第一話 三人の冒険者と空の宝箱
吾輩はダンジョンである。
こう名乗ると、いかにも最初から威厳と自覚を備えた存在のようだが、実情はだいぶ違う。
吾輩はついさっきまで、ただの地下の空洞だった。
湿っていて、暗くて、コウモリが勝手に住み着いているだけの、放置された物件である。
意志も目的も、もちろんなかった。
それが、ある瞬間から急に「体調」が気になり始めた。
まず、違和感があった。
なんというか、腹の奥がもぞもぞする。腹という言い方も変だが、吾輩には確かに腹がある。第三通路と第四通路の合流地点、あの辺りだ。普段は地下水がちょろちょろ流れているだけの場所が、今日は妙に落ち着かない。
そして……
ころん。
小石が一つ、床を転がった。
その振動が、吾輩の内側に「ずん」と来た。
ただの振動ではない。胃の裏を指で弾かれたような感覚だ。思わず身構えたくなったが、身構えるための筋肉がない。代わりに、通路の湿度が一瞬だけ上がった。
――いまのは、何だ。
この「何だ」と思った瞬間、吾輩は気づいた。
――あれ?
――「何だ」と思っている。
――思っているのは……吾輩か?
その瞬間、世界に「内側」と「外側」が生まれた。
今までただ流れていた地下水は、胃液みたいに感じられ、天井から落ちる水滴は、不快だった。
正直に言うと、気持ちが悪かった。
人はよく「自我の芽生えは美しい」などと言うが、あれは嘘だ。自我の芽生えは、だいたい胃もたれに似ている。
吾輩は自分の身体を確認した。
第一通路は右腕っぽい。狭くて、少し曲がっている。第二通路は左腕だが、こちらは太くて短い。第三通路は……これは脚だな。たぶん。
中央広間は内臓の集積所だ。湿度が高いのも、骨が落ちているのも、だいたい内臓なら仕方ない。
そうやって自分を把握しているとき、外界との接点――正面の扉が、ぎしりと鳴った。
ギギ……。
この音は、くすぐったい。
蝶番の振動が、鼓膜に直接響くような感覚だ。吾輩に鼓膜はないが、似たようなものがあるらしい。
扉の隙間から光が差し込んだ。光は、目に痛い。胃の奥がきゅっと縮む感じがする。人間が急にカーテンを開けられたときの、あの感じに近い。
入ってきたのは、人間だった。
三人。
金属の鎧を着た男、布の服の女、やたら荷物の多い男。
「うわ、思ったよりジメッとしてるな」
金属の男が言った。
ジメッとしている。吾輩の努力の結晶を、ずいぶんな言い草である。
「ダンジョンだからね。湿度管理とか期待しちゃだめよ」
布の女が応じる。
管理。
吾輩は管理されていない。放置だ。勝手に湿っているだけだ。
荷物の多い男は、入るなり壁に近づき、手のひらで苔を撫で始めた。
「おお……いい苔だ。新しいダンジョンっすね、これ」
いい苔。
その言葉を聞いた瞬間、吾輩の胃がきゅっと締まった。
評価された。苔を。吾輩の苔を。
褒められ慣れていない存在は、評価に弱い。特に、自分でも価値があるとは思っていなかったものを褒められると、心臓に悪い。湿度が一段階上がったのは、動揺のせいだ。
「おい、変なことしてないで先行け」
金属の男が言う。
「いや、ダンジョンの壁触ると、性格わかるんすよ」
「そんなオカルト信じてるから、お前は罠に引っかかるんだ」
罠。
吾輩はその言葉に、少し胸が熱くなった。
罠はある。だが、今のところ使い方がわからない。包丁を渡された幼児みたいな状態である。
三人は第一通路へ進んだ。
金属の男が先頭、布の女が真ん中、荷物の多い男が後ろ。
――おい、コウモリ。
吾輩は、天井にぶら下がっている住人に声をかけた。
――もう少し右に寄れ。
――そこだと、フンが通路の真ん中に落ちるだろう。
コウモリは、きゅるきゅると鳴いて、少しだけ位置をずらした。
ずらしたが、微妙に違う。
――違う。
――右だと言っただろう。
――それじゃ宝箱の前に落ちる。
コウモリは理解しない。
部下はだいたいそうだ。言葉が通じない。こちらの意図を汲まない。だが勝手なことだけはする。
吾輩はこの時、管理職という役職が、なぜ胃を悪くするのか理解した。
金属の男が歩きながら言う。
「よし、ここは基本構造だな。一本道。左右の壁、要注意」
「魔力反応、今のところ弱めですね」
布の女が言う。
「新規生成ダンジョンだと、だいたい最初はチュートリアルっすよ」
荷物の多い男が言う。
チュートリアル。
吾輩は教育用コンテンツではない。だが、勝手にそう思うなら、それでいい。
金属の男が、天井に頭をぶつけた。
ゴン。
その衝撃が、吾輩の頭蓋に直接響いた。
脳味噌の裏側を、濡れた指でなぞられたような感覚。
不快なはずなのに、なぜか「ここに脳がある」と確認させられる。悪くはない。
――いや、むしろ心地よい。
思わず、天井をほんの数ミリ下げた。
「いてっ!?」
「ちょ、天井低くないですか?」
「ダンジョンが成長中なんだろ。気をつけろ」
成長。
吾輩は成長していない。ただ、気分で縮めただけだ。
小部屋に入ると、中央の宝箱が見えた。
宝箱の存在は、吾輩にとっても謎だ。最初からあった。内臓に石が詰まっているような違和感だが、出し方がわからない。
「来たな」
金属の男が言う。
「チェック入ります」
荷物の多い男がしゃがみ込む。
「糸なし、床の沈みなし……あー、魔力反応、なんかムズムズしますね」
ムズムズ。
それは吾輩だ。
内臓を指でつつかれている感覚。痒い。
布の女が小声で言う。
「こういう時、だいたい空なんだよね……」
正解だ。
だが、それを言われると少し腹が立つ。
吾輩は、水滴のタイミングをずらした。
ぽた。
冷たい水が、荷物の多い男の首筋に落ちた。
「うわっ!」
手が滑り、宝箱が勢いよく開く。
中は、空。
沈黙。
「……マジか」
「罠じゃない?」
「いや、ただの空箱っすね……逆に怖い」
怖い?
吾輩は怖がらせるつもりはなかった。ただ、痒かっただけだ。
三人が部屋を出ようとしたとき、吾輩は扉を閉めた。
バタン。
その衝撃が、腹に響く。
胃をぎゅっと縛られる感じ。少し強くやりすぎたかもしれない。
「え?」
「閉まった?」
「誰か触った?」
――触っていない。
――吾輩だ。
言えないのが、もどかしい。
代わりに、第二通路からコウモリを一匹、飛ばした。
「うわあああ!」
布の女が悲鳴を上げ、杖を振り回す。
魔法が暴発した。
びりっ。
空気が裂けるような感覚。
吾輩の内臓に、炭酸水をぶちまけられたような、しゅわしゅわした刺激が走る。
――痛い。
――いや、痒い?
――どっちだこれは。
金属の男が叫ぶ。
「落ち着け! コウモリだ!」
コウモリは慌てて飛び回り、結果、宝箱の上にフンを落とした。
――だから言っただろうが。
吾輩は深くため息をついた。
管理職は、現場と経営の板挟みである。
結局、三人は撤退を決めた。
「今日は引こう」
「偵察だけで正解っすね」
出口へ向かう背中を見送りながら、吾輩は思った。
――なるほど。
――人間は、騒がしくて、勝手で、だいたい思い通りにならない。
だが、それは部下も同じだ。
コウモリも、スライムも、骨も、言うことを聞かない。
吾輩はダンジョンである。
管理職であり、内臓の塊であり、観察者だ。
扉が閉まり、闇が戻る。
胃のあたりが、少し落ち着いた。
――さて。
次は、宝箱に何を入れるべきか。
また苔か、あるいは骨か。
それとも、わざと価値のわからないものを。
考えるだけで、腹が少し楽しくなった。
吾輩はダンジョンである。
名前はまだないが、やることは、だいたい決まった。
彼らは、また来る。
そして吾輩は、また胃を痛める。
コウモリは言うことを聞かず、宝箱は空のままで、天井は気分で上下する。
悪くはない。
社会とは、だいたいそんなものだ。




