第四話 苔バブルの崩壊と、腹の鳴る音
苔ブームというものは、長くは続かない。支えているのは苔ではなく、「楽して儲けたい」という気持ちだ。
それは飽きる。腹が減るより早く。
吾輩はダンジョンである。
吾輩は近頃、入口付近が少し静かになったのを感じていた。
静かになったというより「うるささの質」が変わった。
主婦の咀嚼音が減り、子供の笑い声が減り、代わりに低い声が増えた。
低い声というのは、だいたい怒っている。
入口の壁が、また寒々しくなってきた。
苔が剥がされすぎて、残った苔が「ここ、やばい」と思ったのか、隅へ隅へと引っ込んでいる。苔にも危機管理があるらしい。
そして今の吾輩の入口は、観葉植物が枯れたオフィスの匂いがする。湿気と、諦めの匂いだ。
問題は、腹である。
吾輩はダンジョンである。
ダンジョンには腹がある。比喩ではない。比喩だが、比喩でもない。
人間が恐怖すると、吾輩の内側がじんわり温まる。
それが、最近ない。ないくせに、ゴミだけはある。
最悪の食生活だ。
苔ブームがもたらしたのは、腹ではなく胸焼けだった。
恐怖ではなくクレーム。
冒険ではなく行楽。
吾輩は一時期、ただの湿った商店街になりかけた。
そんな吾輩の胸焼けを、決定的にこじらせる事件が起きた。
「効かねえじゃねえか!」
入口近くで、男の怒鳴り声がした。
声が太い。喉が酒焼けしている。
この手の声の主は、だいたい“客”であり、しかも“面倒な客”である。
「俺の婆ちゃんに塗ったんだぞ! 『若返る』って言ったじゃねえか!」
若返る。
そんな効能があるなら、吾輩が欲しい。
山腹の穴が若返るとは何だという話だが、気分の問題である。
男は布包みを振り回している。
中身は、通路の苔――濡れた古新聞である。
薬屋で買ったのだろう。
買った者は「薬」だと思い、売った者は「苔」だと思っている。
つまり誰も責任を取りたくない。
薬屋の親父が、腕を組んで渋い顔をしていた。
例の親父である。
渋い顔がさらに渋くなっている。渋柿のようだ。
「若返るなんて言ってない。『傷にいいかもしれない』とは言ったがね」
「“かもしれない”で金取るな!」
取る。取るのは人間である。
吾輩は取ったことがない。
テナント料すら取れない。管理職なのに。
群衆がざわついた。
ざわつきは、恐怖ではない。
怒りと不信のざわつきだ。
吾輩の腹に落ちてくるのは、砂みたいな味のする空気である。
口内炎に塩を擦り込まれる感じ。きつい。
「やっぱ偽物だったんだ」
「入口の苔は効かないって、最初から言われてたじゃない」
「樋口だ。樋口フタバが嘘ついたんだろ!」
名前が出た。
樋口フタバ。
彼女はこういうときに姿を消す。計算高い人間は、炎上の煙を嗅ぐと逃げ足が速い。
だが、この日は逃げ切れなかった。
「あ、いた! 逃げるな!」
群衆が入口の隅へ殺到する。
フタバは荷袋を抱え、壁際に追い詰められていた。
顔色は白いが、目は死んでいない。
靴底は薄いが、神経は図太い女だ。
「皆さん、落ち着いて。落ち着いてください」
フタバは両手を上げた。
その姿勢は降参だが、声の調子は営業のそれだ。
降参しつつ値引き交渉をするタイプである。
「私は“宝箱の苔”が効くって話をしました。入口の苔については……その、似てるから、いけるかなと」
「いけるかなで売ったのか!」
群衆の一人が、苔の布包みをフタバに投げつけた。
布包みは壁に当たり、ぐしゃ、と湿った音を立てて落ちた。
その音が吾輩の胃の底に響き、ひやりとする。
――やめろ。
吾輩の苔を投げるな。
それは部下だ。
部下を粗末に扱うな。
腹が立つ。腹が、きりきりする。
そのときだった。
群衆の後ろから、異質な足音が響いた。
カシャン、カシャン。
重く、規則正しく、迷いのない金属音。
空気が凍る。
ざわつきが止まり、シンとした静寂が落ちる。
吾輩の内臓が、その冷たさを「極上の冷菜」のように感じた。
「……ここが、そのダンジョンか」
男の声。低いが荒れていない。
言葉の端が、無駄に丁寧で、逆に怖い。
礼儀正しい人間ほど、怒ると面倒だ。
そして礼儀正しい冒険者ほど、死ぬと面倒だ。
吾輩は一瞬、管理職として胃が痛くなった。
だが同時に、腹が――鳴った。
ぐう、ではない。
もっと内臓の深いところで、鈍く鳴る。
“欲しい”という音だ。
吾輩は自分の好物が何かを、ようやく理解し始めていた。
その男の後ろに、二人、影が続く。
女戦士。手斧。
そして魔術師らしき細身の若者。
三人とも、入口の騒ぎを見ても目が泳がない。
装備の手入れが行き届いている。革ベルトのバックルまで磨かれているのがわかる。
素人ではない。
本物だ。
吾輩は管理職として、背筋(壁)を正したくなった。本社から査察が来たような緊張感だ。
「おい、あんたら、今は採取で――」
誰かが止めようとしたが、男は軽く会釈した。
「ここで揉めているのは、苔のせいだろう。苔が宝箱のものと通路のものとで違うなら、宝箱のものを見れば済む」
正論である。
正論は、ときに人間を黙らせる。
群衆が「……確かに」となる瞬間、吾輩の胃が少しだけ温まった。
ああ、正論の圧も、恐怖に似た味がする。
フタバが、目を見開いた。
「……奥に行くの?」
男は頷いた。
「行く。宝箱の苔を確かめる。もしそれが本当に効くなら、入口の苔と混ぜて売った者が悪い。効かないなら――」
男は群衆を見回し、淡々と言った。
「この騒ぎ自体が、滑稽だ」
滑稽。
その言葉は、それを生業にしていない人間にとっては、小さく刺さる。
群衆の頬が熱くなる。吾輩はそれを、胃の奥で味わった。
恐怖だけが食事ではない。羞恥もまた、なかなかいける。
吾輩は思う。
この三人が奥へ入れば、ようやく“主菜”が落ちてくる。
恐怖。苦痛。緊張。血の匂い。
ああ、やっとまともな食事ができる。
管理職として、部下へ緊急指令を飛ばす。
──総員、配置につけ。
──コウモリ。遊覧飛行は終わりだ。恐怖を届けろ。
──スライム。滑り台は閉鎖だ。酸を用意しろ。
──苔。……お前は、そこで見ていろ。
苔は返事をしない。
だが壁が少しだけ湿り、いつもより冷たい匂いがした。
苔も、わかっているのかもしれない。
ここからが、本番だと。
冒険者三人組が、入口の闇へ踏み込んだ。
足音が一つ、二つ、三つ。
重く、確かな音。
群衆は、入口で固まったまま、彼らの背中を見送っている。
行くな、と言いたい者もいる。
行け、と言いたい者もいる。
どちらも口にできない。
フタバだけが、小さく呟いた。
「……やばい」
やばい。
その一言が、久しぶりに“恐怖らしい恐怖”だった。
吾輩の胃の奥が、じんわり温まる。
口内炎の痛みが、一瞬だけ引く。
ああ。
吾輩は、これが好きなのだ。
安全で、金になる場所。
その看板が外れたとき、人間は初めてダンジョンを思い出す。
恐れるべきものを恐れる。
苔バブルは崩壊した。
だが吾輩の腹は、これから満たされるだろう。
――さて。
本物の客が来た。
職場は、ようやく仕事に戻る。
吾輩はダンジョンである。
今夜の悩みは、久しぶりの残業で部下が潰れないかどうか。
そして、あのプロたちがどれほどの「味」か。
楽しみで、また腹が鳴った。




