を聞くよりも先に、男はKEL-TECをスリングを手繰るようにして背負うやいなや、ビスノスカを抱き上げた。
お姫様抱っこだ。
より楽に人を運べる肩担ぎでは無い辺り、ある意味でデリカシーに配慮したと言えるかもしれない。
とはいえ、抱えられたビスノスカにとってはそれどころではなかったが。
「なっ、ななななななっ!?」
破廉恥と言われて納得しそうな姿で他人と、それも男性に抱かれているという事にビスノスカの脳みそは一瞬でオーバーフロー。周囲の状況も忘れたかの様に身悶える。
離れたい、隠れたい。
乙女の願い。
だが現実は過酷である。
ビスノスカが如何に身を動かそうとしても体は男の側から動かない。
それどころか益々、力強く抱きしめられ、動けなくなる。
小柄とはいえ女性一人の力を抑えられる膂力は、それが左手一本でなされている辺り、凄まじいと言えるだろう。
「安心しろ、しっかり支えてやる」
とはいえ力は強くともビスノスカの動きの意味を“体の不安定さへの怖さ”などと誤解した辺り、肉体面以外での精進は必須の模様であったが。
そんな2人をよそに蜘蛛たちは威嚇を続けながら少しづつ近づいてくる。
数を生かす様に半包囲から包囲へ。
対して男は右手で腰のポーチから珈琲缶サイズのものを1つ引き出す。
白い塗装のされたソレは、ドワーフ特製の煙幕手榴弾だ。
白煙は視界を閉ざのみならず赤外線から魔力までもを誤魔化す事が出来るという優れものだ。
「目を閉じてろよ」
その安全ピンを男は銜えて抜くと、一番密集している辺りに放り込む。
空気音。
閃光は無いが、煙の成分が慣れてない人間には辛いのだ。
ビスノスカは慌てて目閉じて手で押さえる。
ついでに大きく息を吸って、止めた。
空気でぷっくりと膨れた頬が子供らしく、可愛らしい。
対して煙幕手榴弾を放り込まれた蜘蛛の側は正に対極、阿鼻叫喚の有様である。
噴出す煙と、その煙を作り出す為と思しき火柱が円筒状のボディの何処其処から噴き出し、近くの蜘蛛を焼いているのだ。
声無き悲鳴を上げて逃げ惑いだす。
ナリは大きくとも所詮は虫、逆襲に実に弱い。
そこへ男は殴りこむ。
小柄な蜘蛛はブーツで踏み潰し、やや大きめな相手にはレッグホルスターから引っこ抜いた拳銃 ―― Jericho 941Lを放つ。
弾倉に装填されていたのは9mmホローポイント弾、如何にハイ・ドワーフ謹製とはいえ只の対生物弾であり魔獣にダメージを与えるには辛いが、相手は低位の魔物である蜘蛛なのだ。
必要十分な破壊力を発揮していた。
火に煙に、そして銃弾によって逃げ惑う蜘蛛たち。
そこへ容赦なく拳銃をぶっ放し蹂躙する。
とってもイイ笑顔だ。
笑顔のままに駆ける、駆け抜ける脱出行だ。
「わっ、わわわ」
単語ですらない、単音の羅列。
戦闘行動をしながら走り、跳ねる男に抱えられているビスノスカは大いに揺れる。
だから男にしがみ付く。
自分の行動に赤面して手の力が弱まる。
揺れる。
だから思わず男にしがみ付く。
何という円環の連鎖、だが状況はビスノスカを酌量しない。
「キキキキキィ!!」
甲高い咆哮が響く。
アラクネだ。
白煙の向こうに見えたその姿は、ビスノスカを襲っていた個体よりも更に大きく、そして上半身は筋肉質っぽい。
アラクネと蜘蛛は共生関係にあるのか、或いはアラクネの子供が蜘蛛なのか。
一気に駆け込んでくる。
だが男は悩むことも無く瞬時に拳銃で狙いをつける。
左身、抱えるビスノスカを隠し、拳銃を突きつけるようにすると、取りあえずとばかりに2発、連射する。
弾丸が誤る事無くアラクネの顔を撃つ。
血の花が咲く。
脚を止め、苦悶に身を震わせる。
だが致命傷にはならなかった。
顔面に命中したとはいえ所詮は対人対魔物用の通常弾。魔獣として上位側に居るアラクネ、その魔力防壁を貫いて仕留めるには至らない。
傷ついた怒りを突進力に変え、男に迫る。
その素早さは、男から武器を交換する時間を奪う。
「なろっ!」
更に連射。
その悉くが頭部から上半身に掛けて命中するがダメージは通らない。
更に連射。
より狙って顔や目に集中させるが、血を流し苦悶するが脚は止まらない。
乾いた金属音。
ホールドオープン、拳銃を撃ちつくしたのだ。
そして、距離がゼロになる。
素手のアラクネ、だが振りぬかれた拳は風を切り ―― 砕いて男を襲う。
バックステップで避ける。
避けきれない。
蜘蛛の脚が人の脚よりも早い。
アラクネの拳が男を捉えた。
否。
アラクネの拳が男の拳によって迎撃されたのだ。
「あぁっ!」
「ギィッ!!」
2撃目も拳と拳が中る。
夜叉の様に顔を歪ませるアラクネと、口を歪めて獣のように嗤う男の、脚を止めてのド衝き合い。
だが3撃目は無かった。
「あっ!」
男の足元が崩れたのだ。
それまで目を閉じて必死になって男に縋っていたビスノスカは浮遊感に身を竦ませた。
男と共に、その身は漆黒の闇の中に。
「えっ? きゃーーーーっ!!」
悲鳴。
そして水音。
パチパチと爆ぜる音。
木が燃える匂い。
仄かな暖かさ。
それらをビスノスカは心地よいと感じていた。
家族と行った保養地で体験した暖炉、煉瓦でくみ上げられたその前でピェーチと共に母親の歌を聞いた事を思い出す。
フカフカのカーペットに座って、真っ白なピェーチはその名の通り母様の歌が大好きで。
と、ビスノスカは抱きついているビェーチの抱き心地が違う事に気付いた。
あったかいのは何時もと一緒だが、何だかとっても硬い。
さすって見ると毛が無い。
「ビェーチ?」
名前を呼ぶ。
だが帰ってきたのは鳴声ではなく言葉だった。
「起きたのか」
低い、優しい響きを持った声。
そこでビスノスカの意識は夢から現実へと切り替わった。
懐かしく優しい世界から、新しく厳しい世界へ。
「あっ」
飛び込んできたのは知らない男の顔、それも至近距離だ。
誰! と誰何を叫ぶよりも先に体が萎縮して縮こまってしまったのは、この世界での経験ゆえにだろうか。
「どこか痛かったか? 回復札を使ってはいるが、痛いところがあったら教えてくれ」
「あ、いえ、大丈夫デス」
至近距離から労う様に言われて、思わず片言に言ってしまうビスノスカ。
と、そこで自分の状況に気付いた。
ポンチョっぽいものを着て、男に抱きしめられているという状況に。
直ぐ側には川、そして焚き火があり、その周辺には遠火で乾かしているのであろう装備の数々があった。
幾つもの銃や剣といった武器、そして防具に魔道具。その他に靴やグローブ、そして服などの日常品もある。
と、何故か気になってビスノスカはマジマジと服を見た。
安っぽい生地で出来ている事が判るそれはビスノスカが着ていた、そして今や服というよりも生地と呼ぶのが正しい様な切り裂かれた残骸。
その他に目立つのは白っぽい靴下とパンツ。
切り裂かれたパンツ。
かつてパンツであったもの。
「!!!!!!!」
慌ててポンチョの中を確認する。
真っ裸だ。
沸騰した。
身を隠すように身を丸めて座り込む。
耳まで真っ赤になる。
何かを言おうとするが、あうあうと言葉にならずに音が出る始末だ。
「恥ずかしがらせるとは思ったが、濡れたままだと危ないんで、な」
誠心誠意という按配で言葉を操るサムライに、ビスノスカは、まだ頬を赤らめたままながらも頷く。
低体温で気を失っているリスクは高い。
その事を理解はするのだ。
羞恥心は別として。
「・・・・・・見ました?」
「すまん」
というよりも、見ていない筈が無いのだ。
でなければ脱ぐはまだしも、ポンチョを着せる事は出来ないのだかから。
と、そこで気付く。
「さっ、触りましたね?」
疑問というよりも確認の言葉。
故に返事も、予想通りのものとなる。
「すまん、必要最小限だが__ 」
最小限にという部分にサムライの誠意とか、そんな気分を感じたビスノスカだが、本心赤心の部分ではそれどころではない。
ナイーブ溢れる心は、その羞恥心故にビスノスカの顔を炙る。
それどころか、火が顔から吹き出るような感じになり、慌てて腕で顔を隠す。
緑のポンチョを着たビスノスカは、緑の玉となった。
「うぅ・・うう・・うぅ・・・・・」
乙女の可愛い呻きに、サムライは掛ける言葉が無い。
何とも言い難い沈黙。
故に、男は焚き火に薬缶を掛けて飲み物の準備を始める。
少女を慰めるのは、原因であるのでどうに言葉を選びづらいし、かといって、白かっただの綺麗だのと褒めるのは論外だしと考えた所で、気分転換は必要だと判断したのだ。
男とて木石あらざる身。
乙女の柔肌を見たことも触ったことも役得だったという認識が無い訳ではなかったが、スケベ心よりは身を案じる気分が先にあった為、冷静であったのだ。
そもそも、売春宿で遊んだりもしているのだ。
初心なネンネじゃあるまいし、女性の肌を見て触った程度でどうこうなる筈もなかった。
それが、年端もいかない少女であれば尚更に。
ひとしきり呻かせ、そして少しばかり疲れが出た頃合を見計らって声を掛ける。
「喉も渇いただろ、飲まないか?」
そっと差し出されたマグカップ。
金属製っぽいソレに注がれているのは真っ黒な液体、珈琲だ。
両手で受け、抱きこむ様に口の前で持つ。
手から伝わってくる温もりが、ビスノスカに癒しをあたえている。
優しい静けさ。
男も側で小さな鍋を啜っている。
此方は上半身裸で、下だけスッパツという姿だ。
盛り上がった筋肉と傷の数々が、男が歴戦の戦士である事を教えている。
ゆっくりと珈琲を飲む。
熱いからではない。頭を冷やす為にだ。
真っ裸にされた理由も、冷静に考えれば判る。
破れた服を着てずぶ濡れで、しかも意識を失っていたのだ、体を温める為にも濡れた服を剥ぐのは当然の流れだったのだろう。
太ももの上に座らせ、抱き込んでいたのも失われた体温を取り戻させようという心遣いなのだ。
その上で、自分も濡れて上半身裸だったにも関わらず、ビスノスカが女性である事を慮ってポンチョを与えてくれていたのだ。
これで羞恥心がとか言う事は人の道に反する ―― そんな分別くさいことをビスノスカは考えた。
先ずは感謝をしよう。
考えが纏まった事もあり、珈琲を飲みきり、深呼吸をする。
そんなビスノスカの様子を見て、男がゆっくりと話しかけた。
「改めて、初めまして。だな」
「はい。助けて頂き、有難う御座います」
深々と頭を下げたビスノスカに、男は笑って返した。
どういたしまして、と。
笑うと本当に愛嬌を見せるその顔をみて、ふと、思い出した。
まだ名乗りあってすら居ない事を。
「では改めて申し上げます、私の名前は __ 」
そこまで言った所で、ビスノスカは言葉を言えなくなった。
名前。
雀斑なんて蔑称染みた名前じゃなく、本当の名前「 」を口にしようとするが、言えない。
奪われた名前、再認識した現実にビスノスカは泣きそうになりながら白くほっそりとした首にはまった、余りにも不似合いな黒い首輪を掴む。
俯く。
その頭に男がそっと手を置く。
「隷属の首輪だな、状況は大体判る」
ビスノスカの首に掛けられた隷属の首輪とは、契約によって名を縛り、それによって相手を魔法の支配下に置く魔道具だ。
これをはめられてしまうと根の民や魔物はまだしも、Cや魔獣の様な肉体と魔力で体を構成している存在は完全に縛られる事になるのだ。
先の、探し屋の男たちがビスノスカ達を道具と呼んでいたのは、そんな理由だった。
ビスノスカやウィンドは、そんな男たちを雇った情報屋の持ち物だった。
探し屋に貸し出され、共に動き、そこで得た情報を逐一情報屋に上げ、又、仮に探し屋と共に死んだとしても情報屋の手元に復活し、その情報を報告するのだ。
完全なる束縛。
契約によって情報屋に嘘は言えない逆らえない。そして情報屋が不利になる発言も出来ない。
正に、道具だ。
「御免なさい。今はビスノスカって呼ばれています」
「何を謝る必要がある」
男はビスノスカの頭をそっと抱きしめる。
真名を知られ、縛られる事になったのは愚かではあるかもしれないが、男から見てビスノスカは子供だった。
子供であれば仕方の無い事だ。
そもそも、Cとは真名は誰にも言わず、便宜の良いものを名乗るのが通例なのだ。
コロコロと変えもする。
と、そこで男はふと思った。
この少女は正に見た目どおりの子供、呼ばれたてなのかもしれない。
なら騙されても当然か、と思う。
子供にこの世界は過酷過ぎるのだ、と。
やるせない気分になった男は、話を変えるように告げる。
「そうだ、俺も名乗っていなかったなサムライだ。サムライ・エッジだ」
男、サムライ・エッジは干していた側に置いていた剣を手に取ってみせる。
ドワーフの名剣工に特注したソレは直刀片刃、長さ50cm程の刀身を持っている。
刀でも太刀でも無い、あえて言うなら小太刀のような剣だが、サムライにとってはそれは刀であった。
銘はCS・カターナ。
とはいえ戦闘スタイルやら携帯性やらの問題からチョイスされているだけで、名前に縁ってという訳でも無いが薩摩の名刀工 波平の太刀 “笹貫” をハイ・ドワーフに打ってもらっているのだ。
更にハイ・エルフに頼んで魔法まで大量に奢った逸品だ。
とはいえ、実戦で使う訳ではないが。
サムライに刀と見せても、呼ばれた世界が違えば判る訳ではない。
そもそもサムライは、己以外に日本から呼ばれた人間は数人しか知らないし、日本のある世界っと枠を広げても100人どころか、50人も居ないのだ。
故に、意味は判らないだろうとのジェスチャーだったが、それがビスノスカの中の何かを直撃する。
「サムライ! 首切り族!!」
目の色をキラキラさせるビスノスカに、サムライ、思わず腰が引ける。
というか、吹きそうになる。
ぐいしーまんずとは、その余りにも凄惨で凶暴な将兵によって “鬼” なる異名を与えられた軍勢、即ち島津の事なのだ。
そして島津の国は薩摩とは、サムライの故郷でもある。
何という奇縁に、サムライは相好を崩して尋ねる。
「日本を知っているのか!」
「はい、日本は好きな国の1つです!!」
「イポって、あーロシア?」
「はい!!」
故郷への繋がりを感じてビスノスカは、笑った。
それは花が綻ぶ様な笑顔だった。