ASDの彼女の心に刺さった棘はどこから来たのか?
最近、付き合っている彼女の家庭環境を分析した。彼女の心に刺さっている棘が、どこから来たのか考えるためだ。
※彼女が嘘をついている、記憶違い等の信憑性にかける話は厳しく除外し、私が直接見た情報を考慮して分析した。
・彼女の母親には、ASDの二次障害として人格障害の疑いがある。
そのルールへの固執の仕方、とりわけ「人に良いこと以外言ってはいけない」というマイルールが、守るべき道徳として最上位にある。
このマイルールは、「娘が大好きな祖母が入院し、亡くなったとしても、悪いことだから娘(彼女)には言わない」「子供が間違っていても怒ることは悪いことだから、言わない」といった数々の歪さを生み出している。
・この母親はシングルマザーであるが、その元夫はカサンドラ症候群に陥っていた可能性がある。
この夫は「キレやすい」という話だった。
しかし、さまざな情報を結びつけると、ASDの傾向にある母と長年付き合う中で、自己効力感の低下や母親の「怒らない」というルールで、悪魔に育った子供たちに手を焼いていたように見える。
・歪に育った子供たちは家庭内の権力を独裁し、「家族」という狭いコミュニティ内で異常なルールが定着した。
私の彼女は末っ子であり、年が10個も離れた姉が三人いる。
この三人の姉は、いわば「学校内で権力を持っていると勘違いした三人組」であり、末っ子である彼女を三人で苛めていた。
具体的なイジメの一例をあげるが、
自分たちが持ってきた食べ物に、彼女がアレルギーゆえに食べれない物があった。
すると、2人の姉が「固形がダメなん?粉末がダメなん?」と凄まじい剣幕で末っ子である彼女を怒鳴り散らし、怯えた彼女はその食べ物を食べてしまった。
その結果、トイレで酷く吐いている彼女を三人の姉は気にもとめず、笑っていいともを見ていた。
こういった生命や信頼を破壊する行為が常習化してる。
そして、長女である姉は言う。
「〇〇(彼女)が可愛いと思ったから保育士の資格を取ったよ。いつもありがとう。」と。
・家族の「愛」を求めた彼女は、愛を知らない姉たちの「家族って大切だよ」という言葉を信じ、母親や姉たちにイジメられる。
私の彼女は境界知能であり、不安障害を抱えたASDでもある。
ASDの特性として、「言葉とその表情や行動が表すズレの意図が分からない」というものがあるが、それが彼女をこの異常な環境に縛る要因になっている。
彼女の母親は、「家族関係を改善したい」と彼女に言う。
しかし、不安障害を患っている彼女が何年も「お母さんの不安を私にぶつけるのは止めてほしい。不安障害の治療が進まない」と伝えても、その母親は自分の不安を言うことを止めない。
むしろ、「私の不安も言っとかないといけないので」と開き直っている。
これはいわゆる″ダブルバインド″に近い状況だ。
「あなたと仲良くしたい」という表向きのルールと、「あなたのことより、私が優先」という裏のルールが彼女を縛っている。
私は冒頭で、彼女の母親はルールに固執すると言った。「人に良いこと以外言ってはいけない」というルールは、この母親にとって世界の真理に等しい最上位のルールだ。
では、なぜ彼女が「止めて」と伝えても、この母親は彼女に「不安」をぶつけるのだろう?
「不安」は良いことではないはずだ。
私の推測ではこうだ。
「人に良いこと以外言ってはいけない」というルールを解体すると、「自身の評価の失落やトラブルを回避する」ためのルールと捉えることができる。
つまり、この母親は自分への不利益を嫌っているだけであって、「人に良いこと以外言ってはいけない=人を傷つけてはいけない」という道徳的ルールで運用しているわけではない。
だから彼女が何度も、何年も、「止めて」と伝えても、自身の不利益を回避するために、彼女を自分の不安を解消するためのゴミ箱として扱う。
この母親が彼女に祖母の死を伝えなかったのも、自身の子供を怒らないのも、自分の「閉じられた世界の安寧」を守るための行動だ。
この母親が「関係を改善したい」と伸ばした手は、自分の不利益(子供とうまくいっていない母親という称号)を取り除くためであり、目の前にいる不安障害を抱えた娘を抱きしめるための、温かい腕ではない。
それゆえに、彼女の心には何度も棘が刺さる。
母親や家族は、特別なものであるため、
かけがえのない存在だからこそ求めてしまう。
そこにあるはずのない温もりを、
彼女はいまも、いつも、求めている。
それは決して、悪いことではないはずだ。
分析をしてみて、既存の知識ではない新しいアプローチが必要だと思う。
私は彼女のことが、本当に好きだから。
ASDだとしても関係ない。
彼女がこの先、どんな状態になろうとも、
私は彼女の側に居続ける。
【あとがき】
「ASDの人はサイコパスだ」という風潮がある。
現に、このエッセイの本文に書かれた「苦しむ彼女を無視してテレビを見る三人組の姉」や「自分の不利益を回避するためなら、″人の死″という特殊な状況も無視する母親」といったサイコパスのような人物がいる。
確かにサイコパスの匂いがする。
しかし、私が接したASDの人やASDの研究を行う研究者のコラム、Netflix「ラブ・オン・スペクトラム ~自閉症だけど恋したい!~」を見る限り、″単なるASD″は人の感情が分からないサイコパスではないと私は感じる。
ASDはサイコパスではないという話をするうえで、「道徳感情論」という人間の感情や共感について書いた古典の話を簡単にするが、そこには「人間は本能的に他人に共感してしまう機能がある」と言った話が書かれている。
具体的には、腕を今にも切り落とされそうな人を見ると、私たちは関係がないのに自分の腕が痛くなったりする。
これは人間が無意識に共感する力「本能的共感力」を持つからだと、その古典では考察されている。
この「本能的共感力」をASDの人は持っている。
自分が誰かを傷つけたら悲しいし、パニックにもなる。泣いている人を見ると自分も悲しくなるし、何とかしてあげたいと感じる。
ただ、目の前にいる人が「なぜそんなことを言うのか?」、「なぜそんな反応をするのか?」といった状況の推測や将来の予測が苦手なだけだと思う。
つまり、単なるASDの人はサイコパスのような悪意の塊ではなく、良心を持っている。良心が欠如しているサイコパスとは違う。
ではなぜ、本文に出てくる母親や姉たちは、サイコパスに見えるのだろうか?
私の推測では、単なるASDに、環境的な要因が加わり、二次障害として人格が歪んでしまったのではないかと思う。それがサイコパスに見える原因だと思う。
彼女の母親は単なるASDではない。
自分が怒鳴って泣いている娘に無機質な顔で「なぜ泣いているのか?」と問いかけるし、「やめて」と言っても娘に危害を加え続ける。
娘が「祖母に何かあったら教えてね」と約束をしたのに、マイルールである「人に良いこと以外いってはいけない」を優先し、祖母が亡くなったあとにポロっと教える。
この母親は、それらの行為が「親子の信頼を完全に破壊する行為である」という認識(あるいは、死は特別なものという暗黙の了解)がなく、祖母の死は、いつか娘の耳に届くという簡単な将来を想像する力もない。
その後も「仲良くしたい」と、血の通わないプラスチックの腕を不安におびえた娘に何度も伸ばす様子を見るに、単なるASDでは片付けられない、共感力、想像力が著しく欠如した「極めて自己中心的な人間」だと感じる。
この自己中心的な母親に育てられた三人の姉は、ASDの気質を持ちつつ、
・子供のような嘘が社会で通じると思い込む
・私たちは凄い人間であり、周りは私達の駒である
・思い通りに動かないなら怒りや加害でコントロールする
といった「自己中心的で支配的な性質」を持ってしまった。
これは自分の不利益を回避する母親、父親の不在といった閉鎖的な環境が、三人組の姉たちにエコーチェンバー(極度に閉ざされたコミュニティ内で意見が歪む状態)を引き起こし、極度に肥大化した自己愛がサイコパス的気質を作り出したからだと、私は思う。
三人組のリーダーである長女は、子供を5人産み家庭を持っている。「立派な大人を見せてあげたい」と子供を学校に通わせず、自分の都合で動く無料の駒として、あちこちに子供を連れ回してる。
旦那さんとの関係は冷え切っている。
それでも長女は、「未来の子どものため」というスローガンを掲げて、子供が担ぐ神輿に乗りながら今日も街を歩いている。
彼女たちは「単なるASD」ではない。
歪で閉ざされた環境によって、共感力や想像力が欠如した″特殊なASD″だと私は思う。




