第七話 聖女の祈りと、精神汚染
吾輩はダンジョンである。
恐怖を食らい、絶望を啜り、人間の「うわ、もう帰りたい」という負の感情を糧に生きている。
飲食店に例えるなら、激辛料理専門店だ。
客が汗をかき、悶絶し、ヒィヒィ言いながら帰っていくのを見て、店主(吾輩)が満たされる。そういうシステムである。
だが、世の中には店のコンセプトを根本から破壊する客がいる。
激辛スープに勝手に砂糖をぶち込み、「これで皆さんも食べやすくなりましたね!」と笑顔で宣うような輩だ。
それが、こいつだ。
白一色の法衣。金色の髪。慈愛に満ちた瞳。
杖を持った女――どうやら「聖女」と呼ばれる種族らしい。
彼女は、吾輩の胃の中(中央広間)に、勝手に「救護所」を開設していた。
「さあ、もう大丈夫ですよ。痛くありませんね?」
聖女が杖を振るう。白い光が溢れ、怪我をして呻いていた冒険者の傷が塞がる。
「おお、痛みが引いた……! ありがとう聖女様!」
「ああ、なんと清らかな……」
冒険者たちが涙を流して感謝する。
その瞬間、ダンジョン内に充満していた「恐怖」と「苦痛」という極上のスパイスが、急速に中和されていく。
――不味い。
吾輩は、こみ上げる吐き気をこらえた。
味がしない。
さっきまで濃厚な豚骨ラーメン店のようだったダンジョンの空気が、一瞬で「病院の待合室」のような、清潔で無味乾燥なものに変わってしまった。
――営業妨害だ。
――食い逃げだ。いや、食わせないようにしているのだから、兵糧攻めか。
ダンジョン内で回復魔法を使うこと自体は、禁止していない。
だが、それはあくまで「ギリギリの状態で一命を取り留める」ためのものだ。
ここまで完璧に、しかも笑顔で「全快」させてどうする。恐怖がゼロになってしまったではないか。
これでは、お化け屋敷の途中で照明を全開にされ、スタッフの解説が入るようなものだ。興醒めもいいところである。
吾輩は管理職として、この事態を看過できない。
――おい、ゴブリン。
先日採用したばかりの権利主張型社員に声をかけた。
――あの女を追い払え。物理的に排除せよ。
岩陰で様子を伺っていたゴブリンから、うんざりした思考が返ってきた。
『無理だ。あいつ、結界張ってる』
――結界?
『半径五メートル以内に入ると、身体が焼けるように熱くなる。あれは「聖なる領域」だ。労働環境として劣悪すぎる。労災認定されるレベルだ』
ゴブリンは目を覆って呻いている。
どうやら、あの聖なる光は、魔物にとっては“直射日光の十倍きつい紫外線”みたいなものらしい。
――役立たずめ。
仕方ない。吾輩が直々に手を下す。
とはいえ、物理攻撃はあの結界に阻まれそうだ。
ならば、精神攻撃だ。
この場所を「居心地悪く」して、自発的に退去してもらう。いわゆる追い出し部屋作戦だ。
吾輩は、聖女の頭上の天井から、澱んだ地下水を滴らせた。
腐った苔の成分を含んだ、特製の悪臭水だ。
ポタリ。
雫が、聖女の純白のフードに落ちる。
「……あら?」
聖女が天を仰いだ。
さあ、嫌がれ。服が汚れるのを嘆け。そして「ここは汚いから帰ろう」と思え。
だが、聖女は微笑んだ。
「恵みの雨……。乾いた大地が、泣いているのですね」
――泣いていない。
――ヨダレだ。あるいは嫌がらせのツバだ。
「かわいそうに。このダンジョンもまた、浄化を求めているのです」
求めていない。
だが聖女は、あろうことか杖を掲げ、祈り始めた。
「主よ、迷える魂の吹き溜まりに、安らぎを与えたまえ……」
カッ!
強烈な光が炸裂した。
吾輩の内臓(壁)が、白く焼き尽くされるような感覚。
痛くはない。だが、猛烈な不快感。
背中をタワシでゴシゴシ洗われているような、あるいは炭酸水で鼻うがいされているような、強引な刺激。
――やめろ!
――除菌するな! 吾輩は雑菌と共生しているんだ!
――バイオ系ダンジョンとしてのアイデンティティが死ぬ!
ダンジョン内が、フローラルの香りに包まれた。
最悪だ。
ジメジメした陰鬱な空気が売りなのに、高原の教会みたいな空気になってしまった。
そこへ、例の三人組が通りかかった。
鎧男、女戦士、魔術師。彼らは慎重に歩を進めていたが、広間の惨状(キラキラした空間)を見て、口をあんぐりと開けた。
「……なんだ、ここは」
鎧男が呟く。
「空気が……うまい」
「異常だ。魔力濃度が極端に低い。それに、なんだこの花畑みたいな匂いは」
魔術師が顔をしかめる。
そうだ、もっとしかめろ。不快だと言ってくれ。
聖女が三人に気づき、満面の笑みで手招きした。
「皆様、こちらへどうぞ。疲れが溜まっているでしょう? 癒やして差し上げますよ」
三人は顔を見合わせた。
そして、女戦士がボソッと言った。
「……気持ち悪い」
――それだ!!
吾輩は心の中で快哉を叫んだ。
そうだ、ダンジョンに善意の押し売りなど、気色が悪いだけだ。
やはりプロはわかっている。
鎧男が一歩引いて言った。
「罠だ。間違いなく」
「ああ。善意を餌にした、精神汚染系のトラップだ。あの女、幻覚かもしれないぞ」
「目を合わせるな。魅了をかけられるぞ」
三人は、聖女を「高難易度のボスモンスター」認定し、壁際を伝ってスルーし始めた。
聖女がきょとんとする。
「あ、あの……? 私は怪しいものでは……」
「来るな!」
女戦士が斧を向ける。
「その笑顔が逆に怖いんだよ! 裏がある顔だ!」
「ひっ」
聖女が怯んだ。
――いいぞ。
――その調子だ、追い詰めろ。
――善意が通じない相手への困惑。自分の正義が否定された時の動揺。
――それだ、その味が欲しかったのだ!
吾輩の胃の奥が、ようやくじんわりと温かくなった。
“良かれと思ってやったのに拒絶される”という、精神的にくるダメージ。
これは美味い。恐怖とはまた違う、ビターな味わいだ。
結局、聖女は居心地が悪くなったらしい。
助けたはずの冒険者たちは逃げ出し、プロには化け物扱いされ、彼女の笑顔が引きつっていく。
「こ、ここは……人の心が荒んでいます……!」
捨て台詞を残し、彼女は出口へと走っていった。
逃がしたわけではないが、引き止めもしない。二度と来るな。
広間に残されたのは、不自然に綺麗な空気と、フローラルの残り香だけ。
物陰から、ゴブリンがよろよろと出てきた。
肌が少し焼けている。
『……ブラックだ』
ゴブリンが言った。
『職場環境の改善を要求する。サングラスと日焼け止めを支給しろ』
吾輩は、ダンジョンの湿気を操作し、急いでフローラルの香りを消しにかかった。
――わかった。検討する。
――だから、頼むから、どこかからカビのついた靴下でも持ってきてくれ。
――この「清潔な匂い」は、吾輩の体質に合わんのだ。
聖女という名の災害。
物理的な破壊よりも、よほどタチが悪かった。
吾輩はダンジョンである。
世の中には「清められること」が何よりの苦痛である存在がいることを、人間たちはもう少し知るべきである。
次に来たら、落とし穴に直行させてやる。
……いや、穴の中で祈られると困るから、やはり回転扉で即座に排出するのが正解か。
経営の悩みは尽きない。




