02 ―― コインの表裏、または、禍福あざなえる縄の如し
赤く濡れた落ち葉の中にあって尚、輝きを見せる水晶球。
そこに黒革の手袋に包まれた手がそっと伸び、掴む。
柔らかな落ち葉の上に落ちたからか水晶球に大きな傷は見られず、その中の針は少しも動いていなかった。
手を伸ばしたのは森に溶け込む緑と茶色を基調とした迷彩色の服を着込み、その上に動きやすそうな防具を着込んだ男だった。
適当に切られた黒髪のまだ若々しい顔立ちをしているが、その焦げ茶色の瞳には若さからの軽さは無かった。
目だけではない。所作にも落ち着いた隙の無さがある。
男は滑らかな仕草で魔力探知水晶球を確認する。
針の具合を、ではない。
その表面にこびり付いている血を、乾き具合を見ているのだ。
血は、水晶球を動かすと少しだけ形を変える。
まだ乾いてはなかった。
そんな水晶球を手の内で転がしながら、男は呟きを漏らす。
「戦闘から少し ―― 30分と経過していない感じか」
周囲を見れば転がっている死体、死体、死体、死体、死体。
その5つの、干乾びた、かつて人であったモノたちに、男は右手で水晶球を持ったまま拝むように動かす。
「南無」
短い言葉で成仏を祈る。
だが、感傷じみた仕草はその一瞬だけだった。
それからはサバサバとした感じで死体の状態を確認していく。
傷の種類から相手の武器、攻撃手段を確認し、襲撃者がナニであるかといった情報の収集だ。
その中には干からびた死体を動かしたり、或いは傷口に細い枝を突っ込んでみる事などもする。
死者、死体への冒涜といったような考えは男には無かった。
戦場で敵の情報を知る事は極めて重要であるし、そもそも、この世界は死と生との距離がすこぶる近いのだ。
油断していれば何時、自分に草生す屍となる番が回ってくるか判らぬ世界なのだ。
であれば死体の1つや2つ、果ては5つだろうが感傷なんぞを感じている暇は無かった。
男は手早く死体を検分していくが、次第に表情が曇っていく。
首が切られたものや手足が粉砕されたものもあったが、それでもどの死体にも喰われた、欠損した部位が殆ど無かった。
「刺し傷と圧壊、致命傷は魔力収奪か。厄介だな」
憂鬱そうに呟く男。
体の損壊は獲物が動けぬようにする為のもの。
本命は心臓の辺りに付けられた小さな傷口、そこから魔力を奪っているのだ。
その事が、襲ってきた相手が厄介な存在である事を教えていた。
体を喰って肉と一緒に魔力を吸収する魔物ではなく、直接魔力を啜る力を持った魔獣である、と。
男は周囲を警戒するように気配を研ぎ澄ませながら、武器を確認する。
手に持っていたショットガン、KEL-TEC KSGのポートを開いて覗き込む。
KEL-TEC KSGは普通のショットガンとは異なり、銃身の下に2本のチューブマガジンを持つという特殊な構造をしていた。
これは装弾数を増やす為の工夫であり、このお陰でKEL-TEC KSGの装弾数は一般的ショットガンの2倍近い15発となっているのだ。
そんなチューブマガジンの片側、ポートから覗いて右側に装填されているシェルの種類を確認する。
薄暗い機関室の奥に見えるシェルのリムは銀色。対魔獣用のフレシェット弾である事の証だ。
ドワーフ族でも名工と名高い鍛冶屋が生み出したミスリル製のフレシェットは、使い手の魔力を吸い、そして放つ力を持つ。
低位の魔獣であれば何処に命中しても一撃昇天であり、高位の魔獣であっても急所であれば痛打となる高威力の対魔万能弾だ。
そんな高性能であるが故に故に酷く値が張る銀の弾丸を、男は片側のチューブマガジンに7発、装填してきていた。
よっぽどの化け物以外であれば不足無し。
用意が出来ている事を確認した男は装弾する。但しセーフティはロックしたままに。
直ぐに撃てなければ危ないが、暴発されても危ない。
気は抜けない、今の危険度は高いとの判断が行わせた行動だった。
銃の準備を終えた男は、右足のレッグポーチから自前の魔力探知の魔道具を取り出して確認する。
掌サイズの薄い板、いわゆる携帯情報端末の様なサイズの魔力探知端末は水晶球型に比べてはるかに多い情報を表示する事が出来る。
周囲100m四方の地形を表示し、その中に魔獣魔物の魔力は赤色で、Cなどは青色で表示する。
そしてもう1つ。
強い魔力の残留があった場合には、赤青の色に黄色が混じる。
小さな画面であり、反応は小さいが、そこにははっきりと強い魔獣の赤黄色に混じって青黄色の反応があった事を、それが移動 ―― 捕捉され連れ去られた事を表示していた。
「何とも ―― まぁ」
嘆息するような言葉が漏れた。
だが目つきは違う。
それまで冷静、或いは冷徹であった瞳に力が宿る。
根の民が喰われただけなら哀悼の意を表明するだけだが、Cが連れ去れたのであれば話は違う。
助けねばならない。
それは大誓約の定め。
かつての時間、かつての仲間に捧げられた誇り。
又は、矜持。
無意識な仕草で自らの左肩、そこに張られた9の数字を意匠化した徽章に触れてポンポンと叩いた。
それが意地の源。
男の胸に点り続けた火が、体中に広がる。
「我らはナインズ。大誓約の庇護者なり! ってね」
小さく笑うと、ズボン右足のサイドポケットから鈍く光る鉄製の薬ビンを取り出す。
ラベルは“妖精の瞳”と書かれている。
封を開けば、その口より陽光の下にあって仄かに見える銀の光が立ち上るのが見える。
これは塗り薬であり、その効能は、瞼に塗ることで一時的に魔力の残滓を見る事が出来るようになるというものだ。
男の視野が広がる。
魔力の残滓は、その濃淡によって動きの時系列が読める。
どこから来てどこへ行ったのか、と。
最も輝いている銀の道、流れは森の奥へと向かっている。
「あっちか」
しっかりとKEL-TECを握った男は走りだした。
ビスノスカは夢うつつだった。
今がどうなっているのか、何がおこっているのか。
何も考えられない。
薄暗い中で夢うつつ。
体が動いている様な気がした。
何か息苦しい様な気もした。
だが何も考えられぬまま、ただ呆っとし続けていた。
と、そんなビスノスカのまどろみに不愉快なものが加わる。
光だ。
肌に乗る熱さと肌を走る冷たさ。
そして腕の痛み。
「……?」
気づいた。
自分が両の二の腕を掴まれて浮いている事に。
見た。
秀麗な作りの女性の顔が自分を見ている事に。
そして思い出した。
自分が黒い影に捕まった事を。
意識が一気に覚醒する。
慌てて周りを見て知った。
自らの服は切り裂かれ、手足に残骸がまとわり付いているだけという事を。
そして腕を掴まれて吊り下げられ、舐められている事を。
熱さは舌から、冷たさは唾液から。
「っあぁ!?」
悲鳴が漏れる。
舐められていたのは胸。なだらかな乳房ではなくその中央部、心臓の辺りだ。
ピチャピチャと水音が立つ程に舐めている。
どれ程の時間、丹念に舐めていたのか垂れた唾液は体を伝って脚にまで達している。
「いっいやっ!!」
胸元の熱さに、不快感以上に恐怖を感じて身を捩るビスノスカ。
だが動けたのはほんの少し。
凄まじい力で握られた腕は緩む事が無かった。
「シシシシシシッ」
舐めていた女性はビスノスカの状態に気づき、顔を胸元から離した。
だがそれは善意からの動きではない。
秀麗といってよい顔に愉悦と嗜虐、そして欲望を浮かべて笑っているのだから。
そして、見えた。
女性が人ではない事が。
顔はある。
手もある。
腰から上は肌色こそ青みがかっているとはいえ、人と同じだ。
だが下半身は違う。
蜘蛛だ。
青と黄、そして黒い毛の生えた蜘蛛 ―― アラクネとも呼ばれる蜘蛛女だった。
「いや、なに!? 何なのよっ!!!」
アラクネの捕食者の暴力的な瞳に射抜かれ、生理的な恐怖から身を捩って逃げようと動くビスノスカ。
だが、動けない。
涙が出た。
その涙をアラクネが愉悦の表情で舐めた。
「っ!?」
頬を汚す水気を含んだ熱さにビスノスカが悲鳴を上げるよりも先に、別の音が鳴る。
少しだけ湿気を含んだ快音。
そして悲鳴。
「ギェェェッ!?」
軋んだ悲鳴が強者が弱者へと堕ちた事を示す。
苦痛と憎悪で顔を染めるアラクネ。
誰何するように吼える。
「キィィィッ!!!!」
だが返されたのは罵声。
或いは宣告。
「黙れ、そして死ね」
軋む様な悲鳴に重ねられた怒声、或いは罵声。
その切り捨てるが如き響きに、快音 ―― 銃声が3度と重ねられて響いた。
跳ねた血糊と苦悶の咆哮。
その生々しさにビスノスカは呆然となった。
それまで自分をいやらしく舐めていたアラクネが、血塗れの肉塊となるのを見ていたのだ。
悲鳴を上げ、苦しみ悶え、もがき、そして命が消えるその様、一部始終を見ていたのだ。
たとえそれが、その寸前まで自分を嬲っていた相手であったとはいえ、まだ幼いビスノスカにとって筆舌しがたい程の衝撃であった。
或いは気が動転したというのが正しいのかもしれない。
「無事か?」
だからだろう。
声を掛けられるまで、自分がいつの間にかアラクネの拘束から解かれた事に気づかなかったのは。
「えあっ!?」
声が出た事で一気にビスノスカの意識が再構築され、それまで開き気味であったた瞳に意思が点った。
自分の顔を覗き込んでくる人影、その顔を、視線があった。
「あっ、アチェーツ?」
言葉にした瞬間、ビスノスカはそれが間違っている事を理解した。
父は茶色に近い金髪をした、丸みのあるユーモラスさを漂わせた顔をしていが。
だが、今、自分を助けてくれた男は、黒い髪と焦げ茶色の瞳、そして鋭利な顔の作りをしている。
言うならば、父親が熊なら、男は熊だ。
だが同時に、目だけが似ていた。
共に他人を安心させる思いやり、情が浮かんでいるのだ。
だからビスノスカは、泣きそうになった。
縋り付きそうになった。
ウィンドと助け合い慰めあってはいても、他は誰も自分たちを人として見ていなかった。
この世界に来て、誰も。
只の1人も。
突然、つれて来られた世界。
何も判らぬ場所で囚われ、戦場へと借り出される日々。
幾度も怖い思いをした。
幾度も死んだ。
だが誰も、そんな目で見てくれた人は居なかった。
怖かった、嬉しかった、悲しかった、寂しかった。
そんなない交ぜになった感情が、こらえきれずに白磁のような頬にそっと流れた。
「怖かったな。だがもう大丈夫だ」
声はその瞳に似て優しく、心へと染み入る様な響きをもっていた。
尤も、顔も声も優しかったのはそこまでだったが。
笑みと声とに野趣が混じる。
「だからあと少し、我慢してくれよ」
男の視線はビスノスカを見ていない。
油断無く周囲を睨んでいる。
その目付きは猛禽、或いは猛獣か。
状況が読めぬビスノスカだったが、その耳は音を捉えた。
大地を動く音を。
奔る音を。
何の音かは判らぬまでも、ただそれが恐ろしいものである事は理解した。
「何が ―― 」
怯えた問いかけが口を出るよりも先に、その答えがもたらされた。
周囲の穴から湧き出てくる蜘蛛、蜘蛛、蜘蛛。
「熱烈歓迎だなぁ、おい」
男は獣の如き笑みと共に、ショットガンをリロードした。