五
帝国軍を追い払ったあの日から三日が経った。ホーク砦の周辺に敵影はなく、谷の向こうの帝国が攻めてくる気配はない。
戦いが終わったばかりのときにはまだ警戒気味だった兵たちも、今はすっかり戦勝気分にひたっている。
勝ったのだという実感。そして次に帝国が攻めてきても大丈夫に違いないという自信。
砦にそんな明るい雰囲気が満ちているような気がする。
兵舎の食堂。もともとあったものは帝国との戦いの中で半壊したのだが、今はそれも修復され、夜は兵士たちのための酒場の役割も担っている。
しかし今夜は貸し切りだ。
戦勝祝いの宴会。勝利の一報を聞いたモリス大隊長がバーレンからかけつけ、急ではあるが催されることになったものだ。
テーブルの上には酒盃が思い思いに並べられている。大量の料理もだ。どちらも大隊長がバーレンから運ばせたものらしい。
ある者は浴びるように呑み、ある者は口いっぱいに頬張っている。笑いと安堵。その二つが食堂の中を明るく照らしている。
「ニクソン一等兵は、もう酔いつぶれてしまったのか?」
食堂の片隅、入り口にほど近い壁際の長椅子に、ニクソン一等兵が大きないびきを上げて寝転んでいる。そして、その頭をレダ二等兵が抱えるようにして、膝の上に乗せている。
「に、ニクソンは、凄く、ご機嫌でっ」
いつもは地味な軍服姿のレダ二等兵だが、今夜は普段着のような薄着で座っている。袖が短い夏物。あらわになっている二等兵のほっそりとした首元や二の腕が、ロウソクの明かりの色のせいか妙に大人びて見える。半ズボンから伸びた両脚は思っていたよりも女性らしい曲線で、柔らかく一等兵の頭を包んでいる。
「重かったら放っておけばいい。一等兵は硬い寝床には慣れっこだから」
「い、いえ。大丈夫、かとっ」
二等兵の小さな手が、一等兵のぼさぼさの頭髪をそっとなでる。まるで子どもを寝付かせる母親のような眼差しで、一等兵の耳の辺りを見つめている。
なんとものんびりとした平穏な光景。だからだろうか、そのときの俺は少しだけ意地悪になっていたのかもしれない。
「それにしても二等兵もたいへんだよな」
「は、はいぃ?」
「ウルバンの魔砲に関わったせいで、危ない目にばかりあってるだろ? それに一等兵のような変わり者と組まされるし」
「そ、そんなことは……ない、です」
「なにしろ一等兵は他人に気をつかったりしない奴だしな。何かと口を開けば大砲のことばかり。ああ、あとは想い人に振られたときの話もか。どちらにしろ、自分のことにしか頭にないんだろうな」
「そんなことは、ない、ですっ!」
二等兵が怒ったような目で俺を睨んだ。
「ニクソン、は、優しい、ですっ。いつも、自分のこと責める、それは優しい、から。大砲、詳しいは、真面目で、勉強熱心、だから。ニクソン、悪く言う、ダメですっ」
そこまで一気にまくしたてた後、二等兵は耳の後ろを真っ赤にしてうつむいた。自分が俺にからかわれていたことに、なんとなく気づいてしまったらしい。
俺はごちそうさまという気分になりながら、二人のそばから離れた。
賑やかな食堂を出る。夜の砦に吹く風はゆるやかでそして涼しい。見上げる空には無数の星が散りばめられている。
この食堂以外にも、砦のあちこちで酒が振る舞われている。兵舎の窓から漏れる明かりも、心なしか賑わって見える。城壁の上の見張りのための松明も、今夜はのんびりと燃えているような気がする。
食堂の入り口から少し路地に沿って数歩行くと、窓から中の様子が見える。テーブルが並んだ広間、その真ん中の辺りにマックス准尉が立っている。その周りを馴染みの歴戦の兵たちが取り囲む。皆、笑顔を隠さない。その中には、モリス大隊長の姿も見える。
今日は准尉の誕生日でもあるらしい。五十五歳。それは下士官の定年と、退役を意味する年齢だ。つまりこの宴は、帝国との戦いの戦勝祝いだけでなく、マックス准尉の誕生日と退役を祝うものでもあるということだ。
明日には任を解かれ、マックス准尉は軍を去る。退役後は故郷に帰り、孫達とともに暮らすそうだ。
鉄砲という新兵器を活かした、新しい形の城壁。そしてその威力を十二分に発揮した勝利。
准尉の長年に渡る戦歴の最後を飾る戦いとしては悪くない。そういう気がした。
それに比べ、俺はどうなんだ?
俺はひとり、食堂の脇の路地に腰をおろした。食堂から漏れる明るい光と、ときおり賑わう笑い声。それらがまるで別の世界のもののように感じる。
夜風に冷えた路地の石。そのひんやりとした感触が腰のあたりから伝わってくる。
俺にお似合いなのはこちらの方なのだろう。
いまだに、トリスのことは思い出せないでいる。彼女から聞いた話。士官学校での訓練中に起きた事故。俺とトリスはその事故に巻き込まれたのだという。
俺はそのときの記憶を失い、トリスは命を落とした……彼女はそう語った。
彼女の言葉の通り、俺は事故のことをまったく覚えていない。それと関係があるのかは分からないが、トリスのことも記憶からすっぽりと抜け落ちてしまっている。生まれた時から常に一緒の双子の兄妹。だが俺にそんな実感はない。幼なじみだった彼女もまた、トリスとは長い付き合いだと言う。小さい頃は三人でよく遊んでいた。それを口にしたときの彼女はどこか寂しげだった。
何度も繰り返し見る、あの夢の光景。あれは、事故の時の記憶の断片なのだろうか?
思い出そうとするたびに、何かが頭の奥で重く引っかかる。トリスについて考えようとすると、胸の奥の方が締め付けられるような痛みが起きる。
無理をしなくていい。彼女はそう言った。薬を飲み続けていれば、良くなるのだと。
今はそれを信じるしかない。焦ることはないのだ、そう自分に言い聞かせながら、俺はここのところを過ごしている。
「トール少尉か……?」
物思いに沈んでいた俺を、硬い靴音が引き戻した。
路地から見上げると、食堂の入り口からこちらを見下ろすガトー軍曹の姿があった。これから食堂に入ろうとするところのようだ。
「どうした。酒の飲み過ぎか?」
「いや、少し風に当たりたかっただけだ」
俺は何事もなかったような顔で立ち上がった。
「軍曹は今から中に?」
「ああ。まだまだ敵兵の遺体が片付かなくてな」
三日前の戦いの爪痕は、城壁の外にいまだ残っていた。数千の遺体を埋めるだけでも大仕事だ。そして、軍曹はクルーズたち傭兵とその任務に当ってくれている。
「これから大隊長の話があるというので、呼ばれてな。少尉も聞いておくべきだろう」
大隊長の話?
俺は首をかしげた。そんな話は彼女からも特には聞いていない。
俺は軍曹の後に続いて、食堂に戻った。
「諸君らの働きにより、我が国はここホーク砦を敵から守り抜くことができた。まずはその献身と忠誠に敬意を表したい。ありがとう!」
大隊長の話は、ちょうど始まったところだったようだ。食堂の中央、マックス准尉と並ぶようにして大隊長は酒盃を掲げ、にこやかにそれを呑み乾した。
「このたびの勝利は、すでに王都にも報告が上がっている。王都も諸君らの活躍を高く評価している。近く、全員に国王陛下から特別な報奨が与えられることになる」
食堂の皆が一斉に歓声を上げる。ひとしきりの賑いを見守りながら、大隊長は続けた。
「そして王都はこの勝利を機に、かねてから構想していた軍の再編を実行に移すことにした」
――軍の再編。それぞれの地方に大隊を配する今の編成を改め、国王陛下直轄の国軍を強化する。国軍は現在の近衛騎士団を中心とした専属の軍人集団とし、国防を担う。各方面の大隊はそれぞれの町の治安維持に注力し、国軍との役割を明確にする。
これはそれは士官以上なら誰もが知らされている話だ。
「王都はまず、今回の勝利をもたらした我が北部方面大隊から再編を行う意向だ。これはもちろん帝国に対するより強固な防衛策という意味もある。北部方面大隊は治安維持のための部隊と、帝国からの防衛を担当する部隊とに改組する。そして防衛のための部隊は近々このホーク砦に派遣される近衛騎士団と合流し、統合国軍として新しい体制に移行する」
大隊長の言葉に、食堂の中が静まり返った。統合国軍。その耳慣れない響きに戸惑っているのだ。
ただ、大隊長の隣に立つマックス准尉だけは顔色を変えない。おそらく、事前に大隊長から話を聞いていたのだろう。
「なお、統合国軍には新しい司令官が着任する。また、北部方面大隊の改組と同時に、私は大隊長の任を解かれることとなった。すでにバーレンの部隊の改組は終わり、あとは諸君らホーク砦駐屯中隊を残すのみ。駐屯中隊改組の辞令は明日、諸君らに正式に下される。以後は、新しい司令官の指示に従ってもらうことになる」
周りの兵たちがざわめく。大隊長の退任に驚いているようだった。
確かに統合国軍への再編は既定路線なのだろう。しかしこのタイミングで、しかも大隊長が退任する形での体制移行には違和感があった。
何かが急に過ぎる。俺にはそう思えた。
ざわめく周囲に、大隊長は小さなせきばらいでたしなめた。
「話はまだ終わっておらんぞ諸君……私の退任に伴い新たに着任することとなった統合国軍の司令官殿を紹介しよう。司令官殿は着任にあたって、まずホーク砦の防衛に尽力した諸君らに挨拶したいとのご意向だ。すでにここに来て頂いている。では、准将」
准将? 新しい司令官は将官なのか?
俺は驚きを隠せなかった。北部方面大隊の中で一番階級が高いモリス大隊長でも大佐、つまり佐官だ。准将というのは将官の中では一番下の、若手のための階級だが、しかしそれでもこんな国境近くの前線に将官が着任するというのは異例中の異例としか思えない。
それだけ王都は今回の帝国との戦いを重視しているということなのか? それとも、軍の再編にそれだけの重要性があるということなのか?
俺はそんなことを考えながら、大隊長の周囲に目をこらした。新しい司令官がどういう人物なのか。それが気になっていた。
そんな俺の視界の中で、大隊長の傍らに見知った人物が歩み寄っていた。
あれはフォスター二等兵……じゃないのか?
確かにそれは二等兵だったが、しかし服装がいつもとは違っていた。将官だけが身につける純白の軍服。そして襟に光る准将の階級章。
そして、二等兵はゆっくりと周囲を見回すと、にこやかに口を開いた。
「みなさん、これからもよろしくおねがいします。このたび着任したフィリオナ准将です」




