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吾輩はダンジョンである。腹も立つが、腹も減るのだ ~恐怖を主食にする迷宮管理職のトホホな日常~  作者: 真野真名


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第三十八話 異世界からの迷子と、昭和の歌謡曲




 静寂とは、単なる音の欠落ではない。それは、次に訪れるべき喧騒を際立たせるための舞台装置であり、あるいは過ぎ去った祭りの余韻を楽しむための極上の調味料である。


 深海が静かなのは、そこに水圧という物理的な重みがあるからだが、ダンジョンの静寂には、積み重ねられた歴史と、死と、そして生活の重みが沈殿している。


 吾輩は、この静けさを愛している。

 冒険者たちが帰った後の、石畳が冷えていく気配。カンテラ代わりの発光苔が、主の安眠を妨げぬように光量を落とす瞬間。

 それは、忙しない一日の終わりに訪れる、安酒を一杯だけ煽るような安らぎに似ていた。



 吾輩はダンジョンである。


 最近の吾輩は、極めて安定した精神状態――人間で言えば「満ち足りた中年」のような境地に達していた。


 隣の領主との諍いは収束し、厄介な植物パニックも沈静化した。

 入り口広場に出店した『魔王軒』のラーメンは、冒険者たちに行列を作らせるほどの大盛況。

 従業員(魔物)たちは、日々の糧と適度な運動(戦闘)、そして美味しい賄いに満足し、労働組合の結成などという不穏な動きも見られない。


 平和だ。


 あまりに平和すぎて、ヴォルグが「腹が減った」以外の言葉を発しなくなり、コダマが森の木々に「盆栽」としての美的剪定を施し始めるほどである。


 だが、嵐というものは、得てして快晴の空から前触れもなく降り注ぐものである。

 あるいは、その嵐は、雷鳴ではなく、たった一つの「旋律」としてやってきた。



 時刻は夕暮れ。

 冒険者たちが家路につき、ダンジョン内が閑散とし始めた頃合い。

 入り口のセンサーが、奇妙な侵入者を感知した。


 たった一人。


 魔力反応は皆無。武器の金属音もしない。

 それどころか、発せられている生体反応は、極度の「恐怖」と「混乱」、そして迷子の子供特有の「心細さ」に満ちていた。


 ――なんだ? スライムの変異種か?

 ――いや、人間だ。だが、冒険者ではない。


 吾輩は、第一階層の入り口付近に意識を集中させた。

 そこにいたのは、一人の少年だった。

 年齢は十五、六といったところか。

 だが、その服装が異様だった。


 この世界の住人が着る麻や皮の服ではない。黒く、滑らかで、妙に角張った上着。首元まで詰められた襟。そして、足元には革靴。


 詰め襟の学生服?


 吾輩の知識データベースにはない服装だ。だが、なぜかそのシルエットを見た瞬間、吾輩の記憶回路の奥底で、錆びついた歯車がギチリと鳴った気がした。


 少年は、震えていた。

 顔面は蒼白で、呼吸は浅い。服は泥と汗で汚れ、頬には擦り傷。

 どうやら何らかの「召喚事故」に巻き込まれ、貴族の実験場から逃げ出してきたようだ。


 異界の衣服をまとった少年は、奴隷商人にとって格好の「商品」――珍しい召喚者は、高値で売買されるのだから。


 彼は、わけもわからず逃げ回った末に、このダンジョンという「穴」に逃げ込んでしまったらしい。

 彼は、岩陰に身を隠すと、ポケットから掌サイズの「黒い板」を取り出した。

 魔道具だろうか。

 いや、微かに光を放っている。

 少年は、その板を操作し、耳に小さな紐のようなものを装着した。

 そして、深く深呼吸をして、画面をタップした。


 次の瞬間。

 静寂に満ちたダンジョンの空気が、震えた。

 流れてきたのは、歌だった。


 だが、吟遊詩人が竪琴で爪弾くような、牧歌的な調べではない。

 もっと複雑で、厚みがあり、電気的な信号を帯びた音の奔流。

 重厚なベース音。軽快なドラム。煌びやかな管楽器の音色。


 そして、女性のハスキーで都会的な歌声。

「夜の街角で」「すれ違う二人」「忘れられない」――断片的に聞こえる歌詞が、都会の孤独と、それでも誰かとの繋がりを求める切なさを歌っている。


 ――なんだ、これは。


 吾輩は、その旋律を聴いた瞬間、全身(全階層)に電流が走るような衝撃を受けた。

 知らない曲だ。

 この世界の音楽ではない。

 なのに、なぜこれほどまでに、胸が締め付けられるのか。


 その曲調は、どこか哀愁を帯びていた。

 ネオンサインが雨に濡れる夜の街。

 排気ガスと香水の混じった匂い。

 最終電車の吊革の揺れ。

 コンクリートのジャングルで、孤独を紛らわせるために聴いた、あの安っぽいけれど温かいメロディ。


 シティ・ポップ。あるいは、歌謡曲。そんな単語が、泡沫のように浮かんでは消える。


 吾輩は、その音に魅入られた。

 恐怖エネルギーを喰らうのとは違う。もっと直接的に、魂の柔らかい部分を撫で回されるような感覚。

 懐かしい。

 理由もなく、無性に懐かしくて、涙が出そうになる。


 少年は、膝を抱え、音楽に没入することで、異世界の恐怖から己を守ろうとしているようだった。

 その姿が、かつて深夜のオフィスで、缶コーヒー片手にラジオを聴いていた「誰か」の姿と重なる。


 ――守らねばならん。


 吾輩の中で、唐突に、しかし強烈な保護本能が芽生えた。

 これは「客」ではない。

 「迷子」だ。

 それも、吾輩と同じ「何か」を背負った、同類の匂いがする迷子だ。


 吾輩は、全階層の魔物たちに緊急指令を発した。


 ――総員、傾注せよ。

 ――第一階層にいる「黒い服の少年」は、VIPである。

 ――指一本触れるな。驚かせるな。ただ、遠巻きに見守れ。


 魔物たちがざわめく。


 特に、厨房にいたスライム(転生者)の反応は劇的だった。

 彼は、壁越しに微かに聞こえてくるその旋律を耳にした瞬間、液状の体を激しく波打たせ、プルプルと震え出したのだ。

「(こ、このリズムは……まさか……日本の……!?)」


 彼は何かを知っているようだったが、言葉にはならず、ただ感動に打ち震えている。


 だが、この感傷的な時間を、無粋な足音が踏み荒らした。


 入り口のセンサーが、新たな侵入者を感知した。

 三人組。

 武装しているが、冒険者特有の「誇り」や「好奇心」が感じられない。

 彼らから漂うのは、腐った肉のような欲望と、暴力の匂い。

 人攫い。

 あるいは、奴隷商人。


 彼らは、少年の足跡を追って入ってきたのだ。

 異界の衣服をまとった少年は、彼らにとって「希少な商品」に見えたのだろう。


「おい、いたぞ。あそこだ」

「へへっ、逃げ込みやがって。ここなら誰も見てねえ」

「上玉だ。高く売れるぞ」


 男たちが、下卑た笑みを浮かべて少年に近づく。

 少年は音楽に没入しており、彼らの接近に気づいていない。

 男の一人が、背後から少年の肩を掴もうと手を伸ばした。


 ――触るな。


 吾輩の思考が、氷点下まで冷え込んだ。

 ダンジョンに入ってくる冒険者を殺すのは、自然の摂理だ。

 だが、吾輩の敷地内で、吾輩が保護を決めた「迷子」に対し、土足で踏み込み、商品を扱うように拉致しようとする行為。

 それは、大家に対する侮辱であり、何より――。


 ――この曲を、止めるな。

 吾輩の逆鱗に、彼らは触れた。


 ――パープル。ヴォルグ。コダマ。

 ――やれ。

 ――ただし、少年の耳に入っている「音」を邪魔するな。

 ――リズムに合わせろ。芸術的に処理せよ。


 『御意』


 脳内で、パープルの嬉しそうな声が響いた。

 男の手が、少年の肩に触れる寸前。

 ダンジョンの照明(発光苔)が一斉に明滅した。

 まるで、ダンスホールのミラーボールのように。


 ズン、ズン、ズン。

 少年のイヤホンから漏れ出るベース音に合わせて、床が振動する。


「な、なんだ!?」


 男たちが狼狽える。


 次の瞬間、天井から「死の舞踏家」が降り立った。

 色部パープルである。


 今日の彼女は、なぜか「アフロのカツラを被った白磁の壺」という、ファンキーな出で立ちである。


『……踊り狂え、無粋な輩どもよ』


 パープルが指を鳴らす。

 それに合わせて、壁から無数の槍が飛び出した。


 槍は男たちを串刺しにはせず、彼らの服の袖や裾だけを正確に縫い止め、壁に磔にした。


「うわあっ!?」

「な、なんだこれは!」


 動けない彼らの頭上に、今度は巨大な影が落ちる。


 竜王ヴォルグだ。

 彼はブレスを吐く代わりに、その巨体で「ステップ」を踏んだ。


 迷宮に響く重低音が、ドラムのビートと完全にシンクロする。

 その衝撃波だけで、男たちは三半規管を揺さぶられ、嘔吐しそうになる。


『リズムが悪いぞ、人間。もっと軽やかに悲鳴を上げろ』


 さらに、コダマの森から出張してきた蔦が、男たちの足首に絡みつき、天井へと吊り上げた。

 彼らは空中で振り子のように揺らされる。


 そこへ、スライムたちが飛びつき、顔面に張り付く。


「んぐっ! んぐぐぐ!」


 窒息寸前の男たち。

 彼らの視界には、明滅する光と、踊る骸骨と、ステップを踏むドラゴンと、自分たちを嘲笑うように揺れるスライムの姿。


 それは、地獄のミュージカルだった。

 

 少年は、まだ気づいていない。

 ノイズキャンセリング機能のせいか、あるいはあまりの恐怖で周囲が見えていないのか。

 ただ、サビの盛り上がりに合わせて、涙を流しながら膝を抱えている。


 吾輩は、その光景を見ながら、奇妙な高揚感に包まれていた。


 男たちの絶望などどうでもいい。

 ただ、この空間を満たす「音」と、それに呼応して動く吾輩の肉体ダンジョンの一体感。


 ああ、そうだ。

 かつて、こうしてリズムに身を任せ、嫌なことを忘れた夜があった気がする。

 

 曲が終わる。

 同時に、パープルが最後の指揮を振った。

 床が抜け、吊り下げられていた男たちが、真っ逆さまに「ゴミ捨て場(スライムの消化槽)」へと落下していった。

 悲鳴すら上げられず、彼らは退場した。


 静寂が戻る。

 少年が、ふと顔を上げた。

 曲が終わり、ふと我に返ったのだろう。


 彼は恐る恐るイヤホンを外し、周囲を見渡した。

 そこには、誰もいなかった。

 男たちも、魔物たちも、気配を消して闇に潜んでいる。


 ただ、出口へと続く通路だけが、発光苔によって滑走路のように照らし出されていた。


「……助かった、のか?」


 少年は、震える声で呟いた。

 彼は知能の低い子供ではない。

 先ほどまで感じていた悪意ある気配が消え、代わりに「どうぞお通りください」と言わんばかりの道ができていることに、何者かの意志を感じ取ったのだろう。


 彼は立ち上がり、ダンジョンの奥――吾輩がいるであろう方向に向かって、深々と頭を下げた。


「ありがとうございました!」


 その声には、恐怖はもうなかった。

 代わりに、何か温かいものに触れた時の、安堵が滲んでいた。


「ここ、優しいんですね。……ダンジョンなのに」


 ――行け。

 ――ここは、お前のような子供が来る場所ではない。

 ――元の世界へ帰れるかは知らんが、少なくとも地上へ戻れ。


 吾輩は、光を明滅させて返事をした。


 少年は、小さく笑った。

 そして、光の中へと駆け出していった。

 革靴が石畳を叩く音が、遠ざかっていく。


 だが、その拍子だった。

 彼のポケットから、何かが滑り落ちた。

 それは、小さな黒い手帳のようなもの。

 少年は気づかず、そのまま光の中へと消えていった。


 残されたのは、静寂と、小さな落とし物。

 吾輩は、魔物たちに解除命令を出し、意識をその落とし物へと集中させた。


 スライム(人型)が、それを拾い上げる。

 彼は、それを愛おしそうに撫で、そして吾輩(の意識体)に見せるように開いてくれた。

 そこには、見慣れない、しかし痛いほど馴染みのある文字が並んでいた。


『生徒手帳』

『東京都立……高等学校』

『氏名:……』


 そして、挟み込まれていた一枚の写真。

 制服を着た少年と、その隣で優しげに微笑む女性、そして少し疲れた顔をしたスーツ姿の男性が写っている。


 家族写真だ。

 その男性の顔を見た瞬間。

 吾輩の思考回路が、ホワイトアウトした。


 ――ああ。

 ――知っている。

 ――この、疲れ切った顔。

 ――安っぽいスーツ。

 ――飲み会の帰り、駅のホームの鏡に映っていた、冴えない中年男。


 それは、吾輩だ。

 いや、正確には「吾輩だったもの」の同類だ。


 この写真の男が吾輩であるわけではない。だが、この男が背負っている空気、その背景にある世界、そしてその世界で呼吸していた「自分」という存在が、津波のように押し寄せてきた。


 電車。ビル群。コンビニの明かり。

 書類の山。上司の怒号。部下の失笑。

 そして、冷たくなった指先と、薄れゆく意識の中で聞いた、遠いサイレンの音。


 記憶の蓋が、砕け散った。


「なんとなく懐かしい」などという曖昧な霧が晴れ、残酷なまでに鮮明な「正体」が露わになる。



 吾輩は、ダンジョンである。


 だが、その前は。

 その前は、なんだった?

 スライムが、心配そうにこちらを見上げている。


『(先輩……?)』


 彼がそう呟いた気がした。

 吾輩は、答えられなかった。


 ただ、拾われた生徒手帳の黒い表紙が、墓標のように重く、吾輩のコアにのしかかっていた。




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