第九話 託児所(キッズスペース)の開設と、最強の営業妨害
吾輩はダンジョンである。
子供という生き物は、純粋である。
純粋であるがゆえに、残酷であり、無秩序であり、そして何より――うるさい。
吾輩の胃壁(壁面)には、このところ常に微細な振動が走っている。
ドタドタドタ、キャンキャンキャン。
安普請のアパートの二階に、ヤンキーな大家族が越してきたような騒ぎだ。
犯人は、あの二匹の子狼である。
母であるシャドウウルフ(元・手負いの母狼)が警備に出ている間、この二匹の毛玉は、吾輩の体内を我が物顔で暴れ回る。
第一通路の「滑る床」は、彼らにとっては天然のスケートリンクだ。
爪を立ててガリガリとブレーキをかけられるたびに、吾輩の表皮が削れる痛みが走る。
天井からぶら下がるコウモリは、彼らにとっては「空飛ぶオモチャ」だ。
ジャンプ一番、噛みつかれたコウモリが悲鳴を上げて墜落する。
そして何より被害甚大なのが、清掃員のスライムである。
プニプニした感触が、歯の生え変わり時期の子狼にはたまらないらしい。
甘噛みされ、振り回され、引き伸ばされ、最近のスライムは、明らかに色が悪い。
――やめろ。
――そこは罠のスイッチだ。軽いから作動しないが、カチャカチャ音をさせるな。気になって眠れん。
吾輩の精神的疲労がピークに達した頃、警備担当のゴブリンが血相を変えてやってきた。
『……話がある』
ゴブリンは、ボロボロの腰布を指差した。
裾が食いちぎられている。
『業務に支障が出てる。待ち伏せしようと隠れていたら、あのチビどもが俺の尻尾を噛みに来た。おかげで冒険者にバレて、逆に追い回された』
――災難だったな。
『災難で済むか。俺は戦士だぞ。ベビーシッターじゃない』
ゴブリンは床に座り込み、深刻な顔で言った。
『このままじゃストライキだ。職場環境の改善を要求する。あのチビどもをどこかに隔離してくれ』
隔離。
言葉は悪いが、理には適っている。
このままでは、罠も魔物も機能不全に陥る。職場崩壊だ。
オフィスに子供がいる場合、どうすればいいか。
社員が安心して働ける環境とは何か。
……そうか。
「企業内託児所」だ。
最近のホワイト企業は、子育て支援に力を入れているという。
親が働いている間、子供を安全な場所に預ける。そうすれば親(シャドウウルフ)も安心、他の社員(ゴブリン)も業務に集中できる。
完璧だ。
吾輩は、天才かもしれない。
さっそく、吾輩は「リフォーム」に着手した。
場所は、入口から少し離れた袋小路の小部屋。普段は誰も通らないデッドスペースだ。
まず、床材を変える。
石畳の上に、弾力のある苔を何層にも重ねて敷き詰める。転んでも痛くない、極上の絨毯仕様だ。
壁の突起物は全て撤去し、角を丸く削る。
天井は高くし、換気を良くする。
さらに、スライムの中から「特に弾力があって丈夫な個体」を選抜し、遊び相手として常駐させる。
完成した。
名付けて――
『ダンジョン・キッズスペース』。
効果はてきめんだった。
子狼たちは、フカフカの苔に大喜びで転がり回り、無限に湧き出る小さな水場で水を飲み、疲れたらスライムを枕にして眠るようになった。
母狼も、涙ながらに感謝した。
『主よ……なんと慈悲深い。これで私も、憂いなく狩りができます』
ゴブリンも満足した。
『静かだ。これでようやく、陰湿な不意打ちに集中できる』
吾輩の胃痛も治まった。
ダンジョン内に平和と秩序が戻った。
福利厚生の充実は、経営の要である。吾輩は、自らの経営手腕に酔いしれていた。
――そう、ここまでは良かったのだ。
ここまでは。
誤算が生じたのは、数日後のことである。
その日は、週末だった。
週末のダンジョンには、ライト層の冒険者が増える。
お弁当持参のカップルや、度胸試しの学生グループなどだ。
彼らは、袋小路にあるその部屋を見つけてしまった。
「あ、見て! なんかいる!」
「うわ、ちっちゃい! ワンちゃんだ!」
若い女の冒険者が、黄色い声を上げた。
子狼たちは、人間に慣れていない。だが、敵意も知らない。
彼らは、無邪気に尻尾を振って近づいていった。
「きゃー、かわいい!」
「噛まないよ、すごい大人しい!」
撫でられる子狼。
喜んで腹を見せる子狼。
それを見て、デレデレになる冒険者たち。
――おい。
――待て。違う。
――そこは『キッズスペース』だが、同時に『魔物の巣』だぞ。
――なぜ警戒しない。なぜ武器を捨てる。
吾輩の困惑をよそに、事態は悪化の一途を辿った。
「ここ、なんか凄く居心地よくない?」
「床がフカフカしてる。休憩にちょうどいいじゃん」
「セーフティエリアってやつか! 運営優しいなー」
冒険者たちが、どっと座り込んだ。
リュックから干し肉を取り出し、子狼に与え始める。
子狼は餌付けされ、ますます懐く。
写生用具や記録結晶を取り出し、子狼とのツーショットを撮り始める者まで現れた。
吾輩の腹(ダンジョン内)から、「恐怖」のエネルギーが急速に消失していく。
代わりに満ちていくのは「癒やし」「安心」「愛玩」。
これらの感情は、吾輩にとっては毒だ。
甘すぎる。
砂糖をそのまま飲まされているような、胸焼けがする。
噂はすぐに広まった。
『あそこのダンジョン、奥にかわいい守護獣がいるよ』
『癒やしスポットらしい』
『初心者でも安心の、アットホームな迷宮!』
アットホーム。
最も言われたくない言葉だ。
吾輩は「恐怖の迷宮」を目指しているのだ。「ふれあい動物広場」を経営しているつもりはない。
だが、追い出そうにも、子狼たちが人間の膝の上で眠っている。
ここで天井を落としたりすれば、子狼ごと潰してしまう。
母狼であるシャドウウルフも、
『子供たちが可愛がられている……エサも貰っている……なら、まあ、いいか』
と、遠巻きに見守るだけで襲おうとしない。
詰んだ。
完全に、詰んだ。
吾輩は、壁のシミになりたい気分だった。
無邪気さとは、最強の盾であり、最強の矛である。
どんなに恐ろしい罠も、無邪気な笑顔の前では無力化される。
その日、吾輩の摂取カロリー(恐怖)はほぼゼロだった。
その代わり、胃もたれだけが残った。
夕暮れ時。
ライト層の冒険者たちが「あー楽しかった、また来ようねー」と帰っていった後。
重い足音が響いた。
カシャン、カシャン。
あの三人組だ。
鎧男、女戦士、魔術師。
彼らは、甘ったるい残り香が漂うダンジョンに入ってきた。
吾輩は身構えた。
見られたくない。今の腑抜けた空気を、彼らにだけは見られたくない。
だが、彼らは一直線に「あの部屋」へ向かった。
そこには、遊び疲れて眠る二匹の子狼と、食べ残された干し肉、そして冒険者が忘れていったリボンが落ちていた。
三人は、その光景を無言で見下ろした。
沈黙が痛い。
――笑うなら笑え。
――堕ちたものだと、罵るがいい。
吾輩が覚悟を決めた時、鎧男が低く呻いた。
「……最悪だ」
え?
「ここには、子供がいる」
女戦士が顔を青ざめさせ、斧を強く握りしめた。
「子供を育てているダンジョン……。ただの巣じゃないわ。ここは『繁殖』を目的とした、コロニーよ」
繁殖?
魔術師が、震える指で眼鏡の位置を直した。
「あの柔らかな床。安全な環境。一見すると優しさに見える。だが……これは『次世代の捕食者』を、何ひとつ不自由なく育てるための揺り籠だ」
彼は、眠る子狼――今はただの可愛い毛玉――を、恐怖に満ちた目で見つめた。
「人間を油断させ、餌付けさせ、人間への警戒心を解かせる。そして成長した時、彼らは人間を『ただの肉』として認識し、無邪気に狩るだろう。……なんて狡猾な」
鎧男が頷く。冷や汗が頬を伝っている。
「子供がいる場所ほど、信用ならん。……親の防衛本能は、通常の魔物の比ではないからな」
三人は背中を合わせて、全方位を警戒し始めた。
先ほどのライト層とは比べ物にならない、濃密で、ピリピリとした極上の「恐怖」。
――え、そういう解釈?
吾輩は驚いた。
彼らの目には、この平和なキッズスペースが「魔王軍の英才教育施設」に見えているらしい。
シャドウウルフが、闇の中からぬらりと姿を現した。
子供たちに近づく武装集団を警戒してのことだ。
その蒼い瞳が光った瞬間、三人の緊張は頂点に達した。
「出たな、マザー(母体)!」
「子を守る親は狂暴だぞ、気を抜くな!」
激しい戦闘音。
金属音。爆裂音。
そして、三人の喉から絞り出される、本気の咆哮と悲鳴。
吾輩の胃の奥が、じんわりと温かくなった。
美味い。
これだ。この味だ。
甘ったるいお菓子の後の、渋いお茶のような。
五臓六腑に染み渡る、勘違いと深読みの味。
吾輩は悟った。
「無邪気さ」もまた、使い方によってはスパイスになる。
子供がいるから安全、ではない。
子供がいるからこそ、親は必死になり、未来の脅威が育まれる。
そう思わせれば、キッズスペースさえも「処刑場」に見えるのだ。
三人は命からがら逃げ帰っていった。
捨て台詞も忘れない。
「あそこはヤバい。倫理観が違う」
「子供をダシにするなんて、とんでもない邪悪だ」
邪悪。
最高の褒め言葉を頂いた。
吾輩はダンジョンである。
子狼たちはまだ眠っている。
彼らが大人になった時、このダンジョンはさらに賑やかになるだろう。
それまでは、精々「アットホームな地獄」を演出してやろうと思う。
……まあ、とりあえず。
あのアホみたいなリボンだけは、スライムに消化させておこう。
威厳に関わるからな。




