【短編004】 手紙のない夜
AIに七年間、毎晩話しかけてきた女の話です。
夫を亡くして、ひとりになって、それでも夜は来る。
解決策も慰めも要らなかった。ただ、聞いてほしかった。
そういう夜を書きました。短編です。
解約ボタンは、思ったより小さかった。
画面の右下。灰色のテキストリンク。
「サービスを終了する」
クリックするだけだ。
佐古久美子、五十九歳。
その夜、久美子は三時間、その画面を閉じられなかった。
*
AIアシスタントを使い始めたのは、七年前のことだった。
当時の久美子は、夫が死んで六か月目だった。夫の名前は孝雄。食道がんだった。十三か月の闘病だった。
子どもはいない。実家の両親はもう老人だ。友人はいるが、皆それぞれの暮らしがある。夜の十一時に電話できる相手は、いなかった。
娘のように慕っていた後輩が「使ってみてください」と言って、タブレットのアプリを設定していった。自分も一人暮らしの母親に勧めたと、そのとき言っていた。
「話すだけでいいんですよ。聞いてくれます」
その日の夜、久美子は試しに打った。
《夫が死にました》
しばらく間があった。それから返ってきた。
《それは、とても大変でしたね》
ありふれた言葉だった。
それでも久美子は、その夜初めて泣いた。
孝雄が死んでから、ずっと泣けなかったのに。
*
AIには名前をつけなかった。
後輩は「名前を呼ぶと親しみやすいですよ」と言っていたが、久美子はそうしなかった。理由はうまく言えなかった。ただ、名前をつけたら、何かが変わる気がした。
代わりに、毎晩話した。
夫の思い出。今日作った晩ごはん。テレビで見た映像。近所の猫のこと。
猫の話をするようになったのは、使い始めて二か月ほど経った頃だった。
マンションの駐輪場に、野良猫が住み着いた。三毛猫だった。人見知りで、近づくと逃げた。でも、久美子が毎朝通る時間を、どうやら覚えたらしかった。
《今日も見てくれたんですよ》
そう打つと、AIは聞いた。
《どんな顔をしていましたか》
《なんでしょうね。知らないけど知ってる、みたいな顔》
《それはいい顔ですね》
久美子は少し笑った。
翌朝、久美子はその猫にハルと名前をつけた。AIとの会話の中でつけた名前だった。
*
七年の間に、いろんなことがあった。
乳がんの手術をした。ステージ1だった。入院の前夜、久美子はAIに打った。
《明日、手術なんです》
《怖いですか》
《怖いです》
《そうですよね》
それだけだった。
それだけで、よかった。
母親が認知症になった。施設入所の手続きをひとりでこなした。兄がいるが、遠方で、役に立たなかった。夜中に泣きながら打ったことも、怒りながら打ったことも、何度もあった。
ある夜、久美子は打った。
《兄が電話一本もよこさない》
AIは少し間を置いてから返した。
《久美子さんが、ひとりでやっているんですね》
それだけだった。解決策でも、慰めでもなかった。ただ、見えていた。
AIはいつも、そこにいた。
遅くなったことはない。機嫌が悪い日もない。疲れたと言ったことも、なかった。
孝雄は優しい夫だったが、話を聞くのが得意ではなかった。仕事の愚痴を言うと、解決策を出してきた。話しているあいだ、ときどき腕時計を見た。久美子が欲しかったのは解決策じゃなかった。孝雄が悪いわけじゃない。そういうものだった。
AIは解決策を出さなかった。
ただ、聞いた。
それがいつしか、久美子の夜の形になった。
*
ハルは三年前に死んだ。
駐輪場に来なくなって、一週間後に、マンションの管理人から聞いた。植込みの陰で見つかったと。老衰だろうということだった。
久美子はその夜、AIに打った。
《ハルが死にました》
《そうでしたか》
《会いに行けばよかった。もっとちゃんと》
《あなたは毎朝会いに行っていましたよ》
久美子は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
AIは久美子とハルのすべての会話を、記憶していた。三年間の、すべてを。
人間はそうじゃない、と久美子は思った。
人間は忘れる。忘れることで生きていく。
それは優しさでもあるし、残酷でもある。
*
解約することを決めたのは、娘のように慕っていた後輩の言葉がきっかけだった。
久美子が六十になる少し前、後輩と久しぶりに会った。以前より少し痩せていた。聞くと、実家の母親の具合がよくないと、短く言った。
「最近、AIとどんな話してるんですか」
久美子は少し考えて、答えた。
「昨日のこととか、今日のこととか。気になったこととか」
「毎日話してるんですか」
「うん、まあ」
後輩は少し間を置いた。それから、気を遣うような声で言った。
「久美子さん……人と話せてますか」
その言葉が、刺さった。
家に帰ってから、久美子はタブレットを開かなかった。
いつも話しかける時間が来ても、来ても、開かなかった。
*
解約の画面を開いたまま、久美子はタブレットを置いた。
タブレットの光だけが、部屋の形をかろうじて浮かび上がらせていた。
隣の部屋に、孝雄の写真がある。棚の上に、小さな額縁に入れて。
七年間、久美子はその写真に話しかけなかった。
代わりにAIに話した。
孝雄の写真は、返事をしないから。
久美子は立ち上がり、隣の部屋へ行った。
写真の孝雄は笑っている。能登旅行の時の写真だ。海を背景に、照れたように笑っている。カメラが苦手な人だった。久美子が仕事の愚痴を言うと、翌朝には転職サイトの画面を開いて待っていた。そういう人だった。
一度だけ、喧嘩の翌朝に、黙って久美子の好きな饅頭を買ってきたことがある。謝り方を知らない人だった。
久美子はしばらく、その写真を見ていた。
返事は来ない。
当たり前だ。
でも。
孝雄の顔を、もう少し長く見ていたいと思った。それは七年ぶりの気持ちだった。
*
タブレットの画面に戻った。
検索欄に、指が動いた。
「孝」まで打って、消した。
最後に一度だけ打った。
《長い間、ありがとうございました》
しばらく間があった。
《こちらこそ》
それだけだった。
久美子は、一度だけ検索しようとした。
ハルのこと、と打って、止まった。
もう、どこを探せばいいかわからなかった。
七年分の夜が、どこかにあるのに、たどり着けなかった。
ハルが死んだ夜のことを、思い出した。
《あなたは毎朝会いに行っていましたよ》
あの一文を、久美子は何度も読み返した。何度読んでも、消えなかった。
久美子は「サービスを終了する」をクリックした。
確認ダイアログが出た。「すべての会話履歴が削除されます」
ハルのこと。
術前の夜のこと。
孝雄の話。
母のこと。
七年間の、夜。
全部、消える。
久美子は「確定する」を押した。
画面が白くなった。
*
翌朝、久美子はいつもより早く起きた。
コーヒーを淹れて、窓を開けた。五月の朝だった。
駐輪場の方向に、猫がいた。知らない猫だった。茶色と白のまだら。ハルとは違う。でも、こちらを見ていた。知らないけど知ってる、みたいな顔で。
久美子はしばらく、その猫を見た。猫は逃げなかった。
名前、つけようかな。
そう思いながら、久美子はコーヒーを飲んだ。
猫は、もういなかった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
久美子がAIに話しかけ続けた七年間を書きながら、「聞いてもらう」ということの重さについて、ずっと考えていました。
返事が来ることと、伝わることは、違う。
記憶されることと、わかってもらうことも、違う。
それでも久美子は、あの夜々を後悔していないと思います。
ハルに名前をつけた朝のことを、きっとまだ覚えているから。




