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1話 こんな世界、なくなってしまえばいい

この世界は、今日も平和だ。


学校へ行き、仕事をして、友達と笑い合い、家族の待つ家へ帰る。


そんな当たり前の日常が、どうして続いているのか。


その本当の理由を、私たちはまだ知らない。


これは、世界なんて大嫌いだった一人の少女が、かけがえのない出会いを通して、少しずつ明日を見つけていく物語。


――世界の裏で、少女たちの物語が始まる。


⸻


※本作には、家庭内暴力、希死念慮、性的暴力を示唆する場面、動物への暴力などの描写が含まれます。苦手な方はご注意ください。


第1話 


――こんな世界から、消えてしまいたい。


そんなことを考えるようになったのは、いつからだっただろう。


別に、今日だけ特別嫌なことがあったわけじゃない。


昨日も、一昨日も、その前も。


毎日が同じことの繰り返し。


朝起きて、学校に行って、退屈な授業を受けて、アルバイトをして、帰って寝る。


そしてまた朝が来る。


何のために生きているのかなんて、もう考えるのも面倒くさかった。


「おい裕太! それマジで言ってんのかよ!」


「だからマジだって! お前ら信じろよ!」


「あはははっ!」


放課後の教室。


男子たちの馬鹿みたいに大きな笑い声が響いている。


私はそんな声を聞き流しながら、机の中の教科書を鞄に詰め込んでいた。


……はぁ。


「うざ……」


小さくため息をつく。


別にあいつらが悪いわけじゃない。


学校で友達と騒いで、笑って、楽しそうにしている。


ただそれだけ。


それなのに、どうしてこんなに腹が立つんだろう。


「ねえ聞いてよー! うち、これから彼氏とデートなの!」


「えーっ! いいなぁ! どこ行くの?」


「駅前のイルミネーション見に行くんだぁ!」


「なにそれ、めっちゃ羨ましい!」


近くで女子たちが楽しそうに話している。


そういえば、明日はクリスマスイブだったっけ。


世間は恋人だの、プレゼントだの、クリスマスだので浮かれている。


……ほんと、くだらない。


鞄のファスナーを閉め、立ち上がった。


そのときだった。


「きゃっ」


横を通り過ぎようとした女子生徒の肩が、私にぶつかった。


「あ、ごめーん」


女子生徒は軽く振り向いただけで、すぐに友達との会話に戻っていった。


「でさー、彼氏がね!」


「えっ、なになに!」


「…………」


……チッ。


思わず舌打ちが漏れた。


別に謝罪を求めているわけじゃない。


ただ、なんというか。


……何もかも、気に入らない。


私は鞄を肩に掛け、教室を後にした。


◇


「何度言ったら分かるの!!?」


耳元で怒鳴り声が響いた。


アルバイト先の店長だった。


「それ何度も教えたよな!? なんでまた同じ間違いするわけ!?」


「……すみません」


「すみませんじゃなくて!! だからさぁ!!」


「…………」


私は俯いたまま、店長の説教を聞いていた。


確かに、間違えたのは私だ。


だから、謝るしかない。


でも。


……なんで、そんなに怒鳴るんだろう。


普通に言ってくれれば分かるのに。


怒鳴られると、余計に頭が真っ白になる。


「聞いてんの!?」


「っ……! はい……」


肩がびくりと跳ねた。


その瞬間。


頭の奥で、昔の怒鳴り声が聞こえた気がした。


『お前は本当に使えねぇな!!』


「…………っ」


「次はちゃんとやってよ!」


「……はい」


店長が去っていく。


私は小さく息を吐いた。


……もう、嫌だ。


学校も。


バイトも。


全部。


……いや。


いっそ、なくなってしまえばいい。


◇


十二月二十四日。


午後十時を過ぎた頃。


ようやくアルバイトが終わった。


「……さっむ」


店の外へ出ると、冷たい風が頬を撫でた。


吐く息が白い。


街にはクリスマスのイルミネーションが輝いていた。


楽しそうに歩く恋人たち。


小さな子供の手を引く家族。


プレゼントの袋を持った人たち。


みんな、幸せそうだった。


「…………」


私はマフラーに顔を埋め、足早に歩いた。


すると、前の方から小学生くらいの女の子たちの声が聞こえてきた。


「ねえねえ! 明日のクリスマス、サンタさんから何貰うの?」


「私ね! 新しいゲーム機!」


「えーっ! いいなぁ!」


「そっちは?」


「私はねー、おっきいぬいぐるみ!」


無邪気な笑い声。


私は思わず足を止めた。


「……サンタさんか」


小さく呟く。


「……私のところには、一度も来たことないな……」


別に、今さらプレゼントが欲しいわけじゃない。


もう高校生だし。


サンタクロースなんて、最初から信じていなかった。


……信じる余裕なんて、なかった。


楽しそうな女の子たちを横目に、私は再び歩き始めた。


◇


「……ただいま」


玄関の扉を開ける。


台所から母の声が聞こえてきた。


「あ、侑美? 帰ったー? ご飯できてるから温めて食べちゃいなさいねー」


「…………」


「今日もバイトだったんでしょ? お疲れさまー」


私は何も答えず、靴を脱いだ。


そのまま廊下を歩き、自分の部屋に入る。


バタン。


扉を閉めた瞬間、全身から力が抜けた。


「……はぁぁ……」


鞄を床に置き、制服のままベッドに倒れ込む。


枕に顔を埋めた。


「……あー、もう……」


何もしたくない。


誰とも話したくない。


学校にも行きたくない。


バイトにも行きたくない。


……でも、行かなきゃいけない。


家にはお金がない。


お母さんも働いているけど、生活は楽じゃない。


私も少しは生活費を入れないと。


分かってる。


そんなこと、分かってるんだ。


「……なんで……」


枕を抱きしめる。


「……なんでこんなクソみたいな世界に産まれたんだろ……」


スマートフォンを手に取る。


検索履歴には、誰にも見せられない言葉が並んでいた。


消えたい。


生きるのがつらい。


もう何も考えたくない。


自分の命を終わらせることについて、何度も調べた履歴もあった。


私は画面を伏せた。


「……こんな世界、存在する価値なんてあるのかな……」


しばらく、天井を見つめていた。


すると、お腹が小さく鳴った。


「…………」


……お腹は空くんだ。


こんな気分でも。


私はゆっくりと起き上がり、部屋を出た。


台所には、ラップを掛けた夕食が置いてあった。


お母さんの作ったハンバーグ。


電子レンジで温め、一口食べる。


「…………おいし」


思わず呟いた。


……お母さんが悪いわけじゃない。


それは、分かっている。


離婚してから、女手一つで私を育ててくれた。


自分だって大変なのに、毎日ご飯を作ってくれる。


だからこそ。


……何も言えない。


◇


翌日。


十二月二十五日。


クリスマス。


世間では特別な日らしいけど、私にとってはいつもと変わらない一日だった。


学校が冬休みに入っても、アルバイトはある。


今日も忙しかった。


店長にはまた怒られた。


……もう、慣れたけど。


午後十時過ぎ。


私はコンビニで買ったパンを袋に入れ、帰り道を歩いていた。


空からは、ちらちらと雪が降っていた。


「……寒っ」


マフラーを引き上げる。


そのときだった。


「……にゃー」


「……ん?」


か細い鳴き声が聞こえた。


路地の脇に置かれた段ボール箱。


私は何となく、その中を覗き込んだ。


「……猫?」


そこには、小さな白い猫がいた。


右目は青。


左目は金色。


綺麗なオッドアイだった。


猫は寒そうに身体を丸め、私を見上げている。


「…………」


こんな寒い日に。


しかも、クリスマスに。


「……アンタも災難だね……こんな日に……」


「にゃー」


「……お腹空いてる?」


私はコンビニ袋を覗いた。


買ったばかりのパン。


……これしかないんだけど。


少し迷ってから、パンを半分にちぎった。


ほんの少しだけ、猫の前に差し出す。


「……私もギリギリだから、半分こね」


猫は匂いを嗅ぎ、小さく口をつけた。


「…………」


私はしゃがみ込んだまま、その様子を見つめていた。


このままじゃ、凍えちゃうかもしれない。


でも、うちでは飼えない。


お金もないし、お母さんに相談もしていない。


私は自分のカーディガンを脱ぎ、段ボールの底に敷いた。


「……これで、ちょっとはマシかな」


猫の頭を撫でる。


ふわふわしていた。


「……家で飼ってあげられなくてごめんね」


「にゃあ」


「……いい人に拾われてね」


猫はじっと私を見つめていた。


青と金色の瞳。


不思議と、目が離せなかった。


その金色の瞳が一瞬だけ淡く光ったことに、私は気づかなかった。


私は段ボールを風の当たりにくい場所へ寄せ、後で保護を頼めるところを探そうとスマートフォンに場所を記録した。


「……じゃあね」


立ち上がり、歩き出す。


猫はしばらく、私の背中を見つめていた。


◇


「……はぁ」


帰り道。


人通りの少ない道を歩いていた。


すると、前方からふらふらと歩いてくる男がいた。


酒臭い。


……酔っ払いか。


私は目を合わせないようにして通り過ぎようとした。


その瞬間。


ドンッ。


「いってぇ……!」


「っ……!」


肩がぶつかった。


男がこちらを睨みつける。


「てめぇ! どこ見て歩いてんだ!」


「……すみません」


面倒事は嫌だ。


早く立ち去ろう。


そう思って顔を上げた。


……その瞬間。


心臓が、嫌な音を立てた。


「…………っ!」


見覚えのある顔。


忘れたくても、忘れられなかった顔。


「……って、お前……」


男が目を細める。


「……侑美か?」


「っ……!」


血の気が引いた。


嘘。


なんで。


なんで、ここに。


「ひ、人違いじゃないですか……?」


声が震えた。


男は私の顔をじろじろと眺め、にやりと笑った。


「おいおい、生みの親の顔忘れるとか酷いなぁ」


「…………」


「でも、こんなに美人に育ってくれて、お父さん嬉しいぞぉ」


男が手を伸ばし、私の頬に触れた。


「っ……やめてください……」


「なんだよ、冷たいなぁ」


……嫌だ。


触らないで。


昔の記憶が、頭の中を駆け巡る。


怒鳴り声。


割れた皿。


泣いているお母さん。


血のついた床。


部屋の隅で震えていた、小さな私。


「そうだ、今日はせっかくのクリスマスだ」


男が私の手首を掴んだ。


「こんな寒いところに居たら嫌だろ? 俺と一緒に来いよ」


「……離して……!」


「あぁ!?」


手首を強く引っ張られた。


「こいよクソガキ! 誰にも相手にされてないお前が、こうして必要とされてんだから少しは有り難く思いやがれ!」


「っ……!!」


怖い。


誰か。


……誰か、助けて。


でも、声が出なかった。


男は私を近くの路地裏へ引きずり込んだ。


背中が地面にぶつかる。


「っ……!」


逃げようとした私の上に、男が馬乗りになった。


「へへっ……いい子だ……やっぱ女子高生は違うなぁ」


「や……やめて……!」


男の手が制服のボタンへ伸びる。


……嫌だ。


嫌だ嫌だ嫌だ。


「やめて……!」


その瞬間だった。


――ドシュッ。


「……っ!?」


男の身体がびくりと跳ねた。


「……え?」


何が起きたのか、分からなかった。


男の頭を、巨大な爪のようなものが貫いていた。


男は私の上から崩れ落ちる。


「…………え……?」


私は震えながら顔を上げた。


そこにいたのは。


人間ではなかった。


黒い、巨大な身体。


異様に長い腕。


鋭い爪。


そして、顔と呼べるものがない、歪な頭部。


「…………」


何。


なに、これ。


怪物がゆっくりと顔を近づけてきた。


その腕が振り上げられる。


「ひっ……!」


私は反射的に転がった。


直後、さっきまで私の頭があった場所に爪が突き刺さる。


アスファルトが砕けた。


「な、何なのこいつ……!」


立ち上がり、走り出す。


逃げた。


ただ、ひたすら逃げた。


後ろから、何かが地面を引き裂く音が聞こえる。


足がもつれそうになる。


息が苦しい。


怖い。


死にたくない。


……死にたく、ない?


「…………」


そのとき。


ふと、考えてしまった。


……なんで、逃げてるんだろう。


今までの人生。


ろくなことがなかった。


家では毎日のように両親が喧嘩していた。


お父さんは暴力を振るっていた。


大切なものを奪われた。


学校には友達もいない。


バイトでは怒鳴られる。


毎日、毎日、毎日。


……こんな世界。


消えてしまえばいいって。


ずっと、思ってたじゃん。


私は足を止めた。


ゆっくり振り返る。


怪物が近づいてくる。


その巨大な爪が振り上げられた。


「…………」


もう、疲れた。


「……いいよ……もう……」


私は目を閉じた。


――その瞬間。


パァンッ!!


乾いた破裂音が響いた。


「…………?」


何かが崩れ落ちる音。


ゆっくり目を開ける。


怪物が溶けるように崩れ落ちていた。


頭には、大きな風穴が空いている。


「…………え……?」


理解できなかった。


何が起きたのか。


何も。


そのとき。


「ねぇ」


女の子の声がした。


振り向くと、一人の少女が立っていた。


私と同じくらいの年齢だろうか。


明るい雰囲気の女の子だった。


その手には、見たこともない武器が握られている。


少女は私を不思議そうに眺めた。


「なんで逃げなかったの?」


「…………」


「むしろ、死にに行ってるように見えたんだけど」


私は何も答えられなかった。


「……ま、いっか」


少女は軽く肩をすくめた。


「怪我はない?」


「…………」


「って、そんなこと気にするような人って感じもしないけど」


「…………」


何、この子。


どうして、こんな状況で普通に話せるの。


「……なんで……」


「ん?」


「……なんで、助けたの……?」


少女は少し考えるように首を傾げた。


「んー……一応、仕事だからねー」


「……仕事……?」


「そそ」


少女は軽く笑った。


そして、ふと思い出したように私を見る。


「てか君、あれ見えちゃってるよね」


「…………」


「見えてるよね? さっきの」


「……見えてるから、何……?」


「あー……そっかぁ」


少女は困ったように頬を掻いた。


「見えちゃうってことは、かなり厄介なんだよねぇ……」


「……どういうこと……?」


「んー、説明してあげたいんだけどさ」


少女は周囲を見回した。


「今はちょっと時間ないかなぁ」


「…………」


「とりあえず、今日は早いとこ家帰りな。ここから先はこっちで何とかするから」


そして、私の顔をもう一度見つめる。


「……ちゃんと帰れる?」


「…………うん」


「そっか。じゃ、気をつけてね」


少女は軽く手を振った。


そのまま、夜の街へ消えていった。


「…………」


私は、しばらくその場から動けなかった。


あれは一体、何だったんだろう。


夢?


幻覚?


それとも。


……私は、本当におかしくなってしまったのだろうか。


◇


家に帰ってからも、頭の中はぐちゃぐちゃだった。


私はリビングのテレビをつけた。


ニュース番組が流れている。


『本日十二月二十五日、午後十一時四十三分頃、路地裏で男性の遺体が発見されました』


「…………!」


画面に映し出されたのは、見覚えのある路地裏だった。


『男性の死因については、建物上部から落下した植木鉢による事故の可能性があるとみられています。警察が詳しい状況を調べています』


「……嘘……」


植木鉢?


そんなわけない。


確かに、あのとき。


「……化け物に、頭を刺されたはずじゃ……」


私はテレビを見つめた。


画面には、警察官たちが現場を調べる映像が映っていた。


でも、どこにも怪物の姿はない。


巨大な爪で抉られたはずの地面についても、何も触れられていない。


……どういうこと?


そのとき。


ガチャッ。


玄関の鍵が開く音がした。


「ただいまー」


お母さんだ。


「あれ、侑美? 起きてたの?」


「……うん」


「ご飯食べた?」


「……コンビニで済ませた」


「またコンビニ?」


母は呆れたようにため息をついた。


「コンビニのご飯だけだと身体壊すわよ」


「……分かってるって」


「侑美の『分かってる』は分かってないって知ってるわよ」


「…………」


「ほら」


母が鞄から封筒を取り出した。


「……?」


「これ」


中を覗くと、一万円札が三枚入っていた。


「……え?」


「三万円」


「いや、それは分かるけど……」


「クリスマスプレゼント」


「…………」


私は母の顔を見た。


「……いいよ、別に……」


「いいから」


母は笑った。


けれど、その笑顔は少し寂しそうだった。


「私、いつも侑美に迷惑ばっかりかけてごめんね」


「…………」


「小さい頃から、何にもしてあげられなくて」


「……そんなこと……」


「侑美は、こんなお母さんのところに産まれてきて、不幸って思ってるかもしれない……」


胸が、ちくりと痛んだ。


「でもね、せめて今年はって思ってたの」


母は封筒を私の手に握らせた。


「たまには友達とご飯食べにでも行ってみたら?」


「…………」


友達。


……友達、か。


私には、いない。


学校でも、ずっと一人だ。


休み時間も。


昼休みも。


放課後も。


……でも。


そんなこと、言えるわけがなかった。


お母さんに、これ以上心配をかけたくない。


「……分かった」


私は封筒を受け取った。


「……ありがと」


「うん!」


母は嬉しそうに笑った。


「好きなもの買いなさいね」


「……うん」


私は自分の部屋へ戻った。


ベッドに座り、三万円の入った封筒を見つめる。


「…………」


今日、私は死にかけた。


……いや。


自分から死を受け入れようとしていた。


そんなこと、お母さんには絶対に言えない。


私は封筒を引き出しにしまい、布団に潜り込んだ。


目を閉じる。


すると、あの少女の顔が浮かんだ。


『なんで逃げなかったの?』


「…………」


……知らないよ。


私だって。


……分かんないんだから。


◇


一月八日。


冬休みが終わった。


今日からまた、いつもの学校生活が始まる。


退屈な授業。


騒がしい教室。


面倒くさい人間関係。


そして、放課後のアルバイト。


「……はぁ」


私は自分の席に座り、頬杖をついた。


……また、このクソみたいな日常か。


しかし、今日はいつもより教室が騒がしかった。


「なあなあ! 今日転校生来るらしいぞ!」


「マジ!?」


「しかも女の子だって!」


「え、可愛い?」


「知らねぇよ!」


「俺、今日連絡先聞くまで絶対帰んないから!」


「お前それ毎回言ってるじゃん!」


……ほんと、騒がしい。


「……たかが転校生くらいで……本当に大袈裟……」


私は小さく呟いた。


そのとき。


ガラガラッ。


教室の扉が開いた。


「はい、静かにー」


担任の先生が入ってきた。


「おーい、裕太。静かにしろ」


「ごめんなサイコロ!」


「よし。今日の数学の時間、お前にだけしか当てないようにしてやるからな」


「えぇ!? 先生それはズルいって!」


教室が笑い声に包まれる。


「はいはい、静かに」


先生が手を叩いた。


「で、今日はみんなもちらほら噂で聞いてるとは思うが、転校生が来ている」


「おおーっ!」


「静かにって言ってるだろ」


また笑い声が起きる。


「……入っていいぞ」


先生が扉を開けた。


一人の女子生徒が教室に入ってくる。


「…………え?」


私は目を見開いた。


嘘。


……なんで?


見間違えるはずがない。


あの顔。


あの雰囲気。


あの日、私を助けた。


……あの少女だ。


「おおっ!」


「え、可愛くね!?」


「マジで可愛い!」


男子たちが騒ぎ始める。


少女は気にした様子もなく、にこにこと笑っていた。


「じゃあ、早速だが自己紹介してくれ」


「はーい!」


少女は黒板の前に立った。


「堰根彩夏でーす! よろしく〜!」


……堰根、彩夏。


それが、あの子の名前だった。


「はい、じゃあ席は……」


先生が教室を見回す。


「空いてる席は……都嵜の隣か」


「…………は?」


「彩夏、あそこの窓際の席に座ってくれ」


「はーい!」


……嘘でしょ。


よりによって。


私の、隣?


彩夏は軽い足取りでこちらへ歩いてきた。


そして私の顔を見るなり、目を丸くした。


「……ん?」


次の瞬間。


「あっ! おおっ! 君かぁ!」


「…………っ」


「うわー、びっくりした!」


彩夏は嬉しそうに笑った。


「……なんでいるの……?」


「んー? ちょっと事情があってねぇ。ここにいることになったんだ」


「…………」


「いやー、君もこの学校だったなんてねぇ! まさかこの学校とは思わなかったよ〜」


……嘘。


絶対、何かあるでしょ。


私は疑いの目を向けた。


しかし彩夏は、まったく気にしていない。


「いや〜、転校だから知らない人ばっかだと思うと、ぶっちゃけちょっと心細かったんだよねぇ」


「…………」


「知り合いが一人でもいてよかった!」


彩夏は鞄を机に置き、椅子に座った。


「ま、隣同士なんだし、これからよろしくね!」


「…………」


「面倒事には巻き込まないようにするからさ! よろしく!」


……いや。


もう十分、面倒事なんだけど。


◇


昼休み。


私はいつもどおり、一人でお弁当を食べていた。


教室では、何人もの生徒が机を寄せ合っている。


その中心にいたのは、彩夏だった。


「彩夏ちゃんって前どこの学校だったの?」


「えーっとねぇ、色々あってさぁ!」


「え、何それ気になる!」


「あはは! まあまあ!」


転校初日だというのに、もうクラスに馴染んでいるらしい。


周りには自然と人が集まっていた。


「…………」


……すごいな。


ああいう子って。


何もしなくても、みんなが寄ってくるんだ。


私とは、大違い。


……別に、羨ましくなんか。


「んん?」


彩夏がこちらを見た。


「あ、ちょっと待ってて!」


「え? どうしたの?」


彩夏は友達の輪から抜け出し、私のところへ駆け寄ってきた。


「あれ? 一人?」


「…………」


「みんなと一緒に食べないの?」


「……別に」


私はお弁当のおかずを口に運んだ。


「……好きで一人でいるし……」


「えっ、じゃあいつも一人!?」


「…………」


「それじゃつまんなくない? 絶対一人じゃ寂しいって!」


「……別にいいって」


私は顔を背けた。


「……ほっといてよ」


「えー、冷たいなー」


彩夏は頬を膨らませた。


そのとき。


「彩夏ちゃん、いこ!」


別の女子生徒が近づいてきた。


「こっちで一緒に食べよ!」


「あー、うん。でも……」


彩夏が私を見る。


女子生徒もこちらを見て、小さく肩をすくめた。


「あの子いつもあんな感じだから、ほっとこ」


「…………」


胸の奥が、ちくりと痛んだ。


……何それ。


いつもあんな感じ?


勝手に決めつけないでよ。


「……ほっとけっつーの……」


私は小さく呟いた。


「……何がいつもどおりだ……ばか……」


彩夏は女子生徒たちのところへ戻っていった。


すぐに楽しそうな笑い声が聞こえてくる。


「…………」


私は弁当箱を見下ろした。


……いいな。


ああいうの。


みんなに囲まれて。


笑って。


楽しそうで。


……羨ましい。


そんな感情が湧いてきたことが、何より嫌だった。


◇


放課後。


私は帰り支度をしていた。


すると。


「ねえねえ!」


「……?」


彩夏だった。


「今日暇?」


「……何?」


「今日よかったら買い物に――」


「……しつこい」


「えー!」


彩夏は大袈裟に肩を落とした。


「いーじゃん!」


「……やだ」


「君にも聞きたいことあるしさ」


「…………」


「あの化け物がまた現れたとき、襲われたら私も守れるし」


……化け物。


その言葉で、クリスマスの夜を思い出した。


「……別に、守んなくていいし……」


「え?」


「……あのとき、正直終わっていいって思ってたし……」


「…………」


「……余計なお世話だし……」


彩夏は一瞬だけ黙った。


しかし、すぐにいつもの笑顔を浮かべる。


「いいからいこ!」


「えっ」


突然、手を掴まれた。


「ちょ、待っ……!」


「ほらほらー!」


「うわっ! ちょ……!」


彩夏は私の手を引き、教室を飛び出した。


……何なの、この子!


◇


「到着ー!」


「……はぁ……はぁ……」


ショッピングモール。


私は彩夏に連れられ、半ば強制的に買い物へ来ていた。


……帰りたい。


いや、というか。


何で私、こんなところにいるんだろう。


「ねえねえ、ゆってぃ!」


「…………は?」


「これ見てこれ!」


彩夏が変なサングラスを持ってきた。


派手な色のフレームに、馬鹿みたいに大きなレンズ。


……誰が買うの、こんなの。


「はい!」


「え?」


突然、私の顔に掛けられた。


「あはははっ!」


彩夏が大笑いする。


「ゆってぃ、変な顔〜!」


「ちょ……やめ……!」


「似合ってる似合ってる!」


「……てか、ゆってぃって何……?」


「あだ名!」


「…………」


「そっちの方が呼びやすいし、可愛いし、別にいーじゃん!」


「……別に、可愛さとか求めてないし……」


「あはは!」


……本当に、よく笑う子だな。


「次、あそこ行こ!」


「え、ちょ……!」


また手を引かれる。


「……早いって……!」


◇


「おおーっ! 可愛い!」


次に連れてこられたのは、ペットショップだった。


ガラス越しに、小さな犬や猫たちが見える。


「んー、やるかー? このにゃんこめ!」


「シャーッ!」


猫が彩夏を威嚇した。


「おっ、やる気だねぇ!」


「……何を競ってんの……?」


「だって私の方が可愛いでしょ? ね? ね?」


「……知らないよ……」


「えー!」


彩夏は楽しそうに笑った。


……猫相手に張り合う女子高生って何。


すると彩夏が、隣のケースを覗き込んだ。


「あっ、この犬可愛いじゃん!」


「…………」


「確か……ポメラニアン!」


「……はぁ」


私はため息をついた。


「……それ、ポメラニアンじゃなくてマルチーズ」


「おおっ!」


彩夏が目を輝かせた。


「詳しいね! 犬飼ってた?」


「…………」


私は、少しだけ黙った。


「……まあ、小さい頃に、一応……」


「へぇー! いいなぁ!」


「…………」


……ココ。


ふと、その名前が頭に浮かんだ。


◇


――数年前。


『おい侑美!!』


怒鳴り声。


薄暗いリビング。


私は身体を震わせていた。


『タバコ買ってこいって言ったよな!!』


『……でも……』


『あぁ!?』


『お店の人が……子供じゃ買えないって……』


『使えねぇなぁ!!』


父が立ち上がった。


怖い。


また、怒られる。


そのとき。


『ウウウ……!』


小さな白い犬が、私の前に立った。


ココだった。


『ワンッ! ワンッ!』


『ああ? なんだお前』


父が顔を歪める。


『……ダメ!』


私は叫んだ。


『ココには手出さないで!』


『どいてろ!』


父が私を突き飛ばした。


そして。


ココに向かって、足を振り上げた。


『やめて!!』


『お前っ! 家にっ! 居させてっ! やってんだから!』


鈍い音。


小さな鳴き声。


何度も響く、父の怒声。


そして。


……ココの声が、途絶えた。


◇


「……ゆってぃ?」


「…………」


「おーい」


「…………っ」


私は我に返った。


目の前で彩夏が手を振っていた。


「あれ? 大丈夫かー?」


「……あ……」


私は小さく息を吸った。


「……いや、大丈夫。何でもない……」


「んー?」


彩夏は首を傾げた。


「変なのー」


「…………」


私はガラスケースの中の犬を見つめた。


小さなマルチーズが、こちらを見上げている。


……ココ。


私はそっと、目を逸らした。


◇


「ねえねえ! ゆってぃ!」


「……今度は何……?」


「映画見よ!」


「…………は?」


今度は映画館だった。


「何見る何見る!」


「……別に映画見たいって、一言も……」


「いいからいいから!」


彩夏は上映案内を眺めた。


「じゃあ映画は私の奢りで〜」


「……え?」


「ホラー系? アクション系? それとも……恋愛系……?」


彩夏がにやにやしながらこちらを見る。


……何、その顔。


「……はぁ。何でもいいよ……」


「じゃあホラー系ね!」


「…………」


……しまった。


私は。


ホラー映画が、そこまで得意ではなかった。


◇


「いやー、面白かったねぇ!」


上映終了後。


彩夏は楽しそうに感想を話していた。


「あそこであの登場人物が死ぬなんて思わなかったよねぇ!」


「…………」


「てか、あの最後のシーンさぁ!」


「…………」


「あれ?」


彩夏が私の顔を覗き込んだ。


「ゆってぃ? 平気?」


「…………」


「おーい」


目の前で手を振られる。


……無理。


……怖かった。


まだ、心臓がバクバクしている。


「あれー?」


彩夏が私をじっと見つめる。


「もしかして、ゆってぃ……」


「…………」


「ホラー苦手だったりして?」


にやり。


嫌な笑みを浮かべた。


「べ、別にそんなんとか無いから……!」


「ふーん?」


「…………」


「……あれ?」


彩夏が私の背後を見る。


「ゆってぃの後ろに……手……」


「ひっ……!?」


思わず振り向いた。


……何もいない。


「…………」


「あははははっ!」


彩夏が大笑いした。


「やっぱり苦手じゃん!」


「……っ!」


「弱みゲット〜! えへへ!」


彩夏が逃げ出した。


「……性格悪っ……!」


「あはは!」


「あ、この……!」


私は彩夏を追いかけた。


そのとき。


ふっと、頬が緩んだ。


「…………あれ?」


足が止まる。


……私。


今。


……笑った?


「あはは! やっと笑った!」


彩夏が振り向いた。


「…………!」


「いやー、よかったよかった!」


「べ、別に……!」


私は顔を背けた。


……なんなの。


別に、楽しくなんか。


……いや。


楽しかった。


認めたくなかった。


私は、あの日。


この世から消えるはずだった。


自分の人生なんて、もうどうでもいいと思っていた。


なのに。


……こんな時間が、あるなんて。


「思ってた通り」


「……?」


彩夏が笑った。


「やっぱり、ゆってぃって笑うと可愛いじゃん」


「…………」


何も言い返せなかった。


◇


その後。


私たちはショッピングモール内のカフェに入った。


「あー、さっきのゆってぃ面白かった!」


「……うるさいなぁ……」


「あはは! ごめんごめん!」


彩夏は楽しそうに笑いながら、飲み物を口にした。


私はストローをくわえ、窓の外を眺める。


……変な子。


でも。


……何だろう。


不思議と、嫌じゃなかった。


「あ、そうそう!」


「……ん?」


「今日、いきなり呼び出してごめんね!」


「……今さら……」


「あはは!」


彩夏は少しだけ表情を変えた。


「あれから、何もなかった?」


「……あれから……?」


「ほら、クリスマスの夜」


「…………」


「変なの見えたりとか、襲われたりとか」


私は首を横に振った。


「……一応、あの後は特に何も……」


「そっかぁ! よかった!」


彩夏は安心したように笑った。


「それでさ、聞きたいことがあるんだけど」


「……何……?」


「あれが見えるようになる前、何か変わったことなかった?」


「……変わったこと……?」


私は考えた。


あの日の夜。


バイトが終わって。


コンビニに寄って。


帰り道を歩いて。


……そういえば。


「……確か……」


「うんうん」


「……捨て猫がいて……」


「…………」


「食べ物あげて、カーディガン掛けてあげたくらい……?」


彩夏の表情が変わった。


「……猫?」


「……うん」


「どんな猫だった?」


「……白くて、小さくて……」


私は思い出しながら答えた。


「……目の色が、左右で違った……」


「…………」


「青と……金色だったかな……」


彩夏は顎に手を当てた。


「……やっぱり」


「……?」


「あの猫ちゃんに触ったんだね……」


「……どういうこと……?」


彩夏は少し考え込んでから、口を開いた。


「実はね、私もなんだ」


「……え?」


「私も、あの猫ちゃんに触った後から、あれが見えるようになったんだ」


「…………」


私は目を丸くした。


「……何それ……」


「んー、私も詳しいことは分からないんだけどさ」


彩夏はストローをくるくる回した。


「境界猫っていう、あんまり出ない珍しい個体なんだって」


「……境界猫……?」


「そそ。普通の猫とはちょっと違うんだよねぇ」


「…………」


私はカップを見つめた。


……あの猫が?


ただの、捨て猫じゃなかったの?


「……じゃあ……」


「ん?」


「……あれって、何なの……?」


私は彩夏を見た。


「……あの化け物……」


彩夏の表情が、少し真剣になった。


「……まあ、ゆってぃには知っておく必要があるか」


「…………」


「あれはね――」


――その瞬間だった。


ドォォォォンッ!!


「きゃああああっ!!」


女性の悲鳴。


激しい揺れ。


カフェのテーブルが大きく跳ねた。


「っ……!?」


「うわっ!?」


食器が床に落ち、砕け散る。


天井の一部が崩れ落ちた。


「地震!?」


「逃げろ!!」


周囲が一気にパニックになる。


私は椅子にしがみついた。


……何!?


何が起きてるの!?


「……ちっ」


彩夏が舌打ちした。


「よりによって、なんでこんな時に……!」


その視線は、天井へ向けられていた。


私も、恐る恐る顔を上げた。


「…………っ!!」


そこにいたのは。


巨大な怪物だった。


天井を突き破り、こちらを覗き込んでいる。


クリスマスの夜に見た怪物とは、比べ物にならないほど大きい。


黒い巨体。


何本もの長い腕。


建物を簡単に破壊できそうな爪。


「……な……何、あれ……!」


「ゆってぃ!」


彩夏が叫んだ。


「あれ、見えてるよね!?」


「う、うん……!」


「そっか!」


彩夏は立ち上がった。


「ゆってぃは逃げて! あれはこっちで何とかするから!」


「……え!?」


彩夏が右手を下にかざした。


すると、何もない空間から光が集まり、一本の武器が現れた。


刀身の長い、奇妙な剣。


「……!」


「じゃ、行ってくる!」


次の瞬間。


彩夏は地面を蹴った。


信じられない高さまで跳び上がる。


怪物へ斬りかかった。


しかし。


ガァンッ!!


「っ……!!」


怪物の巨大な腕が、彩夏を叩き落とした。


「きゃっ!!」


彩夏の身体が床を滑る。


「彩夏……!」


私は思わず叫んだ。


怪物が吠える。


天井がさらに崩れ落ちた。


……怖い。


逃げたい。


また、あの夜みたいに。


しかし、彩夏はすぐに立ち上がった。


「ったく……!」


剣を構える。


「友達とのデートを邪魔するなんて、空気読んでよねっ!」


……友達。


今、友達って。


彩夏は再び怪物へ飛びかかった。


鋭い斬撃。


怪物の腕が切断される。


「やった……!」


そう思った瞬間。


切り落とされた腕が、見る見るうちに再生した。


「……嘘……!」


「あー、やっぱ再生するかぁ……!」


彩夏が着地する。


怪物の腕が振り下ろされた。


――ドゴォッ!!


「っ……!!」


彩夏の身体が吹き飛ばされる。


「彩夏!!」


私は駆け寄ろうとした。


すると。


「来ないで!」


彩夏が叫んだ。


「ゆってぃ! パス!」


「……え!?」


何かが、こちらへ飛んできた。


私は反射的に受け止めた。


「……っ!」


小さな女の子だった。


泣いている。


彩夏の方を見ると、彼女は透明な壁のようなものを展開していた。


その向こうで怪物の爪が何度も叩きつけられている。


「……流石に一般人守りながらだと、分が悪いかなぁ……!」


彩夏は歯を食いしばった。


「ゆってぃ! その子連れて逃げて!」


「で、でも……!」


「いいから!」


怪物が吠える。


「私は大丈夫! 早く!」


「…………っ!」


私は女の子の手を握った。


「……こっち!」


崩れかけた通路を走る。


何とか階下の避難場所までたどり着いた。


非常灯が点滅している。


幸い、そこには避難してきた人たちが何人かいた。


私は女の子の前にしゃがみ込んだ。


「……ここで、いい子にできる……?」


「……うん……」


女の子は涙を流していた。


「……でも……」


「……?」


「……お母さんが……」


「…………」


「お母さんがいないの……!」


女の子が泣き出した。


「…………っ」


お母さん。


その言葉に、胸が締めつけられた。


「……最後に、一緒にいたのはどこ……?」


「……映画館……」


「…………」


映画館。


四階。


そこは、今。


彩夏が怪物と戦っている場所だった。


「…………」


……無理。


あんなところ。


もう、行きたくない。


怖い。


また死にかけるかもしれない。


……でも。


女の子が私の服を握った。


「……お姉ちゃん……」


「…………」


私はゆっくり息を吸った。


……こんな小さな子を。


一人にしておけない。


「……私が……」


声が震えた。


「……私がお母さんを探してくるから……」


「……え……?」


「ここで、いい子に待てる……?」


女の子が不安そうに私を見上げた。


「……うん……でも、お姉ちゃん大丈夫……?」


「…………」


私は小さく頷いた。


「……大丈夫」


女の子の手を、そっと離す。


「……絶対、お母さんを見つけて帰ってくるから」


避難していた大人に女の子を頼み、私は立ち上がった。


そして。


再び、四階へ向かって走り出した。


◇


「っ……はぁ……はぁ……!」


階段を駆け上がる。


上から、何度も轟音が響いていた。


怖い。


足が震える。


……でも。


約束したから。


あの子と。


絶対に、お母さんを見つけるって。


「……っ!」


四階に到着した。


そこには、まだ彩夏がいた。


「……え!?」


彩夏がこちらを見た。


「ちょ……ゆってぃ!? なんで戻ってきたの!?」


「……あの女の子の……!」


私は息を切らしながら叫んだ。


「……お母さんが、ここにいるって……!」


「えぇ!?」


「……映画館にいたって……聞いて……!」


「無茶だよ!」


彩夏が剣を構えた。


「私が何とかするから! 大人しく下に行ってて!」


「この状況でどうやって何とかするの!?」


「それは……!」


その瞬間。


怪物の腕が、彩夏を捉えた。


ドゴォォンッ!!


「きゃあっ!!」


彩夏が壁へ叩きつけられた。


「彩夏!!」


土煙が舞い上がる。


私は必死に彼女のところへ走った。


「……っ」


彩夏は壁に背を預け、座り込んでいた。


額から血が流れている。


「……あはは……」


彩夏は苦笑した。


「Sクラスかぁ……ついてないなぁ……」


「……っ!」


私は彼女の前にしゃがみ込んだ。


「……お母さん探して、早く逃げよ……!」


「……んー……」


彩夏は首を横に振った。


「できないよ……私の仕事なんだから……」


「……仕事って……!」


「……あは」


彩夏が、少しだけ笑った。


「初めてゆってぃ助けた時も、そう言ったっけなぁ……」


「…………」


「……でもね」


彩夏は私を見た。


「あの時、ゆってぃのこと助けた本当の理由はね……」


「…………」


「……もっと生きたいって顔、してたからだよ……」


「……私が……?」


「……うん」


彩夏はゆっくり頷いた。


「ゆってぃ、あの時、もう死んでもいいって思ってたでしょ……」


「…………っ」


「途中で、逃げるのやめちゃったもんね……」


「…………」


「でも……最初は必死に逃げてた」


彩夏は小さく息を吐いた。


「……理由は、詳しく分からないけどさ……」


「…………」


「……ゆってぃの中には、まだ生きたい気持ちが残ってるんじゃないかなって……」


私は何も言えなかった。


「……私の仕事はね……」


彩夏は、崩れた天井を見上げた。


「……もっと生きたいって人を、生きながらえさせることなんだ……」


「…………」


「だから……ゆってぃ」


彩夏が剣を握り直した。


「……ここにいたら危ないよ……」


「……彩夏……」


「私が時間を稼ぐから……」


彩夏は立ち上がろうとした。


「……その間に、あの子のお母さん見つけて、返してあげて……」


「……でも……!」


「……ん?」


「……でも、あんたまで死んだらどうすんの……!?」


彩夏は少し黙った。


「……分からない……」


「…………!」


「……でも、今できる限りのことをやるつもり……」


「…………」


その言葉を聞いた瞬間。


胸の奥で、何かが切れた。


「……ふざけんな……」


「……え?」


「……ふざけんなって言ってんの……!」


彩夏が驚いたように私を見る。


「何が仕事だからだよ……!」


「……ゆってぃ……?」


「何が時間を稼ぐだよ……!」


声が震える。


止められなかった。


「あんた……死ぬかもしれないんでしょ……!?」


「……まあ、そうかもしれないけど……」


「だったら逃げればいいじゃん!!」


「…………」


彩夏は困ったように笑った。


「私だって逃げたいよ……」


「…………」


「正直、怖い……」


彩夏は怪物を見上げた。


「……でも、私がいなきゃ、ここの人みんな死んじゃうでしょ……?」


「……だからって!!」


私は叫んだ。


「あんたが死んでいい理由にはなんないでしょ!!」


「…………!」


彩夏は何も言わなかった。


私は、今までにないくらい震えていた。


「……正直、今日……」


涙が滲む。


「……あんたのこと、最初鬱陶しいと思ってたよ……」


「……ゆってぃ……?」


「学校でも……私に偏見持たずに話しかけに来るし……」


声が途切れそうになる。


「……私と違って友達も多くて……」


「…………」


「……羨ましかった……」


彩夏が目を見開いた。


「映画とか……買い物とか……」


私は唇を噛んだ。


「……あんな、くだらないことして……」


目から涙がこぼれる。


「……久しぶりに……楽しいって思えたんだよ……?」


「…………」


「勝手に友達とか言って……!」


私は彩夏の服を掴んだ。


「勝手に連れ回して……!」


涙が止まらなかった。


「……それで……勝手に死のうとするなんて……!」


彩夏は、ただ黙って私を見つめていた。


「……自分勝手にも程があるでしょ……!!」


今まで、何もかもが嫌だった。


学校も。


バイトも。


家も。


この世界も。


「……私……ずっと……」


声が震える。


「……こんな世界、なくなればいいって思ってた……」


「…………」


「……自分なんて、いつ死んでもいいって……」


涙が頬を伝う。


「……でも……」


私は彩夏の服を、ぎゅっと握りしめた。


「……あんたが死ぬのは……嫌だ……!」


沈黙が流れた。


遠くで怪物が吠えている。


建物が軋む音が響く。


それでも彩夏は、私の顔をじっと見つめていた。


「…………そっか」


やがて、彩夏は小さく微笑んだ。


「……私も、ゆってぃともっと遊びたいなぁ」


「…………っ」


「……うん」


彩夏は頷いた。


「……分かった」


「…………」


「じゃあ……」


彩夏が私の手を握った。


「……一緒に、お母さん連れて……一緒に生き残る方法、探そっか……」


「…………!」


私は涙を拭った。


「……うん……!」


その瞬間だった。


グオオオオオッ!!


怪物が巨大な腕を振り下ろした。


砕けた瓦礫が、こちらへ飛んでくる。


「……危ない!!」


私は反射的に両手を前に突き出した。


――キィィンッ!!


「…………え?」


透明な壁。


淡い光を放つ壁が、私たちの前に現れていた。


瓦礫が衝突する。


しかし。


壁は、びくともしなかった。


「……何、これ……?」


私は自分の手を見つめた。


光が揺らめいている。


彩夏が目を細めた。


「……やっぱり、出ちゃったか……」


「……え?」


「……いやー、でも言っちゃったもんねぇ」


彩夏は苦笑した。


「ゆってぃを面倒事に巻き込まないって……」


「…………」


「正直、ゆってぃには戦ってほしくないかな……」


彩夏は私を見た。


「……でも、その力をどう使うかは、ゆってぃ次第だよ」


「…………」


私は、震える手を見つめた。


……怖い。


今も、逃げたい。


でも。


「……私……」


私は顔を上げた。


「……約束しちゃったから……」


「……ん?」


「……あの子に……」


私は彩夏を見た。


「……絶対、お母さん連れてくるって……」


彩夏は一瞬驚いたように目を丸くした。


そして。


「あは……そっか」


いつもの笑顔を浮かべた。


「……じゃあ、反撃開始ってことで!」


◇


怪物が再び腕を振り下ろしてきた。


「っ……!」


私は両手を突き出す。


透明な壁が攻撃を受け止めた。


ドゴォンッ!!


「……っ!」


衝撃が腕を伝う。


痛くはない。


けれど、すごい圧力だった。


「ゆってぃ!」


彩夏が叫んだ。


「まずは慣れないことばっかだと思うから、先輩の私の指示を聞いて!」


「……せ、先輩……?」


「そそ! 戦闘では私の方が先輩だから!」


彩夏は剣を構えた。


「あの化け物、腕とか切っても再生するから、弱点は別にあると思う!」


怪物が攻撃を繰り返す。


私は必死にバリアを維持した。


「……確証はあんのっ……!?」


「ああいう化け物には必ず弱点ってものが存在するの!」


彩夏が腰のポーチに手を伸ばした。


「死なない化け物はいないよ!」


「……じゃあ、私にできることって何……!?」


「難しいことはしないよ!」


彩夏は小型のゴーグルを取り出し、装着した。


「ただ、攻撃を受けてて!」


「……はぁ!?」


「ちょっと解析するから!」


「…………っ!」


……簡単に言ってくれる。


怪物の爪が、何度もバリアを叩く。


ガンッ!


ガンッ!!


「……ねぇ……!」


「んー、ふむふむ……」


「……まだ……!?」


「もうちょい待ってて!!」


「……っ!」


私は必死に腕を伸ばし続けた。


だんだん息が苦しくなってくる。


……何これ。


バリアって、出してるだけで疲れるの……!?


彩夏のゴーグルに、いくつもの光が映っていた。


「……ん?」


彩夏の表情が変わる。


「……あった……!」


「……え!?」


「ゆってぃ!」


彩夏が叫んだ。


「私の掛け声でバリア解ける!?」


「……はぁ!?」


私は目を見開いた。


「バリア解いたら攻撃当たっちゃうでしょ……!?」


「いいから! 私に考えがある!」


「…………!」


彩夏は剣を構えた。


「……三!」


「ちょ、本当にやるの!?」


「二!」


「待ってってば!」


「一!」


「…………っ!」


「いいよ!!」


私は反射的に手を下ろした。


バリアが消える。


怪物の爪が迫る。


「……っ!!」


しかし。


ガキィィンッ!!


彩夏が横から飛び込み、その攻撃を弾いた。


怪物の腕が大きく逸れる。


「ナイス!」


彩夏の剣が閃いた。


ズバァッ!!


怪物の腕が切り落とされる。


「次、ゆってぃ!」


「……え!?」


「そのまま真っ直ぐ突っ切って!」


「……はぁ!?」


「化け物の大振りが三秒後に来るから、大きくスライディング!」


「えぇ……!?」


……何言ってんの、この子!


でも。


……信じるしかない。


私は走り出した。


一。


二。


三――!


「……っ!」


身体を滑り込ませる。


直後。


ブォンッ!!


巨大な腕が頭上を通過した。


「……本当に来た……!?」


「でしょー!」


彩夏が笑った。


「ゆってぃ! 腕に力入れてみて!」


「……え!?」


「えっと……何か飛び出るものイメージしながら!」


「……何それ!?」


「いいからいいから!」


「……えっと……こう!?」


私は必死に手を突き出した。


その瞬間。


ジャララララッ!!


「…………!?」


空間から、光る鎖が飛び出した。


何本ものチェーンが怪物の両腕へ巻きつく。


「……なんか出た……!?」


「いいよ! そのまま!」


怪物が暴れる。


鎖が強く引っ張られた。


「……っ、重い……!」


「あとちょっと!」


彩夏が地面を蹴った。


高く、高く跳び上がる。


怪物の胸元。


ゴーグルが解析した、再生の核が存在する場所。


「……さっきの……!」


彩夏が剣を振り上げた。


「……お返し!!」


光の刃が、怪物の胸を貫いた。


――ズドォォンッ!!


怪物が大きく仰け反る。


胸元から亀裂が広がり、黒い身体が崩れ始めた。


「…………!」


怪物は最後に大きく吠えた。


そして。


灰のように崩れ落ち、消えていった。


「…………」


私は呆然と立ち尽くしていた。


……倒した。


本当に。


「ふぅー!」


彩夏が地面に着地した。


「いっちょ上がり!」


「…………」


「いやー、危なかったねぇ!」


彩夏は額の血を拭った。


「でもまあ、ゆってぃがいないと、一時はどうなることかと思ったよ」


「……え……?」


「助かった!」


彩夏はにっこり笑った。


そして、私の前に手のひらを差し出した。


「ほい!」


「…………?」


「ほら!」


「……あ、うん……」


私は遠慮がちに手を合わせた。


パチンッ。


「いえーい!」


彩夏が嬉しそうに笑った。


「初勝利〜!」


「……別に、倒したのはあんたでしょ……」


「えー、何言ってんの!」


彩夏は首を振った。


「二人で倒したんじゃん!」


「…………」


……二人で。


その言葉が、不思議と胸に残った。


「あっ!!」


彩夏が突然叫んだ。


「……何……?」


「そうだ! お母さん探さないと!」


「……あっ!」


……そうだった。


あの女の子。


約束。


「……行こ!」


「うん!」


◇


私たちは崩れた映画館へ向かった。


瓦礫が散乱し、通路の一部は塞がれていた。


彩夏が周囲を調べ、私は残っていた人たちに声を掛けて回った。


そして。


「……誰か……!」


かすかな声が聞こえた。


「……!」


私は足を止めた。


「彩夏!」


「ん!?」


「……こっち……!」


声のした方向へ走る。


崩れた壁の向こう。


そこに、一人の女性がいた。


「……ミカ……!」


女性は必死に娘の名前を呼んでいた。


「……大丈夫ですか……!?」


「……娘が……娘がいないんです……!」


「…………!」


私は女性の手を握った。


「……大丈夫……!」


涙が出そうになった。


「……ミカちゃん、無事です……!」


「……え……?」


「……安全なところで、待ってます……!」


女性の目から涙がこぼれた。


「……本当……ですか……?」


「……はい……!」


彩夏が瓦礫をどかし、女性が通れる道を作った。


私もバリアを使って、落下しそうな破片を防いだ。


何とか救助を終える頃には、腕が鉛のように重くなっていた。


……もう、限界。


それでも。


私は女性の手を離さなかった。


◇


「……ミカ!」


避難場所へ戻った瞬間。


女性が叫んだ。


「お母さん!!」


女の子が駆け寄ってきた。


二人は強く抱き合った。


「ミカ……! よかった……!」


「お母さん……! 怖かったよぉ……!」


「ごめんね……! ごめんね……!」


女の子は母親の胸に顔を埋め、泣いていた。


私は、その様子を黙って見つめていた。


「……ありがとうございます……!」


女性が何度も頭を下げる。


「本当に……ありがとうございます……!」


「いえいえ〜!」


彩夏が笑った。


「無事で何よりです!」


「…………」


私は、母親に抱きしめられているミカちゃんを見つめた。


……よかった。


本当に。


……よかった。


胸の奥が、じんわり温かくなる。


「……ね、ゆってぃ」


「……ん……?」


彩夏が私の方を向いた。


そして、嬉しそうに笑った。


「私のやりがいはね」


「…………」


「こうやって、また笑顔が戻る瞬間を目の当たりにすることなんだよ」


「…………」


私はもう一度、親子を見た。


二人とも泣いていた。


でも。


確かに、笑っていた。


「……そっか……」


私は小さく頷いた。


……何となく。


分かる気がした。


◇


「さて!」


彩夏が大きく伸びをした。


「帰ろっか!」


「……うん……」


「あー、疲れた疲れた!」


彩夏は笑いながら、鞄を探そうとした。


そして。


「…………あ」


動きが止まった。


「……?」


「……やばっ!!」


「……何……?」


「カバン!!」


彩夏が頭を抱えた。


「明日の課題、入れっぱじゃん!!」


「…………」


「てか、あいつに叩き潰されたし!! 最悪!!」


……。


……え。


さっきまで、世界の終わりみたいな戦いをしてたのに。


今、心配するのがそれ?


「……あのさ……」


「うわぁぁ! どうしよ!」


「……私の、二枚あるけど……」


「…………え?」


「……あげよっか……?」


彩夏が固まった。


そして。


「ゆってぃぃぃ!!」


「うわっ!?」


突然、抱きついてきた。


「マジで神〜!!」


「ちょ、重っ……!」


「ありがとぉぉ!」


「……分かったから……離れて……!」


「あはは!」


彩夏は涙目で笑っていた。


……ほんと。


変な子。


私は小さく、ため息をついた。


でも。


……嫌じゃなかった。


◇


その日の夜。


私は家に帰った。


玄関の扉を開ける。


「……ただいま」


「あ、おかえりー!」


母の声がした。


「今日、侑美、珍しく帰り遅かったじゃない」


「……うん……」


「お友達と遊んでた?」


「…………」


私は一瞬だけ黙った。


今までだったら。


きっと、適当に誤魔化していたと思う。


友達なんていないから。


遊びに行く相手なんて、いなかったから。


でも。


今日は。


「……うん」


私は靴を脱いだ。


「……楽しかったよ」


「……!」


母が少し驚いた顔をした。


そして、嬉しそうに笑った。


「そっかぁ!」


「…………」


「あ、でも学生だから、遊びに行くのに三万円じゃ足りないか!」


「……え?」


「必要になったらまた言って! お小遣い一万円あげるから!」


「……いいって……」


「子供のうちは遠慮しなくていいの!」


「……本当にいいから……」


「でも、たまには好きなことして遊びなさいよ?」


「……分かってるって……」


私は小さく息を吐いた。


……ほんと。


お母さんも、心配性なんだから。


リビングのテレビでは、ニュース番組が流れていた。


『続いてのニュースです』


「…………」


『本日一月八日、午後六時二十三分頃、ショッピングモール付近で局地的な強い揺れが観測されました』


私はテレビに目を向けた。


『この影響で、ショッピングモールの一部が陥没し、建物が大きく損壊したことが明らかになっています』


「…………」


映し出されているのは、さっきまでいたショッピングモールだった。


『なお、現時点で負傷者の報告はないとされています。警察と消防が詳しい原因を調べています』


「…………」


私は、あの巨大な怪物を思い出した。


鋭い爪。


崩れ落ちた天井。


そして。


剣を握り、笑っていた彩夏の姿。


……やっぱり。


ニュースでは、怪物のことなんて一言も言わない。


あの夜も、そうだった。


父親の死は、植木鉢の落下事故として報道された。


今日も、怪物による破壊が地震として報道されている。


……この世界。


本当は、どうなってるの……?


「侑美?」


「……ん?」


「どうしたの? テレビそんなに見つめて」


「……いや」


私は首を横に振った。


「……何でもない」


「そう?」


「……うん」


私は自分の部屋へ戻った。


ベッドに座り、スマートフォンを取り出す。


画面には、今日撮った写真が何枚か残っていた。


変なサングラスを掛けた私。


その隣で、大笑いしている彩夏。


「…………」


……何これ。


変な顔。


「……ふふっ」


思わず、小さく笑ってしまった。


……あ。


また、笑った。


私は写真を見つめた。


今日一日。


本当に、色々なことがあった。


怖かった。


死ぬかと思った。


泣いた。


でも。


……楽しかった。


私はスマートフォンを胸に抱え、ベッドに横になった。


明日も学校がある。


バイトもある。


きっと、嫌なこともたくさんある。


この世界が、急に優しくなったわけじゃない。


私の人生だって、何も解決していない。


……だけど。


明日、学校に行けば。


また、あのうるさい子が隣にいる。


きっと、馬鹿みたいに笑いながら話しかけてくるんだろう。


『ゆってぃー!』


……なんて。


「……ほんと、うざ……」


小さく呟く。


でも、口元は少しだけ緩んでいた。


私は目を閉じた。


――この世界の裏側で。


一体、何が起きているのか。


あの怪物たちは、何なのか。


彩夏は、何者なのか。


そして。


どうして、私にあんな力が宿ったのか。


まだ、何も分からない。


けれど。


確かなことが、一つだけあった。


……明日も。


あの子と、話したい。


そんなことを思ったのは。


……いつ以来だろう。


◇


同じ頃。


街の片隅。


雪の残る路地裏に、一匹の白い猫が座っていた。


右目は青。


左目は金色。


猫は静かに夜空を見上げていた。


その金色の瞳に、一瞬だけ奇妙な光が宿る。


誰も気づかない。


誰も知らない。


この世界には、もう一つの世界が存在していることを。


そして。


人々が当たり前のように過ごしている平和な日常が、何者かによって守られ続けていることを。


「……にゃー」


猫は小さく鳴いた。


やがて、雪の降る夜の闇へと姿を消した。


少女たちの物語は。


まだ、始まったばかりだった。


第1話 こんな世界、なくなってしまえばいい。 

― 完 ―

私たちが当たり前のように過ごしている、何気ない日常。


その平和が、誰によって守られているのか。


誰も知らない。誰も気づかない。


そして、ある少女は願っていた。


「こんな世界、なくなってしまえばいい」と。


これは、そんな少女が明日を見つけるまでの物語。

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