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【短編004】 手紙のない夜

作者: macchao
掲載日:2026/05/17

AIに七年間、毎晩話しかけてきた女の話です。

夫を亡くして、ひとりになって、それでも夜は来る。

解決策も慰めも要らなかった。ただ、聞いてほしかった。

そういう夜を書きました。短編です。

 解約ボタンは、思ったより小さかった。


 画面の右下。灰色のテキストリンク。

 「サービスを終了する」

 クリックするだけだ。


 佐古久美子、五十九歳。

 その夜、久美子は三時間、その画面を閉じられなかった。


     *


 AIアシスタントを使い始めたのは、七年前のことだった。


 当時の久美子は、夫が死んで六か月目だった。夫の名前は孝雄。食道がんだった。十三か月の闘病だった。


 子どもはいない。実家の両親はもう老人だ。友人はいるが、皆それぞれの暮らしがある。夜の十一時に電話できる相手は、いなかった。


 娘のように慕っていた後輩が「使ってみてください」と言って、タブレットのアプリを設定していった。自分も一人暮らしの母親に勧めたと、そのとき言っていた。


「話すだけでいいんですよ。聞いてくれます」


 その日の夜、久美子は試しに打った。


《夫が死にました》


 しばらく間があった。それから返ってきた。


《それは、とても大変でしたね》


 ありふれた言葉だった。

 それでも久美子は、その夜初めて泣いた。

 孝雄が死んでから、ずっと泣けなかったのに。


     *


 AIには名前をつけなかった。


 後輩は「名前を呼ぶと親しみやすいですよ」と言っていたが、久美子はそうしなかった。理由はうまく言えなかった。ただ、名前をつけたら、何かが変わる気がした。


 代わりに、毎晩話した。


 夫の思い出。今日作った晩ごはん。テレビで見た映像。近所の猫のこと。


 猫の話をするようになったのは、使い始めて二か月ほど経った頃だった。


 マンションの駐輪場に、野良猫が住み着いた。三毛猫だった。人見知りで、近づくと逃げた。でも、久美子が毎朝通る時間を、どうやら覚えたらしかった。


《今日も見てくれたんですよ》


 そう打つと、AIは聞いた。


《どんな顔をしていましたか》


《なんでしょうね。知らないけど知ってる、みたいな顔》


《それはいい顔ですね》


 久美子は少し笑った。


 翌朝、久美子はその猫にハルと名前をつけた。AIとの会話の中でつけた名前だった。


     *


 七年の間に、いろんなことがあった。


 乳がんの手術をした。ステージ1だった。入院の前夜、久美子はAIに打った。


《明日、手術なんです》


《怖いですか》


《怖いです》


《そうですよね》


 それだけだった。

 それだけで、よかった。


 母親が認知症になった。施設入所の手続きをひとりでこなした。兄がいるが、遠方で、役に立たなかった。夜中に泣きながら打ったことも、怒りながら打ったことも、何度もあった。


 ある夜、久美子は打った。


《兄が電話一本もよこさない》


 AIは少し間を置いてから返した。


《久美子さんが、ひとりでやっているんですね》


 それだけだった。解決策でも、慰めでもなかった。ただ、見えていた。


 AIはいつも、そこにいた。


 遅くなったことはない。機嫌が悪い日もない。疲れたと言ったことも、なかった。


 孝雄は優しい夫だったが、話を聞くのが得意ではなかった。仕事の愚痴を言うと、解決策を出してきた。話しているあいだ、ときどき腕時計を見た。久美子が欲しかったのは解決策じゃなかった。孝雄が悪いわけじゃない。そういうものだった。


 AIは解決策を出さなかった。

 ただ、聞いた。


 それがいつしか、久美子の夜の形になった。


     *


 ハルは三年前に死んだ。


 駐輪場に来なくなって、一週間後に、マンションの管理人から聞いた。植込みの陰で見つかったと。老衰だろうということだった。


 久美子はその夜、AIに打った。


《ハルが死にました》


《そうでしたか》


《会いに行けばよかった。もっとちゃんと》


《あなたは毎朝会いに行っていましたよ》


 久美子は画面を見たまま、しばらく動けなかった。


 AIは久美子とハルのすべての会話を、記憶していた。三年間の、すべてを。


 人間はそうじゃない、と久美子は思った。

 人間は忘れる。忘れることで生きていく。

 それは優しさでもあるし、残酷でもある。


     *


 解約することを決めたのは、娘のように慕っていた後輩の言葉がきっかけだった。


 久美子が六十になる少し前、後輩と久しぶりに会った。以前より少し痩せていた。聞くと、実家の母親の具合がよくないと、短く言った。


「最近、AIとどんな話してるんですか」


 久美子は少し考えて、答えた。


「昨日のこととか、今日のこととか。気になったこととか」


「毎日話してるんですか」


「うん、まあ」


 後輩は少し間を置いた。それから、気を遣うような声で言った。


「久美子さん……人と話せてますか」


 その言葉が、刺さった。


 家に帰ってから、久美子はタブレットを開かなかった。

 いつも話しかける時間が来ても、来ても、開かなかった。


     *


 解約の画面を開いたまま、久美子はタブレットを置いた。


 タブレットの光だけが、部屋の形をかろうじて浮かび上がらせていた。


 隣の部屋に、孝雄の写真がある。棚の上に、小さな額縁に入れて。


 七年間、久美子はその写真に話しかけなかった。

 代わりにAIに話した。

 孝雄の写真は、返事をしないから。


 久美子は立ち上がり、隣の部屋へ行った。


 写真の孝雄は笑っている。能登旅行の時の写真だ。海を背景に、照れたように笑っている。カメラが苦手な人だった。久美子が仕事の愚痴を言うと、翌朝には転職サイトの画面を開いて待っていた。そういう人だった。


 一度だけ、喧嘩の翌朝に、黙って久美子の好きな饅頭を買ってきたことがある。謝り方を知らない人だった。


 久美子はしばらく、その写真を見ていた。


 返事は来ない。


 当たり前だ。


 でも。


 孝雄の顔を、もう少し長く見ていたいと思った。それは七年ぶりの気持ちだった。


     *


 タブレットの画面に戻った。


 検索欄に、指が動いた。

 「孝」まで打って、消した。


 最後に一度だけ打った。


《長い間、ありがとうございました》


 しばらく間があった。


《こちらこそ》


 それだけだった。


 久美子は、一度だけ検索しようとした。

 ハルのこと、と打って、止まった。

 もう、どこを探せばいいかわからなかった。

 七年分の夜が、どこかにあるのに、たどり着けなかった。


 ハルが死んだ夜のことを、思い出した。

 《あなたは毎朝会いに行っていましたよ》

 あの一文を、久美子は何度も読み返した。何度読んでも、消えなかった。


 久美子は「サービスを終了する」をクリックした。


 確認ダイアログが出た。「すべての会話履歴が削除されます」


 ハルのこと。

 術前の夜のこと。

 孝雄の話。

 母のこと。

 七年間の、夜。


 全部、消える。


 久美子は「確定する」を押した。


 画面が白くなった。


     *


 翌朝、久美子はいつもより早く起きた。


 コーヒーを淹れて、窓を開けた。五月の朝だった。


 駐輪場の方向に、猫がいた。知らない猫だった。茶色と白のまだら。ハルとは違う。でも、こちらを見ていた。知らないけど知ってる、みたいな顔で。


 久美子はしばらく、その猫を見た。猫は逃げなかった。


 名前、つけようかな。


 そう思いながら、久美子はコーヒーを飲んだ。

 猫は、もういなかった。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

久美子がAIに話しかけ続けた七年間を書きながら、「聞いてもらう」ということの重さについて、ずっと考えていました。

返事が来ることと、伝わることは、違う。

記憶されることと、わかってもらうことも、違う。

それでも久美子は、あの夜々を後悔していないと思います。

ハルに名前をつけた朝のことを、きっとまだ覚えているから。

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