第五話 考えすぎる者と、考え足りない者
入口から入ってきた三人組の足音を聞いた瞬間、吾輩の背筋(第一通路)に寒気が走った。
重い。だが鈍くない。
石床を踏むたび、内臓を査察されるような足取りだ。
ああ、これは想定以上だ。
吾輩はダンジョンである。
そして管理職であり、最近ようやく「恐怖という名の食事」に目覚めた初心者だ。その初心者がいきなりプロ冒険者に手を出すのは無謀というもの。
味見程度にしてあまり手を出さず、おとなしくお帰れ頂こう。
「……入口、やけに綺麗だな」
先頭の鎧男が言った。
独り言のようでいて、仲間の意識を一点に集める、よく通る声。
「人が入った形跡は多い。だが……血の匂いがしない」
痛いところを突かれた。
血がないのは、吾輩の失策である。
主婦と子供を入れすぎて、職場がすっかりクリーンになりすぎた。福利厚生の行き届いたホワイト企業のオフィスのような清潔感だ。
「観光地化したダンジョン、ってやつか?」
女戦士が、斧を肩に担いで鼻で笑う。
「油断は禁物だ。こういう所は……」
魔術師の若者が眼鏡の奥で目を光らせる。
言葉を飲み込む癖のある、考えすぎるタイプ。厄介である。
この手のインテリは、こちらの「なんとなく」の行動を、勝手に深読みし、分析し何重もの対策を立てて防ぎ、ドヤ顔をかましてくる奴なのである。
吾輩は、わずかに通路の湿度を上げた。
胃の内側を冷たい指先でなぞられるような、ひやりとした自覚症状。
「……湿ってきた。魔力の密度が上がっている」
魔術師が呟く。
「苔が剥がされた跡だ。つまり、ここは“使われた”後の状態だな」
「使われた、か」
女戦士が床を睨む。
言い得て妙だ。吾輩はここしばらく、完全に「使われていた」。
それも、しがない小銭稼ぎの採取屋に、である。
「使われたダンジョンは、だいたい二択だ。罠が壊れて放置されているか――」
鎧男が足を止める。
「……あるいは、改良され作り直されているか」
――作り直し。
……していない。そんな予算も設計図もない。
吾輩はまだ、寝起きに思いついた悪戯を試しているだけの、行き当たりばったりの経営だ。
だが、プロは深読みする。勝手に吾輩を「恐るべき策略家」に仕立て上げてくれる。
「最近の苔ブームは、この静けさを生み出すための撒き餌だったのかもしれないな」
魔術師が言う。
――違う。
断じて違う。あれはただの事故だ。
だが、訂正できない。訂正できないので、吾輩はコウモリを一匹、わざと間抜けなタイミングで飛ばせてみた。
ばさっ。
「来るぞ!」
即座に男が盾を構える。
「……一匹? 威嚇、いや、スカウティング(偵察)か」
吾輩の腹が、じわりと温かくなる。
いい。実にいい。
恐怖ではない。だが、プロが「判断を誤るかもしれない」と緊張している。
これは、これまでの雑魚(素人)とは比較にならないほど、芳醇で濃厚な味だ。
コウモリを、あえてすぐに引っ込める。
すると彼らは、何もない空間を凝視して動かなくなる。
「様子見か」
「いや……誘っている。引き摺り込むつもりだ」
男が呟く。
誘っている。そう見えるのか。
吾輩は内心、照れくさくなる。偶然だが、ここまでプロを翻弄できると、自分が手練れの罠師にでもなった気分だ。
通路の先で、床をほんの数度だけ傾けてみた。
人間が気づかない程度の、嫌がらせのような傾斜だ。
「……ちっ、三半規管が狂う」
女戦士が顔をしかめ、斧を杖にして体勢を支える。
痛みの一歩手前。焦燥感。これが美味い。
吾輩の胃が、きゅっと鳴った。
「罠じゃない。だが……えげつないな」
男が言った。えげつない。最高の褒め言葉である。
魔術師が空気を撫でるように呪文を唱える。
「……魔力の流れが、定まっていない。意思はあるが、設計に一貫性がない。一見危ういが……それすら計算だとしたら」
計算? 当然していない。
設計が浅い。
その指摘は、新米管理職の胸に深く刺さる。
反射的に、吾輩はスライムを動かした。
ぬるり。
床の一部を、局部的に粘つかせる。
「来た!」
鎧男の足が止まる。スライムは攻撃しない。ただ、不快に絡みつくだけだ。
「くそ、転ぶなよ!」
「わかってる、微妙に関節に来るわねこれ!」
転ばない。だが、転ばないために全身の筋肉が張り詰め、神経が摩耗していく。
吾輩の腹が、はっきりと満足の音を立てた。
「……確信した。このダンジョン、殺しよりも“精神の削り”を狙っている」
魔術師が呻くように言った。
――違う。
いや、違わないが、そんな高度な心理戦のつもりはない。
吾輩はただ、怖がられると気持ちがいいことに気づいただけの、純真な変質者なのだ。
「だが、制御が甘い。まだ殺意よりも、好奇心の方が勝っている」
男の言葉に、吾輩の腹がまた鳴る。
そうだ。殺したくはない。死体が出ると、掃除係のスライムが残業することになる。管理職は現場の負担も考えねばならぬのだ。
宝箱の部屋に辿り着いたとき、三人は冷や汗を流していた。
「ここだな」
「苔が……入口のとは、色が違う」
宝箱の苔は、三人の緊張と期待をたっぷり吸って、深緑に輝いている。
魔術師が言う。
「この苔は……毒ではない。だが、人を選ぶな。意志の弱い者が触れれば、呑まれる」
呑まれる?
選んでいるつもりは全くないが、そう解釈してくれるなら、それが正解でいい。客が勝手に商品価値を高めてくれる。
宝箱を開ける直前、三人の心拍数が完全に重なった。
吾輩の胃が、最大まで膨らむ。フルコースのメインディッシュだ。
――今だ。
床下でスライムをほんの数センチ、拍動させる。
女の足が、つるりと滑った。
「――っ!」
声にならない悲鳴。
転ばない。だが、心臓が口から出そうになる。
吾輩は理解した。
恐怖の真髄とは、派手な悲鳴ではない。
“死ななかった瞬間の、あのひりつくような沈黙”こそが、最高のご馳走なのだ。
宝箱が開き、彼らは苔の一部を採取した。
中身に金品がないことすら、「やはりな、罠の一部か」と深読みして納得してくれた。助かる。
「……引き上げるぞ。対処が早い。きっとここは、育ちかけだ」
魔術師が言った。
「厄介になるぞ。こいつ、今この瞬間も、我々を見て学習している」
違う。学習しているつもりはない。
だが――学習してしまった。
「こうすれば人間は嫌がる」というパターンを、吾輩は身体で覚えてしまった。
帰り際、鎧男がぽつりと言った。
「……嫌なダンジョンだったな。後味の悪さが、癖になりそうだ」
嫌な。
その一言が、食後のデザートのように甘美に響いた。
吾輩の腹は、満腹ではない。
だが、確実に「肥えて」きている。
吾輩はダンジョンである。
まだ素人だが、怖がらせ方の「コツ」は、掴みかけている。
――次は、もう少し天井を低くしてみるか。
あの鎧男が、頭をぶつけて苦悶する顔が見たい。
親切ではない。
ただの職場環境の調整である。




