第二話 コウモリはフンと、苔の価値
宝箱に何を入れるべきか一晩悩んだ。
吾輩はダンジョンである。
悩んだと言っても、人間のように寝返りを打ったりはしない。吾輩は寝返りを打つと地震になる。
悩みは、内臓に溜まる。第四通路の奥、地下水が少し淀むあたりが、どうにも重苦しい。あそこが思考器官なのかもしれない。自分の身体なのに、どこで考えているのか分からない。
まず、「宝を入れる」という選択肢は早々に消えた。
金貨も宝石もない。倉庫にあるのは骨と苔と、いつのかわからない乾いたフンだけだ。
それに癪である。勝手に入ってきた連中に、こちらが身銭を切って(銭はないが)接待してやる義理はない。
空のまま、という案もあったが、二度続けると芸がない。吾輩はダンジョンであるが、エンターテイナーとしての矜持も少しはある。マンネリは敵だ。
そこで白羽の矢が立ったのが、苔だった。
苔は、吾輩の内側に無数に生えている。
湿気と暗闇と放置さえあれば、勝手にノルマを達成して増えていく。管理不要、給与不要。理想的すぎる部下だ。
欠点は、やる気がありすぎることだ。増えすぎて通路をヌルヌルにし、冒険者を転ばせ、その拍子に壁を削らせる。床が削れると、吾輩の腰に来るのだ。
――苔。
吾輩は、意識を向けた。
――おい。宝箱への出向を命じる。
苔は返事をしない。だが、じわりと湿度が上がった。「御意」という意味だと解釈する。部下の意思は、上司が決めてやるのが優しさだ。
――ただし条件がある。フンを持ち込むな。身一つで行け。
苔は、さらにじわっと広がった。わかっているのかいないのか。
吾輩は宝箱の内部を、福利厚生として少しだけ居心地よくした。湿度を上げ、石英片を敷き詰め、VIP待遇の環境を整えた。
すると苔は、嬉々として入り込んだ。詰める、というより、あふれ出した。
――おい、入れすぎだ。八割でいいと言っただろう。
苔は、みっしりと九割五分まで埋まった。
意思疎通というのは、いつもこうだ。指示は伝わらず、無駄な熱意だけが空回りする。
――……まあいい。
妥協は管理職の基本スキルである。
蓋を閉めた瞬間、吾輩の腹が少し軽くなった。仕事を一つ片付けた(物理的に片付けた)達成感。これは悪くない。
翌日。
扉が開いた。
ギギ……。
胃が、きゅっと縮む。
出勤の時間だ。
今回は三人ではなかった。前回のヘッポコトリオに、もう一人増えている。
「で、ここが例のダンジョンか」
新顔は、ローブを着た男だった。眼鏡をかけ、いかにも「私は理性的です」という顔をしている。一番面倒なタイプだ。
「ギルドで噂になってたんですよ。“空箱があるのに、罠が見当たらない不気味な穴”って」
不気味な穴。
失礼な言い草だが、話題になっている事実は、腹の奥をくすぐった。
バズる、というのはこういう感覚だろうか。承認欲求が満たされる音がする。
「慎重に行こう」
革鎧の男が言う。前回より腰が引けている。学習能力があるようだ。
一行は進む。
「湿度、昨日より高くないですか?」
布の女が鼻をすする。
――高いぞ。
吾輩は胸を張った。苔のための空調管理だ。電気代はかからないが、気苦労がかかっている。
コウモリも、空気の読める位置を飛んでいる。完璧ではないが、昨日の今日にしては上出来だ。
――よし、その調子だ。
褒めた瞬間、コウモリは調子に乗って旋回し、白いものを落とした。
――褒めるとこれだ。
吾輩の腰(床)にシミができる。教育的指導が必要だが、今は客がいる。我慢だ。
一行は小部屋に到着した。
中央には、自信作の苔箱。
「……また箱か」
荷物の多い男が言う。
「開けない方がいいかも。どうせまた空ですよ」
ローブの男が、眼鏡を光らせて近づいた。
「いや、開けましょう。ダンジョンは、同じ手を二度使うとき、意味を変えてくるものです」
意味。
買いかぶりである。吾輩は何も考えていない。ただの在庫処分だ。
「じゃ、チェックします……魔力反応、あ、これ」
「これ?」
「植物系ですね。微弱だけど、生きてる」
生きている。そうだ、苔は生きている。吾輩のかわいい部下だ。
「薬草系か?」
布の女が、期待に声を弾ませた。
吾輩は、その瞬間、胃酸が逆流するような感覚を覚えた。
――違う。
――やめろ、ハードルを上げるな。
だが、言えない。部下が勝手に「期待の新人」扱いされているのを見守るしかない。心苦しい。
「開けましょう。慎重に」
蓋が、ゆっくりと開いた。
中身は、苔。
みっしりと、圧倒的な、苔。
沈黙。
ダンジョンの空気が凍る。
「…………苔?」
「苔っすね」
「え、これ、ハズレ?」
ハズレ。
その言葉に、吾輩のプライドが傷ついた。
手塩にかけた部下を、ハズレ扱いとは。お前たちの目は節穴か。この緑の艶を見ろ。
しかし、ローブの男だけは違った。彼は箱の中を覗き込み、ブツブツと呟いた。
「待ってください。この苔、見たことがない」
苔が、褒められたと思って湿気を放出した。
「ほら、この葉の形……既存の体系に当てはまらない」
「じゃあ、レア素材?」
「可能性はあります。錬金術の触媒になるかも」
触媒。
やめろ。部下を鍋で煮込むな。
「持って帰ります?」
「重くないか?」
「苔っすよ?」
吾輩の内臓がじわじわと締め付けられる。
宝箱が空になる。苔が持っていかれる。それは、吾輩の一部が持ち去られるということだ。
――おい、苔。
吾輩は念を送った。
――あまりアピールするな。無能なふりをしろ。
だが苔は、逆にいきいきと輝いた。自分を安売りするなと言いたい。
荷物の多い男がナイフを取り出す。
「じゃ、ちょっと採取しますね」
ナイフが、苔の表面を削ぐ。
ぞわり、とした。
自分の皮膚を剃刀で撫でられたような、不快な寒気。痛みではないが、生理的に無理な感覚。
吾輩は反射的に、床を少し湿らせた。嫌がらせではない、自己防衛だ。
つるっ。
「うわっ、ぬるっ!」
男の手が滑り、苔の中に突っ込んだ。
「……うへえ、粘液すごいっす」
ローブの男が頷く。
「保存性が高い証拠だ。やっぱり、かなり希少ですよ」
評価するな。
吾輩の胃がキリキリと痛む。
だが同時に、どこか誇らしいのも事実だ。「うちの部下、実は優秀なんですよ」と言いたい気持ちと、「引き抜かないでくれ」という気持ちがせめぎ合う。複雑な親心である。
結局、彼らは小瓶一つ分だけ苔を採取し、宝箱を閉めた。
「全部持ってくのはやめとこう」
「また来ればいいし」
また来る。
その言葉が、精神安定剤のように腹に染み渡る。
扉が閉まり、静寂と闇が戻る。
――苔。
吾輩は呼びかけた。
――評価されたな。
苔は、満足げに湿度を上げた。
まったく、調子のいいやつだ。
――次は、もう少し粘り気を抑えろ。顧客が引いていただろう。
コウモリが、天井でキィと鳴いた。
お前は関係ない。あとでフンの始末書を書かせてやる。
吾輩は、内臓の鈍痛を感じながら、少しだけ満足していた。
金でも剣でもない。ただの苔だ。
それで人間が一喜一憂し、勝手に物語を作り上げる。
悪くない。ダンジョンの仕事としては、上出来だ。
吾輩はダンジョンである。
今日も今日とて、部下の管理と顧客対応に胃を痛めている。
人間社会と、大差はない。
――ただし、どれだけブラックでも、辞表は出せないのだが。




