第二十八話 隣の領主の陰謀と、泥沼への招待状
平和とは、実に結構なものである。
争いがなく、憂いがなく、明日の食事の心配もない。生きとし生けるものが目指すべき理想郷、それが平和だと言われている。
だが、実際にその渦中に身を置いてみると、これが案外、退屈なのだ。
特に、吾輩のような「刺激」と「変化」を喰らって生きる存在にとって、凪のような日々は、緩やかな窒息にも似た倦怠をもたらす。
贅沢な悩みだとは承知している。だが、暇なのだ。圧倒的に暇なのである。
吾輩はダンジョンである。
先の「地底湖開放」および「温泉掘削」の成功により、吾輩の体内環境は劇的に改善された。
魔力の詰まりは解消され、適度な循環が生まれ、ダンジョン全体が心地よい活気に満ちている。
寒さも和らいだ。
にもかかわらず、第八階層の主、レッドドラゴンのヴォルグは、相変わらず香箱座りを決め込んでいる。
前脚を胸の下に畳み込み、巨大な顎を床にのせ、翼で全身を丸く覆うその姿は、威厳ある竜王というより、巨大な爬虫類型の饅頭である。
どうやら彼は、この姿勢がもたらす安心感と、腹部の保温効果に味を占めたらしい。
時折、侵入してきた冒険者がその姿を見て、「……寝てる?」「起こさないように帰ろう」と引き返していくのを見ても、彼は片目を開けるだけで動こうとしない。
完全に座敷童ならぬ、座敷トカゲと化している。
一方、中層エリアでは、客足の偏りが顕著になっていた。
第三階層、木霊が支配する「魔の森」。
ここが大盛況なのだ。
コダマが手塩にかけて育てた、毒々しくも美しい植物群、そしてそこで採れる希少な薬草や果物。それらを求めて、冒険者たちが連日押し寄せている。
スリルと実入りのバランスが良いのだろう。彼らは第三階層で狩りを楽しみ、採取をし、適度に罠にかかって悲鳴を上げ、満足して帰っていく。
そのあおりを受けて、第四階層から第六階層――リッチのパープルが管轄する死霊エリアは、閑古鳥が鳴く有様だった。
冒険者たちは第三階層で満足して帰ってしまうため、その先へ進もうという気概のある者が激減したのだ。
薄暗い通路を徘徊するのは、主を失ったスケルトンたちのみ。
だが、この静寂を誰よりも喜んでいる者たちがいた。
ブランカ(月影の魔狼)の子狼たちである。
彼らにとって、冒険者の来ない死霊エリアは、広大で安全な遊び場だ。
しかも、そこには彼らの大好きな「動く骨」がたくさんいる。
今日も今日とて、子狼たちはスケルトンの腕を咥えて走り回り、肋骨をハードルのように飛び越え、頭蓋骨をボール代わりにして遊んでいる。
スケルトンたちは抵抗もせず、されるがままだ。彼らにとって子狼は、上司のペットであり、アンタッチャブルな存在だからだ。
こうして、階層ごとの人口密度には偏りがあるものの、全体としては平和で、収益も上がっている。
まさに順風満帆。
だからこそ、吾輩はあくびが出るほど暇を持て余していた。
何か起きないか。
竜が暴れるでもなく、リッチが歌うでもなく、もっとこう、吾輩の根本を揺るがすような刺激的な事件は起きないものか。
そんな不謹慎な願いが通じたのか、あるいは単に厄介ごとは向こうからやってくるものなのか。
入り口のセンサーが、異質な集団の来訪を告げた。
五人のパーティ。
一見すると、装備の整った上級冒険者のように見える。
だが、吾輩の観察眼は誤魔化せない。
彼らの歩き方には、冒険者特有の「自由な荒々しさ」がない。軍人のように統率が取れ、隙がなく、そして目が笑っていない。
装備も、使い込まれてはいるが、全て同規格の高品質な軍用品だ。偽装してはいるが、どこぞの正規兵、それも特殊任務を帯びた工作部隊だろう。
彼らは第一階層へ足を踏み入れると、スライムや罠を無駄のない動きで処理しながら、小声で会話を交わし始めた。
ここが吾輩の「腹の中」であることも知らずに、密談をするとは愚かなことだ。
吾輩は聴覚を研ぎ澄ませた。
「……ここか。報告にあった『B+指定』は」
「魔素濃度、基準値を大きく上回っています。噂通り、資源の宝庫かと」
「忌々しいことだ。……隣の領主め、こんなドル箱を隠し持っていたとはな」
隣の領主。
その単語が出た瞬間、吾輩の思考回路が急速に回転を始めた。
この世界の経済構造について、少し解説せねばなるまい。
ダンジョンから産出される魔石や素材、そしてドロップ品といった利益は、そのすべてが冒険者の懐に入るわけではない。
基本的には、一割が国庫へ、三割がその土地を治める領主へ、そして残りの六割が冒険者とギルドの取り分となる。
管理運営の主体は冒険者ギルドであり、ダンジョンのランク付けや、危険度の判定、そして最悪の場合の「核破壊命令」も、ギルドが決定権を持っているのが通例だ。
だが、吾輩の場合は少し事情が異なる。
以前、国の研究員(あのオーガイ老人だ)によって「希少な特異点」として認定されたため、国から直接「研究補助金」が出ている。
さらに、コダマの作る高品質なポーション素材が飛ぶように売れ、領主(吾輩のある土地の主)は笑いが止まらない状況だ。
問題は、その「隣」である。
隣の領地にもダンジョンがあり、そこはこれまでポーション素材の産地としてシェアを独占していたらしい。
ところが、吾輩という新興勢力が現れ、より安く、より高品質な素材を大量に供給し始めたことで、彼らの既得権益が崩壊した。
隣の領主にとって、吾輩は目の上のタンコブ、いや、商売敵の工場そのものなのだ。
「隊長。……予定通り、調査を進めますか?」
「ああ。目的は『核』の位置特定、および防衛戦力の分析だ」
リーダー格の男が、冷徹に言った。
「我が主の命は絶対だ。『このダンジョンを無力化せよ』。……つまり、核を破壊し、ただの穴に戻すのだ」
殺害予告である。
明確な敵意。それも、冒険のような遊びではない、政治的かつ経済的な抹殺の意思。
本来なら、他領のダンジョンを勝手に破壊するなど、国際法違反も甚だしい行為だ。
だが、彼らは「事故」に見せかけるつもりなのだろう。
「調査中に暴走したため、やむを得ず破壊した」とでも報告すれば、ギルドも追認せざるを得ない。
――なるほど。
――暇つぶしにしては、少々刺激が強すぎる客が来たものだ。
吾輩のコアが、ドクンと熱く脈打った。
恐怖ではない。怒りだ。
吾輩を「資源採掘場」として見るのは百歩譲って許そう。だが、「商売の邪魔だから壊す」というのは、あまりに人間の傲慢が過ぎる。
吾輩はモノではない。生きているのだ。
家臣たち(魔物)を養い、経営努力をし、地域社会に貢献している善良な事業主に対し、この仕打ちはないだろう。
排除するか?
たやすいことだ。
ヴォルグを起こしてブレスを一吹きさせれば、彼らは消し炭になる。
あるいは、パープルに命じて、死ぬまで踊り続ける呪いをかけてもいい。
だが、それでは面白くない。
彼らはただの尖兵だ。ここで彼らを全滅させれば、隣の領主は警戒し、次は正規軍を送り込んでくるかもしれない。
そうなれば全面戦争だ。吾輩の平穏な日常が崩れる。
吾輩が望むのは、そんな泥沼の戦争ではない。
もっと陰湿で、精神的で、そして経済的な打撃を与える「教育」だ。
彼らの目的は「攻略」だ。
ならば、その希望を叶えてやろうではないか。
「もう少しで攻略できる」「あと一歩で核心に迫れる」という甘い蜜を垂らし、彼らを奥へ奥へと誘い込む。
そして、ギリギリのところで撤退させ、また再挑戦させる。
これを繰り返すとどうなるか。
彼らは「次こそは」と躍起になり、より多くの人員、より高価な装備、より多額の資金を投入するようになる。
いわゆる「コンコルド効果」、あるいは「サンクコスト(埋没費用)の呪縛」だ。
引くに引けない状況を作り出し、隣の領主の財政が破綻するまで、とことん搾り取ってやる。
吾輩は、全階層の魔物たちに、緊急指令を発した。
――総員、傾注せよ。
――これより「接待モード(ハード)」に移行する。
――殺すな。
――だが無傷で帰すな。
――「次は勝てる」と勘違いする程度に、ボロボロにして帰せ。
ゲームの始まりだ。
工作部隊は、第三階層に到達していた。
鬱蒼としたコダマの森。
彼らは、腰から奇妙な魔道具をぶら下げていた。「魔力探知機」だ。
周囲の魔力濃度を測定し、核の方角を割り出すための探査機器らしい。
「反応が強い。……核はこの下か?」
「いや、植物が魔力を吸っているせいで、ノイズが酷い。正確な位置が掴めません」
ざまぁみろ。
コダマの森は、天然のジャミング装置としても機能しているのだ。
「強行突破する。植物を焼き払え」
リーダーが指示を出す。
彼らは魔術師に命じ、火炎魔法を放った。
火が、巨大キノコに燃え移る。
――おのれ、放火とは。
――コダマが丹精込めた庭を。
当然、主であるコダマが黙っていない。
茂みの奥から、怒りに震える念話が響いた。
『……やりよったな、ワレ』
「誰だ!?」
『わいの庭で焚き火とは、ええ度胸や。……往生しまっせ、ホンマに』
地面が揺れた。
コダマが、植物たちの成長を一気に加速させたのだ。
燃え上がった木々が、火を纏ったまま触手のように動き出し、工作員たちに襲いかかる。「ファイア・トレント」の即席誕生である。
「なっ、植物が動くだと!?」
「火が効かない! いや、火を武器にしている!?」
工作員たちは狼狽えた。
焼けた菌糸が鞭になり、燃える胞子が雪のように舞った。
想定外の反撃。
だが、彼らもプロだ。即座に陣形を組み直し、氷結魔法で対抗する。
――コダマ、そこまでだ。
吾輩はストップをかけた。
――彼らをここで全滅させてはいけない。第四階層へ通せ。
『チッ……これからが楽しいとこやのに』
コダマは不満げに舌打ちしたが、主の命令には逆らわない。
植物たちの攻撃が、ふっと緩んだ。
その隙を突いて、工作員たちは森を突破し、下り階段へと駆け込んだ。
「はぁ、はぁ……! 振り切ったか!」
「異常だ、あの植物群。報告になかったぞ」
「だが、これで第三階層は突破した。次は第四階層……死霊エリアだ」
彼らは、傷ついた身体を引きずりながら、第四階層へと足を踏み入れた。
そこは、静まり返っていた。
本来なら、スケルトンやゾンビが徘徊する危険地帯だ。
だが、今は「子狼たちの遊び場」になっているため、主要なアンデッドたちは、物陰で子供たちの相手をさせられているか、あるいは既にバラバラにされて(遊ばれて)転がっている。
工作員たちは、その静寂を「過疎」と勘違いした。
「……静かだ」
「敵の気配がありません。……やはり、第三階層に力を割きすぎて、ここは手薄になっているのか?」
「チャンスだ。一気に抜けるぞ」
彼らは警戒を解き、速度を上げた。
吾輩は、心の中で冷笑した。
甘い。
静かな水ほど深いということを、彼らは知らない。
彼らが通路の十字路に差し掛かった時だ。
右手の通路から、小さな影が飛び出してきた。
子狼だ。
吾輩は、あらかじめ子狼をその十字路へ誘導しておいた。
「手薄」に見せる餌として、これ以上の適任はない。
人間の子供ほどの大きさの毛玉が、楽しそうに何かを追いかけて走ってきた。
彼らが追いかけていたのは、「スケルトンの頭蓋骨」だった。
頭蓋骨が乾いた音を立てて、工作員たちの足元に転がった。
「……狼?」
「幼体か。……たわいない」
一人の工作員が、邪魔だとばかりに子狼を蹴り飛ばそうとした。
その足が、子狼の鼻先に届く寸前。
重い衝撃音が響き、工作員が真横に吹き飛んだ。
壁に激突し、ずるずると崩れ落ちる。
「なっ……!?」
「何が起きた!?」
彼らが目を見開いた先。
闇の中から、ゆらりと現れた巨大な影があった。
銀色の毛並みを月光のように輝かせ、蒼い瞳に冷酷な殺意を宿した、美しき魔獣。
ブランカである。
『……我が子に、触れるな』
低い唸り声と共に放たれた威圧だけで、工作員たちの足がすくんだ。
これは「階層主」クラスの圧力だ。
手薄どころではない。
ここは、最凶の母親が目を光らせる「託児所」だったのだ。
「撤退! 撤退だ!」
リーダーが叫ぶ。
「このランクの魔獣は想定外だ! 装備を整え直す必要がある!」
彼らは、仲間の肩を担ぎ、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
ブランカが追撃しようとするのを、吾輩は再び止めた。
――よし、帰せ。
――恐怖というお土産を持たせてな。
彼らは命からがら、ダンジョンを脱出した。
だが、彼らの手には「魔力探知機」のデータが残っている。
そこには、「第三階層までは突破可能」「第四階層には強力な個体がいるが、そこさえ抜ければ……」という、希望的観測に基づいたデータが刻まれているはずだ。
彼らは必ず戻ってくる。
「次は勝てる」という幻想を抱いて。
そして、その次には、さらに強力な部隊と、高価なマジックアイテムを持ち込んでくるだろう。
吾輩は、彼らが落としていった高品質な軍用ナイフを、スライムに回収させながらほくそ笑んだ。
隣の領主よ。
せいぜい準備してくるがいい。
こちらには、まだ「リッチ」も「ドラゴン」も、そして「日焼けしたイカ」も控えているのだ。
貴様の財布が空になるまで、たっぷり遊んでやろうではないか。
吾輩はダンジョンである。
平和な午後は終わりを告げた。
これより始まるのは、血と汗と、そして金貨が飛び交う、愉快な消耗戦である。
……さて、まずはコダマの機嫌を直すために、肥料でも差し入れてやるか。




