一
「きれいな谷……」
城壁から見下ろした風景に、彼女がうっとりと目を細めている。
「今は初夏ですから、特に山々が鮮やかで美しい季節ですよ」
着任したばかりの俺と彼女を案内してくれているのは、マックス准尉。白髪と顎ヒゲの似合う、歴戦の老人だ。
「この北の谷間を抜けた先には緑の豊かな盆地が開けています。中央にホーク湖があって、その周辺には山の部族がいくつも寄り集まって住んでいます」
マックス准尉の声は、低く落ち着いていて、聞いていて心地良い。
「この城壁は、彼らの侵入を防ぐためのものでしたよね?」
東西に迫ってくる山の稜線をつなぐようにして、高さ十メール、幅二百メールの城壁が、この狭い谷間の出口を塞いでいる。城壁の手触りは古く、組み上げられた石の一つ一つから長い年月が感じられる。
「昔はそうだったと聞いています。我が国の中でも、このホーク砦の城壁はもっとも古いものの一つです。ですが……」
マックス准尉が、北、谷間のさらに向こうを指さす。
「北の帝国が強大化した近年では、この砦の役割も変わりました」
――帝国。
広大な国土と強大な軍事力を持つ、大国だ。
「もともとは草原の騎馬民族の国だったようですが、昨今では我が国にとって最大の脅威となっています。この砦は、帝国から我が国を守る、国防の要ということになります」
「帝国が攻めてくるのですか?」
彼女の声はどことなくのんびりとしている。
「ええ、まあ。小競り合いは毎年一度くらいは起きています。大掛かりなのは……そうですね。私がここに赴任してから二十年で、三回ほどあったでしょうか」
昔を思い出しているのだろうか、マックス准尉は空を見上げている。
「でも、大丈夫ですよ。今までこの砦が突破されたことはありません。守りは万全です。谷間の東西に詰所が見えますでしょう? あそこに、砲台が設置されています」
准尉の言うとおり、北の谷間を挟んだ山肌の中腹に、東西それぞれ三つづつ、打ち下ろし型の砲台が設置されているのが見える。
「山の部族と違って、帝国は攻城兵器を用います。ですので城壁にとりつかれる前に、砲撃で敵兵器を破壊します。帝国は騎馬による戦闘を得意としていますが、城壁さえ無事であれば、恐るるに足りません」
マックス准尉はこちらに振り向くと、谷間を背にし、南に向かって胸を張った。
「それに、この砦を預かる我が部隊――北部方面大隊第六ホーク砦駐屯中隊、総勢三百名は精鋭ですからね」
南を振り返ると、眼下には砦の全貌が広がっている。
「まるで街みたい」
彼女に、俺もうなずく。
「赴任したら最低でも二年間、ここで寝起きするわけだしね。生活するのに必要なひと通りのものはそろっていないと」
「小規模ですが商店や飲食店もあるので、民間人も百名程度、暮らしています」
「私の医院はどこなのかしら?」
彼女の砦を見渡す仕草を見て、マックス准尉が笑った。
「軍医殿は中隊直属ですから、司令部勤務です。ほら、兵舎が取り巻く中央に、塔が見えるでしょう?」
「あそこなのね……。ちょっと暗くて好きじゃないのだけど」
「ほらそこ、文句を言わない。俺もしばらくは見習い扱いで司令部勤務だから、いいじゃないか」
俺たちのやりとりを見ながら、マックス准尉はただニコニコしていた。
◆
初夏ののんびりとした風情。日差しはまだ真夏ほどでもなく、南風も気持ちいい。
しかしその風が不意に、聞きなれない足音を運んできた。南から階段を登ってくるその足音は重く、硬く、そして急いでいた。
「おお、ガトー軍曹。何か用かね?」
軍服の上に短めの赤いマントを羽織った、軍人らしくない風貌。城壁の南から姿を表したその人物に、マックス准尉が声をかけた。
しかし軍曹は、こちらを振り向きもせず、北の方向に鋭い眼差しを向けた。整えもしていない様子のばさばさとした黒髪の隙間から、谷間の彼方を睨む。
「……馬の蹄の音がする」
「馬の?」
「ああ。かなり多い」
「司令部に報告は?」
「まだだ。急いだ方がいい」
マックス准尉とガトー軍曹がそんな会話を交わしていたそのときだった。
山肌の詰所の一つから、見慣れない土煙が上がった。
遅れて、鼓膜を突くような衝撃音が頬を叩く。
「こちらから砲撃したのか?」
「いや、砲撃を受けたようだ」
ガトー軍曹の鋭い目が険しくなる。
「なんだあれは?」
続けて、別の詰所からも噴煙が上がった。再び、衝撃音が耳に突き刺さる。
「軍曹、何が起こっている?」
「わからない。ただ、こちらの砲の射程外から、敵の砲撃を受けているようだ」
俺の方を振り返ったマックス准尉の表情も険しい。
「トール少尉、敵襲のようです。軍医殿と一緒に司令部への状況報告をお願いして良いですか?」
「わかった。准尉は?」
「私は軍曹と状況の把握に努めます。城壁の下に何名か警備の兵がおりますので、彼らをこちらに寄越してください」
俺はうなずいて、南に続く階段へ走った。
「トール。戦いになるの?」
彼女が、俺の後を追う。
「たぶん、そうだと思う」
「大丈夫かな?」
わからない。正直、俺にはそうとしか言えなかった。